四 願いの代償

まだ、狭間ができたばかりの頃。長年続いてきた戦争がようやく終わり、それぞれの国が少しずつ国の再建をしている中でも、狭間の森の住人である少女にやることなどなく、毎日森の中でのんびりと暮らしていた。夏の池に咲く蓮のような色の目と、白銀の髪を持つ少女は、自分の術を使って狭間の外の状況を正確に把握していた。

(どうやら、胡蝶の噂はかなり広まっているらしい。王たちは焦っているだろうな)

だが、両国の混乱など興味はない。そもそも、胡蝶を生み出す原因となったのは、有明国と黄昏国の両方なのだ。二つの国の自業自得、と結論付けた胡蝶は、戦争の兆しを知っていた。この狭間の領有をめぐり、再び二国間で争いが起きるかもしれない…。胡蝶としては、さすがにその事態は避けたかったが、だからといって干渉する気もなかった。

「何だったら、別の場所に移っても問題はないだろうし」

この島の外には広い海があり、その更に先には見たことのない国々があるという。胡蝶はそれを見てみたかった。だが、島の外に出るためには許可が必要だ。そして、その許可を得るためには身分の証明が必要である。しかし、胡蝶である少女には身分というものがないし、そもそもそんな自由など存在しない。たとえ外に出ようとしても、胡蝶と分かった瞬間、この狭間の森に帰されるのは目に見えている。

胡蝶は他者から放置された存在であるが、それと同時に夙夜の島という名の虫籠に閉じ込められた存在でもあるのだ。そんなばからしい現実に胡蝶は苦笑した。

(胡蝶は他の人の願いなら何でも叶えられるのに…、何で自分の願いは何一つ叶わないのかな)

胡蝶はため息をつくと、しょんぼりとした様子で家へと帰って行った。


だが、胡蝶がのんびりとしている間に、二国間の緊張状態は更に高まっていった。その頃にはさすがに二人の王たちも動き始めていた。恐らく、今再び戦争を始めてしまうとさすがにまずい、と分かっていたのだろう。戦争が終わった後、二人の王は互いに距離を置いていたが、黄昏国の王が妖術を使って有明国の王を呼びだす形で、密談が行われた。どうやら互いに互いの顔を見たくなかったが、家臣に懇願されて渋々と対面することにしたようだ。話の最中も、時折話題が逸れて、悪口の応酬になりかけていた。それらの様子を胡蝶の術で眺めていた狭間の少女――夏蓮かれんはひとしきり笑った後で、こう予感した。

――恐らく彼らは、胡蝶の力を借りようとする。そして、自分は彼らの願いを叶えるのだろう。

だが、夏蓮が死んだ後も、きっと胡蝶は生まれ続ける。誰かの願いを叶えては死に、また新たな胡蝶が生まれる…。その繰り返し。初代胡蝶である夏蓮にもその原理のすべては分からない。だが、そうであるということだけは感覚で知っていた。

(…私は胡蝶。誰かの願いを叶えて死ぬ定めにある。そのことは分かっていたが…、後の時代の胡蝶たちもそれを受け入れられるかは誰にも分からない)

この力は、ある意味では理不尽なものだ。胡蝶は誰かの願いを叶えること以外で死ぬことはできず、「胡蝶」という特殊性から有明や黄昏の輪に入ることもできない。狭間の中で孤独に死んでいくことしかできないのだ。誰かにその存在を覚えてもらうことすらできない。

そんな人生に何か意味を見出すことができるのか…、それは胡蝶次第で、夏蓮はそれを見つけることができなかった。夏蓮は日々をただ無意味に過ごすことしかできていないし、そうかと言って狭間の外に出て行く勇気も持っていない。たとえ籠の扉が開いていたとしても、外に出て行くのが怖くて、いつまで経っても籠の隅で怯える蝶なのだ。

だが、厄災によって生まれた存在である胡蝶が、新たに起こるかもしれない災いを阻止する切り札になるのだとしたら…、それも悪くないのかもしれない。

(そんなことを考えているうちに、王たちは結論を出したみたい。…なるほど、夙夜の島の人々から、胡蝶に関する記憶を消す…。なかなか難しいことを考えだしたな)

夏蓮はふっと微笑んだ。こんな大規模なことは、胡蝶にしかできない芸当だ。この後、二人の王がこの森にやって来る。最近は胡蝶に願いをかなえてもらおうとする輩が多く、それが鬱陶しかったので結界を作りだしていたが、一時的にそれを解かなくては。これで、王たちの願いを叶えれば…。夏蓮は胡蝶という面倒な役目から解放される。それはきっと、自由になるのと同じだろう。そうすれば…、胡蝶の身では見たくても見られなかった、この島の外の世界にも行けるかもしれない。夏蓮は二人の王に会うため、立ち上がった。


――その日、白銀色の光が狭間の森を満たした。


初代胡蝶・夏蓮は、胡蝶の存在を人々の記憶からなくすことを代償に、消えた。

それは、胡蝶の中で受け継がれてきた史実だ。何か記録や手記が残っているわけではない。だが、その事実は、胡蝶が胡蝶として生まれた瞬間に「分かる」のだ。菫もその例外ではなく、夏蓮の物語は、まるで自分のことのように知っている。この話を思い出すたびに菫が思うのは、夏蓮が胡蝶の役目を果たした後、本当に自分が願った通り、魂となって別の国へと渡ったのかということだった。誰かの死後のことなんて、さすがの胡蝶でも分からない。

仮に夏蓮が自由を手に入れていた場合、菫も願い事を叶えた後はそうなるということだ。けど、そうなった場合…、自分はどうするのだろう。菫には執着も願望もない。こうしてみたい、と思う何かがあるわけでもなく、気に懸けている人がいるわけでもない。それなら…、例え自由になったとしても、あまり自分には意味のないことだと思わなくもなかった。



「……菫?今、俺の話を聞いてなかっただろ?」

そう言われて菫は我に返った。翠雨がむっとしたような表情で自分を見ている。…どうやら、自分は考え事をしていたらしい。翠雨の翡翠色の目が、夏を思わせたからだろうか。菫は蓮という花を見たことがなかったが、夏に咲くものだということだけは知っていた。

「そんなことないけど。胡蝶に、半妖の自分をちゃんとした人間にしてほしい、って頼みに来たって話じゃなかった?……え、違うの?」

「やっぱり聞いてなかった…。そうじゃなくて、さっきの妖のせいで俺の持ち物が壊れたから予備を取りに行くけど、菫はどうするのか、って聞いたんだよ」

どうやら話はかなり先に進んでいたらしい。菫は謝りつつも考えた。

(…持ち物が何なのか知らないけど、しばらく胡蝶探しを続けるつもりなのかな…)

人や妖がここに入って来ないようにするためには、術の修繕が必要だ。だが、狭間に張り巡らされた術は、一か所を修復するだけでも非常に時間がかかる。網目のようにあちこちと繋がっているため、それを考慮しながら行わなければならないのだ。それさえ済めば良いのだが、それまでは、ほころびさえ見つけてしまえば、簡単に中に入ることができてしまう。そして、翠雨はそのほころびを見つけてしまっているので、入ろうと思えばいつでも入れるのだ。

自分の用事に加え、翠雨のこの先の動向を確かめる必要がある、と判断した菫は、

「一緒に行く。ちょっとやらないといけないことがあるからね。いいかな?」

そう尋ねた。翠雨は疑う様子もなく、あっさりとうなずく。ありがたいと思いつつも、翠雨の危機管理能力が不安になった。一応、菫は先ほど翠雨を助けたが、初対面であることに変わりはない。そんなに簡単に信じてしまっていいのか…、と菫は思ってしまったのだった。

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