十二 白銀の夢
「…どうして、今まで胡蝶だってことを黙っていたんだ?」
翠雨はしばらく衝撃から抜け出すことができなかったが、どうにかそれだけ言った。でも、彼女が胡蝶ならば納得できることもある。それは…、翠雨が願い事はないのかという質問に対する菫の答えだ。あの時菫は…、自分の願いは胡蝶に叶えられない、と言っていた。それはきっと、自分で自分の願い事は叶えられない、と言いたかったのだろう。だけど、それでも分からないこともある。菫は海の外の世界を見たい、と言っていた。それくらいであれば叶えられそうなのに…、どうしてそれさえも諦めているのだろう。一方の菫はその言葉に少しだけ驚いた。菫が胡蝶と知ったのだから、すぐにでも願いを叶えてほしいと言うのではないか…。そう思っていたのだ。菫は取りあえず翠雨に座るように促すと、答えた。
「…私は、誰かの願い事を叶えたくないの。胡蝶はいつも一人しかいないからね。全員の願いは叶えられない。それって不平等なことじゃない?それに…、願いには『代償』があるから」
正体がばれた直後は動揺していたが、話しているうちに少しずつ落ち着いてきた。綴のせいでこんなことになってしまったわけだが、よくよく考えてみると、もしかしたらこんなに自分のことについて話したのは翠雨が初めてかもしれない。それほど菫の周りには人がいなくて…、いたとしても、こういったことを話せる相手ではなかった。そもそも、菫は自分が胡蝶であることを明かしてこなかったのだ。そんな自分の変化に菫は少し戸惑っていた。
「…代償?それって、どういう…。願い事をした人に何かしらの代償があるということか?」
「逆だよ。誰かの願いを叶えた胡蝶は、消える運命にある。…絶対に、抗えないの」
菫はあえて淡々と告げたが、翠雨は衝撃を受けたようだった。願い事を叶える代わりに目の前の人物が死ぬというのだから、当然の反応ではある。翠雨は首を横に振った。
「俺は…、そんなこと望んでない。君が消えるなんて…」
歴代の胡蝶のほとんどは、このことを言わずにただ相手の願いを叶えていたらしい。だが、菫は絶対にそんなことはしないと決めていた。もし相手が、こちらの犠牲が当然のものだというような態度を取ったら許せない、と思っていたからだ。そんな人の願いは絶対に叶えたくない。菫が死んでも、きっと次の胡蝶は生まれる。だけど、何も残さずに死にたくはなかった。少なくとも、願いを叶えた誰かの記憶には残っていたい。それくらいは望んでもいいはずだ。胡蝶は自身の願いを叶えることなんてできないのだから。
「…まあ、でも、あなたの願いを叶えてもいいよ。どうせいつかは叶えるんだから」
ここで彼の願い事を叶えなかったとしても、他の誰かの願い事を叶える日は必ずやって来る。それなら別に今でも構わない。――翠雨だったら、叶えてもいいかもしれない。綴の言うとおりになったことだけは気に食わないが…。綴に文句を言いたかったな、と思っていると、
「でも…、君は君自身の願いを諦めるのか?この島の外の世界を見てみたいって…」
翠雨は悲しそうだった。せっかく自分の願いが叶うというのに、何故か少しも嬉しくなさそうで…。むしろ菫のことを案じていた。…確かに、これは翠雨にとっては衝撃的なことかもしれない。でも、菫にとってはいつか訪れる瞬間だった。胡蝶として生まれたその日から、そうだと知っていた。だから、今まで自分の望みなど考えてこなかった。そんなものがあったところで叶うはずなどないし、その事実に苦しむのも嫌だった。それなのに…。
「どちらにしても、胡蝶は胡蝶の願い事を叶えられない。だから…、いいの」
それなのに、今になって自分のやりたいことが次々と思い浮かぶのは何故だろう。…歴代の胡蝶も、こんな気持ちを味わったのだろうか。そんな感傷に浸りそうになる自分を振り払い、菫は胡蝶の術を展開した。その場にふわりと風が吹き、二人の間に白銀の胡蝶が現れる。胡蝶はひらひらと動き回りながら、その光を強くしていく…。そうして一定程度まで光が強まった後で翠雨の指先にとまった。菫はいつもと変わらない調子で告げた。
「その胡蝶に自分の願い事を念じれば叶うよ。私は消えちゃうけど、地図は持っているよね?それがあれば、この森の出口まで迷わずに行けると思うから」
翠雨はじっと翅を休める胡蝶の姿を見つめた。これで自分の願いが叶う。自分が普通の人間になれば、もう正体が知られてしまうという不安に怯える必要はなくなる。誰かを傷つける心配もない。だけど…、その代わりに目の前の少女は消えてしまう。孤独な世界しか知らないまま。そう思ったら、自分の願い事はすぐに決まった。この選択を後悔するつもりはない。翠雨が心の中で願った瞬間、胡蝶が発する白銀色の光が急激に強くなった。思わず目を閉じる。
しばらくすると、光は徐々に弱まっていき、そこでようやく翠雨は目を開けた。そして、その目の前には…、呆然と目を見開く菫がいた。菫は珍しく混乱しているようだ。
「あれ…。私、消えてない?もしかして、術が失敗した?翠雨、願い事したよね?」
翠雨がうなずくと、菫は更に怪訝そうになって色々な術を試しはじめた。
「うーん…。胡蝶の術だけ使えない。他の術は普通に使えるのに。…ということは、やっぱり成功したってこと?でも、身体は残っているし、意識もちゃんとあるし…」
ぶつぶつとつぶやいて困惑している。初めて見るそんな菫の様子に、翠雨は思わず笑ってしまった。菫はむっとしたような表情でこちらを見る。
「笑いごとじゃないよ。翠雨、あなたは何を願ったの?」
「……君が、胡蝶の役割から解放されて、外の世界を見られるように」
菫はその言葉の意味を一瞬理解できなかった。だって、翠雨は自分の願い事を叶えたかと思ったから…。ちゃんとその意味が分かったところで菫ははっとした。つまり、翠雨は自分の本来の願いを諦めたことになる。菫が胡蝶という存在から抜け出す代わりに…。
「な…、馬鹿じゃないの、願いを叶える機会は一度だけなのに…」
「ああ。それでも後悔はしてない。俺は、君がこの狭間の森の外で自由に生きる姿を見たいと思ったんだ。それだって、ある種の願いだろう?」
翠雨は笑って手を差し伸べた。初夏の日差しのような、明るい表情で。一緒に行かないか、と誘うように。それを見て菫はふと納得した。どうして自分が彼の願いを叶えようと思ったのか…。それは、翠雨の陽だまりのような笑みとその優しさが、菫の胡蝶としての孤独を救ってくれたからだったのかもしれない。菫は笑い返して、翠雨の手を取った。
「…そうね、あなたといるのも悪くないかもしれない」
――半年後。二人の姿は黄昏国の港にあった。昔の黄昏国は海外との貿易というのを全くしていなかったのだが、現在は少しずつ他の国との交流などを始めており、その玄関口となっていたのがこの港だった。あの後、菫は綴に会いに行って経緯を説明し、出国許可書をもらったのだ。その説明が終わった際の綴は珍しく驚きをあらわにしていて面白かった。
そんなことを思い出しつつ、菫はふと狭間の森の方角を見た。菫が願いを叶えた後も、新たな胡蝶は生まれていない。それは、今回の願いが特殊だったせいだろう。本来であれば願いを叶えたら死ぬはずの胡蝶が死ななかったのだから。もう胡蝶は生まれないのかもしれないし、あるいは胡蝶の役目から解放された菫が寿命で死んだ後に生まれるのかもしれない。どちらにしても、これは胡蝶と狭間にとって新たな時代の始まりとなり得る。
「菫、そろそろ行こう!」
翠雨の声で我に返った。菫は振り向いて、海の向こうへと旅立つ船を見つめた。
――籠の扉は開いた。諦めと共に籠の隅で息をひそめていた胡蝶はもういない。開いた扉から差し込んだ光を頼りに、外の世界へと飛び出そう。
菫は白銀色の髪をなびかせて、翠雨と共に新たな世界への一歩を踏み出した。
――二人の旅は、ここから始まる。
白銀の胡蝶、夢の果て 雨星あゆ @ayu-rain
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