第5話 猫と疲れたお姉さんと心の傷と
いろいろなことが頭をよぎり、思い立ってトラウマ探しの旅に出ることにした。私はもう「普通の女」であることに疲れていたから。会社にはおなかが痛いと偽り、みんな放り出してきてた。同僚の「は?」という顔がちょっと面白かった。
私のトラウマが育まれた場所は、幼稚園から中学生の前半までいた恵比寿、中目黒界隈だ。当時は、いまほどおしゃれな街というわけではなく、駄菓子屋さんはあるし、威勢のよい魚屋さんもあるような、基本的には下町とそう変わらないところだった。
会社帰りの混雑を抜け、あきらめた気分とわくわくする気分が微妙に入り交じって夜の恵比寿駅を出る。数十年ぶりに来たのに、意外と道を覚えているもので、だいたいの場所がわかってきてすぐに楽しくなってきた。東京の中でも特に入れ替わりが激しい街なのに、小さな酒屋さんやそば屋さんがまだ昔のままの姿でいることに素直に感激する。
行きたかった場所へそのまま行くつもりだったけれど、当時住んでいたマンションまで足を向けてみる。向かう道はゆるやかな坂道だ。月並みだが、子供の頃よりもなだらかに見える。私はここで友達と二人乗りした自転車から転げ落ちたことがある。私は実にやんちゃな娘だったのだ。
マンションへの入り口の道で足を止める。コンクリートの打ちっ放しでおしゃれだったのに、父が刑務所みたいだと怒鳴り散らして、こんなよくわからない色に染められてしまった。いまのマンションの住民は、このことを知っているのだろうか。知らないよね、そんなこと。あんな父親は知らないほうがいい。
私は向きを変え、もっとも行きたかった場所に行く。別所坂公園という崖地に作られた公園だ。無くなってしまったのかもしれないと不安に思っていたが、まだそこに健在だった。崖の下からずっと一本に伸びた細くて長い階段を上っていく。天国にでも連れて行かれるような、この世界とは別の場所に連れていかれるような、この不思議な感覚を幼い自分が初めて思ったあの日に重ね合わせる。
ようやく上がり終えると、崖の高低差をそのまま利用した大きなコンクリートのすべり台が変わらずそこにあった。そして、振り向く。
ああ、ここだよ。私の愛しい心の傷を育ててくれたこの場所――。
眼下にはマンションや住宅の屋根が、荒れる大海のように広がっている。
家々の明かりがきらめく波頭のよう。
夜空を横切る小さな灯りを付けただけの飛行機が、大きなクジラのように見える。
背中には、いろいろな形と色をしたビルたちが、深い山々のように立ちはだかっていた。
私は異世界が好きだったことをようやく思い出す。
この世界とは違う風景が好きだった。いつもと違う世界にあこがれた。
それはきっと外界から隔絶したような風景をいつも私に見せてくれた、この公園が育んでくれたのだろう。
ありがとう、思い出させてくれて――。
私はもっといろいろなところが見たくなった。
小学校の通学路をそのままたどり、目黒川へと抜ける。田楽橋のたもとにある東京共済病院は、まだその広々として包み込むような姿がそこにあった。ここには八重桜が生い茂り、春にはいつも友達と花吹雪の中で遊んだところだ。あの子はどうしているのだろうか。あんなに大好きだったのに、いまはもう思い出の中でしか会うことができない。
そのまま橋を越え、小学校の裏手にある八幡神社に至る。石の鳥居の先には、緩やかな斜面には巨木が林立し、住宅街の中にぽっかり野山の森が切り取られて出現したみたいだ。
ふと見ると鳥居の横に白くて丸い猫がいた。私はいつもしているように声をかける。
「ここにお住まいですか?」
猫はのんびりと答えてくれた。
「ぶらぶら旅さ。おまえさんは何か見つける旅かい?」
「自分を……、でしょうか。よくわかりません」
「そうかい。まずは見つければいい。そして腹が減ったら戻ればいいさ」
猫はそれだけ言うと、丸くなって寝てしまった。
私は鳥居をくぐり夜の神社を子供のように探検する。このあたりではめずらしい湧き水もそのままの形でいた。それでも、冬の朝、学校へ行くときに霜柱を踏んでいた神社の境内は、ほとんどアスファルトに覆われてしまっていた。私はわかっていたくせに心が影に包まれる。
変わってしまったもの。
いつも触っていた犬がつながれていた鉄工場は、コンビニになってしまった。
大きな旧家の友人宅は取り壊されていた。
よく遊んでいた公園は半分になり、新しいマンションが建てられていた。
変わらないもの。
小学生の時に授業で調べた祠は無くなったけど、中にあった石仏は新しい祠にへばりつくように置かれていた。
絶対に蛇がいると思っていた根がのたうつ大木は、コンクリートで踏み固められたけど同じ場所に茂っていた。
私を異世界で遊ばせてくれた別所坂公園はまだそこにある。
愛しい心の傷は、もう現実には残されていないことに、私は怖くてたまらず震え出す。
多くは失われた。でも、ほんのわずかかもしれないけど、まだ大切だったものは残されている。私にはまだ残されているのだ。
ようやく私は見つけた。
決心がついたよ――。
「にゃあ」
店の明かりで色づいた街角に黒い猫がいた。のんびりあくびをしている。神社にいた猫の忠告を思い出した。
あたたかいごはんが待っている彼女の家へと帰ろう。不安と偏見のただなかでも手を握ってくれたあの子の家へ。
そして一緒に異世界へ行くんだ。普通の人が理解しない異世界に。みんなおきざりにして。この心の傷を友達にして。
百合短編! 冬寂ましろ @toujakumasiro
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます