美の極み。美の傲慢。美の悲しさ。美の絶望。美の喜び。美の愛。

美しい。

まず、その感想が先に来てしまう。
人は圧倒的に美しいものを見たとき、言葉を失う。思考が緩慢となり、感情があふれ、とまってしまうのだ。荘厳な松島の光景を見たものが、「松島や、ああ松島や、松島や」と詠ったように。
この小説でも、同様の現象に出会う。豊富な語彙と完璧に計算され尽くした平仮名と漢字のバランス、そして深い教養が織りなす文章により、読者は言葉を殺されひたすらに「美しい」と感嘆の極みへと到達する。ある種それは、芸術の本然たる姿であり、理想の到達点でもある。「美しい」という言葉以外浮かばなかった方がいたとしたら、悲観することはないと思う。この小説は、そういう芸術なのだ。言葉を失うに足る美しい表現の坩堝なのだ。まさに、ギリシャの彫刻の完成された美に匹敵する作品なのである。

この作品は、内容においてもまた美を極めている。まず前提として、美という概念そのものが本作のテーマなのだから当然といえば当然なのだが、美というものをけっして平面に捉えていないところが、本作の特徴であろうと思われる。
ただ美しいものを美しく書くだけの作品なら、正味珍しくはない。だが、美が主観による傲慢さを孕むこと、美という概念は捉え方によって脆く崩れさること、美が永遠たり得ないこと、美の対象となったものが被る迷惑。そういった、ある種の美の本質と美が持ちうる危険性について触れながら、美の凋落を書いていこうとする試みがここにはある。まさにこれは、絵画的な試みといえよう。いや、小説の中で概念を3D化させる試みといった方が正しいか。

天才のなせる技だ。読みながら、その作者様の試みに触れたものは、かならず美についての観念を捉え直さざるをえなくなる。美とはなにか。普段感じている美とは、本当に美なのか。誰かに過剰な期待を寄せていやしないか。人に美に当てはめる残酷な試みをしていないか。そう、考えてしまう。

美の証明。その装置に選ばれたヘルメスは、知られざる絶望の中にいる。それはある種、怖ろしいことだ。知らないうちに誰かから勝手に美しいものとして扱われ、理想を押し付けられているのだから。そして、勝手に美が喪失していくと嘆かれていくのだから。これは怖い。そして、ヘルメスに目を奪われてしまった語り部の男にとっても、苦しいことであろう。彼は美が主観によって作られていく概念であることを良くわかっているからこそ、ヘルメスの一挙手一投足に苦しむことになる。そうして、わかってはいるが、見えてはいない。そこが美に囚われたものの悲哀であり、おかしみでもある。

ヘルメスに近づく女生徒と、ヘルメス本人の男子としての普遍性に触れ、裏切られたような気持ちになった語り部の男は、タバコを忍ばせるという子供じみた復讐に出る。そのシーンは、圧巻だ。私は、心に小波を感じながら、彼の罪悪に触れた。私も同じような立場なら、どうだろう。もしかすると、美を守るために動くかもしれない。そう思うと、語り部の男の凡庸さが愛おしいとすら思えた。

勢いのあまりレビューではなく、感想のようになってきたから、この辺りにしよう。

美という概念に挑んだ純文学作品。
ここには、本物の美しさが立体的に描き出されている。

この小説の美しさに、圧倒されて欲しい。

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