ヘルメス

坂本忠恆

第一部 彫像

美の倒錯


 彼が孤独なのではない。彼に値する何人も存しないのである。


——


 私はあの少年を、密かにヘルメスと呼んでいた。理由はあったが大したものではない。彼の白い肌が如何にも乳白なギリシア彫刻を思わせたから、美術の教科書でたまたま目に留まって以来、脳裡に嫌に張り付いて消えなかったヘルメス像と彼とを重ねて、勝手にそう呼んだだけのことだ。

 しかしながら、一度彼とヘルメスとを重ねてみたら、そこからいろいろな空想が浮かんできて、彼とこの神話の英雄とを一層引き寄せた。例えるならそれは、一度思慕を告げられた相手を、初めはなんとも思わなかったのに、だんだんと意識するようになるあの心理の運動と、ちょっと似ていた。しかしこう言った例えを用いたからといって、私がヘルメスを通して彼に恋をしたかと言うと、決してそういう訳ではなかった。

 私と彼との関係を説明するのは難しい。当時私たちは中学生だった。全部で二つのクラスしかなかった学校で、中学二年生の一年間だけ私と彼は同じ教室に通っていた。話したことは、(ある一時期を除いて)数えるほどしかなかった。しかし、生徒数の少ない母校だったからと言って、同級生の一人一人に渾名するほど退屈な私でもなかったから、私が彼に対して特別な関心を寄せていたこともまた確かだった。


——


 その年の秋はとても短かった。秋雨が渡ると忽ち冬の気配が訪れた。射る様な寒さが街の木の葉を数日の間に撃ち落とした。花壇は冬支度をする前に霜にあたってしまった。早朝、私は花壇の死んでしまった植物を口惜しく眺めていた。

 私は別に、係の振り分けで花壇の世話を任せられていたわけではなかったから、そのことについて引け目を覚える必要などない筈だった。何かにつけて面倒ごとを引き受けてしまう私が、誰が決めたでもなく成り行きでこの花壇の世話を取り持っていただけのことだ。

 と、私は、すぐ脇にヘルメスの立っていることに気がついた。極寒の最中、細やかな流水が寒さに抗して凍てることなくその淀みない流れを持続しながらも、その淀みないがために流水の形態は一つの型の中に凝固して自若するという静と動の背理が、その時の彼の姿にはあった。白すぎる肌色は死人のそれのように見ることもできた。裏腹に、彼の生命を証しする赤みのかかった頬が余りにも巧緻で、その様子に作為の何ら夾雑していないという事実が、私には皮肉に感ぜられた。ギリシア彫刻の湛える肉感が、硬質の皮膚に宿っているという事実に思い至って初めて我々の心に生じる(恰もその石の肌に触れたときのような)冷感にもまた、その皮肉はあった。

 私は思い出した様に身震いをし、この冷たい身体を改めて見遣った。私にしてはずいぶんと思い切った視線だった。どこか、切迫した心持で、私はこの少年の横顔に目を凝らしていった。

 閉じられた口元が痙攣気味に戦慄いて白い息を遠慮がちに漏らした。西洋人の様に秀でた鼻筋はその先端の柔らかい鋭角から真っ直ぐに眉間へと導かれていた。中でも長い睫毛が印象的で、この瞬間、雪の降っていないことが悔やまれた。もし降っていたならば、この睫毛は幾らかの結晶を支えて、その美しさの顕著なことを尚のこと誇示したに違いなかったから。

 と、彼は一歩踏み出し花壇に爪先を差し出して、そのまま慎重に土の表面を裏返した。白く汚れのない霜柱の一塊が黒い土の上に投げ出された。

 私は、黒い土の上で憚りなく輝くこの白い塊に、ヘルメスの横顔を透かして見ることに難儀しなかった。むしろ反対に、そうして見ないことの方が、私には難事に思われた。霜柱という存在の名状し難い煽情的な印象は、我々の幼児期に所以を持つ倒錯した性愛の徴であったろうか? 私には、この直後に、ヘルメスがある種の猥褻感で以て、嬉々とこの白い輝きを踏みにじる姿が、(恰もそうなることが正当な道理であるかのように)想像されたのであった。

 私は私の想像に慢心した。それは、私がヘルメスと霜柱とを重ねるに至る迄の心理の道筋の確かさに、思い上がっていたためであった。私は私が心中にて犯したこの密やかな罪を、自然の強制とでも呼ぶべき不可抗力に仮託させることで、免れようとしたのである。

 私は再び彼の横顔を見た。

 同時に彼もむこうを向いてしまった。背かれた横顔は白い光の痕だけを残して去っていった。遠ざかる彼の背中には告発者の嫌悪が浮かんで見えた。免罪は破棄された。私は裁かれた。


 残された私は急に教室の喧騒が恋しくなってきて、ヘルメスの後に続こうとした。が、尚も残る口惜しさに後ろ髪引かれその場にとどまった。そして、子供がいたずらに及ぶ際の用心深さで、私は周りから人気の無くなるのを見計った。誰もいないのを確認すると、私は先程ヘルメスのやったのと同じ様に花壇の土をほじくった。土に汚された氷の毛細が散らばった。

 白い新品のスニーカーは泥で汚れていた。この滑稽さ、不甲斐なさが、私を恥じ入らせた。

 恥は当然の罰であった。しかしまた、何物にも贖えぬ罪のきまり悪さというものが、ヘルメスに対する私の恥の中にはあった。今まで隠し立てしていた恥部を暴露されたかのような贖い難いきまり悪さ。罪に対する罰として恥が与えられるのか、それとも、恥そのものが罪であるのか、私にはこの縺れた罪と罰の循環を解くことができなかった。ただ、苛立たしい倒錯のみがそこにはあった。

 遅刻間際の響めきが私を正気に戻させた。恥は苛立ちのみを残して去った。

 私は苛立ちに任せて花壇の霜柱を全て踏み均してしまった。

 私は、靴の泥を落とすことをいわれに、威の籠った靴音を執拗に立てながら、下駄箱へ駆けた。



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