美の支配者
思えばその頃からだった。私はくすぐったい様な焦ったさで、彼のことを気にかける様になっていた。
彼の一挙一動は目立たないものだった。彼は、その優れた容姿とは対照的に、日陰の生徒だった。また、彼の日々の生活は、芸術家の持つ繊細な精神の震えに満たされていた。彼がものを持つ時、そして置く時、それらの所作は彼の前に何らか創作的当為の示されていることを予感させた。彼がノートに何かを書いている……この忍びやかな、陰気な、しかしどこか洗練されてすらいる挙止は、老練の画家の筆運びにも似たところがあり、無駄の削がれた巨匠の仕振りが我々の日常茶飯に示す何気ない一挙一動を想起させるあの具合で、彼に、孤独な大芸術家の尊厳を印象させていたのである。
けれども、彼のこう言った芸術家的老練は決して何か作品を生み出す為に捧げられたのではなかった。そこに絵が、彫像がある代わりに、少年が独り、暗い部屋の一角に蟠るひだまりの様にして、影の中にその白い肌を静かに浮かべていた。彼の姿を前にしては、他のあらゆる創作的営為は無粋なものに思われてならなかった。
創造しない芸術家という撞着が彼に於いてのみ適って見えるのは、約まるところ、彼自身が美しかったからである。
彼の没我の中の意図。人々の意識裡に没却せんとする無作為の作為が、彼を斯様な静謐な孤独の中へと引き入れた。
全くあらゆる目立たない高貴なものがそうであるように、彼もまた豊かな静謐の中にいた。静謐は、富んだ空虚に満たされていた。その、意味内容に満ちた虚無こそ、彼の湛える美の正体であった。
ヘルメスが日陰の少年だという事実は、彼にとって、何らの瑕疵にも成り得なかった。むしろそのことは、彼の美に対して自然の定めた当然の位置付けであった。
彼は日向に出てはならぬ少年だった。いったいどの様な優れたギリシア彫刻も、燦々とした陽の下にあってはその美しさの大部は削がれてしまう。同様に、彼が十全に美しくある為には常に、暗い影になった背景が入用だった。その影は深いほど好ましかった。
暗闇の中にあっては蛍でさえ目を刺すほどに輝くのと同じで、私の思い出の中にある彼の姿は皆、教室の隅の光の届かない場所にあってこそ、その美しさを強めた。そしてこういった蛍の光の様に、どこか危うい繊細なものの示す、弱々しい美の類稀な主張ほど、ある種の弱きが強きに勝る好例は他にない。その美は正に、土の上に投げ出されたあの霜柱と相似だった。霜柱はその脆く汚れない繊維質の構造が、このように白く輝く必要条件を担っていると言う認識を我々の脳裏に自然に形成し理解させるに及んで、いよいよその美しさを極めるに至るのである。それと同じ法則で、彼もまた、この青春という季節の不浄な空気の只中にあって、独特の脆さの鎧で己が美を匿っていることを理解させるに及んで、言おうようもない美のむず痒さを私に味わわせるのであった。
その点に於いて、教科書のヘルメス像の写真はまことに好ましかった。ヘルメスが、私の心に重きを置くようになってから、私はよく、隠れてこの教科書の写真に見惚れていることがあった。
背景には暗幕が張られ、照明もその美を損なわぬ微妙な光度で光を投げている。その光によって浮かび上がるヘルメス像は、恰も柔和な、血の通ったかのような乳白を、その硬い肌に顕すのである。
左腕には幼きデュオニソスが抱かれている。彫刻の神たるアポロンが、同時に太陽神であることに対して、如上に述べたギリシア彫刻の美に対する太陽の脅威という私の考えが、このもう一方の芸術神たる稚児の何れ蹶起すべき太陽への芸術上の反旗と示し併せて、およそ穏便ならざる対立を、暗と明、陶酔と明哲との対立を、私の心に思わせたのである。
しかし、彫刻の美とは、一体如何様に解されるべきだろうか。
彫刻家は、石に投射した己の美の表象に向かって、少しずつそれを削りだしてゆく。このやり直しの効かぬ勇敢なる行為は、その行いの大胆不敵なのに反して、ただ一途な美への崇拝のためにのみ捧げられているのである。
そしてその石はいつしか、もうこれ以上に除去すべき何物もないという無の極致にて、然るに無とは明らかに異なるその美の様相を、空間の或る一角を占める一形態として顕現するのである。無と美との一致という矛盾は、この美の形態の取る境界面では無矛盾に折り合うのだ。
やり返しの効かぬ営為という意味では、我々の人生も確かにその一つには他ならないが、それの為されていく有様の、彫像に対してなんと悉く裏腹の関係を持っていることか。
人生の美へと辿る過程は、無を志向し、有が無へと気転するそのぎりぎりの境を目指すというのではなく、人生は始めから無より出でて、そして、もう他に付加すべき何物もないという、そのような境などあろうはずもない境へと、止め処なくささげられる望蜀の賛歌なのである。
我々の人生は、それ自体同じくやり返しの効かぬ営為であったとしても、その中には無への崇拝により至るというのっぴきならぬ緊迫した美の極地などは無く、よしんば達したと見えても忽ち老い果てる仮初の極点をしか持たないのである。
ただ一人、私がヘルメスと呼んだあの少年を除いては。
彫刻は、外部の闇を削がれつつその完成に達そうとする。その姿は、元々石の闇の中に閉ざされていた美にふさわしく、太陽とは相容れない。
人生は、無より出でて肉体の闇を育てつつ、そして外界の光を目指しながらその完成に達そうとする。然ればおよそ肉の美というものは、太陽とある種の近縁を持っており、何れは太陽が、生と死の象徴として我々の人生を奪いにやってくる。
そして、このギリシア神の似姿は、確かに、傷つきやすく老いやすい肉の肌を持ってこそおれ、また、無より出でてその徐々に完成しつつある肉体の内部にあの闇を養い育む人生の一つでこそおれ、然るに、彼の湛える如上の陽と相容れぬ性向と静謐なる虚無の美しさとによって、除去と付加とのその触れ合う境目に、存していたのである。
或る一つの形態が、一方は光によって、もう一方は闇によって、内と外から徐々に浸食しあい、除去すべき何ものも、付加すべき何ものも、一つとして無くなった美の完成として、彼は私の眼前に現れたのであった。
彼は、無なるものと有なるものの、その紐帯であった。
彼の存在が、常世すべての相反する美の性質を、その一つの形態の中に繋ぎ止めていた。
彼によって、虚無と人生が、彫像と塑像が、デュオニソスとアポロンが、有りうべからざる合一を見せた。
彼はこの世界に打たれた楔であった。
彼は美を支配していた。
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