六ノ巻四十五話 上空と地上にて
「――な、にぃ……?」
上空を流れる風に髪と衣をなぶられながら、大日金輪はつぶやいた。
崇春は手を差し出したまま言う。
「――本当に、待たせたの。そしてお主も――東条も鈴下も――待ってくれちょった」
放心したようだった大日の顔が、だんだんとこわばり出す。
「――ふざけるな……誰が待っていただと、貴様が勝手に言い出したことで――」
崇春は目をそらさない。
「――『救ってみせろよ、できるものなら』。お
大日の手で、くすぶるような音を立てて光が揺れる。
「――な……違う、そんなものはただの
違う、というその言葉の時点で、崇春はうなずいてみせていた。
「――そうよな、確かに『違う』。『救い』なぞとは。誰が誰に救われるというんか、誰が誰を救うというんか。そこには救うも救われるも無い。お
「――な……?」
動きを止めた大日を前に、崇春は静かに続けた。
「お
その頃、地上で。
「四天王・増長天。それは――怪仏でなく
百見はそう問うた。上空で大日に拳を向ける崇春を見上げながら、つぶやくように。
「何って……四天王だから方角ですよね、確か南」
それが何だというのだ、そんなことを言っている場合なのか――かすみはそう問い返したかったが、百見が先に言った。
「その答え、正解の半分だ。東西南北のうち南方の守護者、それは正しい。だがそれと同様に、四天王にはもう一つ
百見は淡々と続ける。
「大乗仏教の世界観では、世界――宇宙といってもいい――の中心に、
上空にて。
「――すでに? 救われている? だと?」
大日金輪は目を瞬かせてつぶやいたが。すぐに息を吹き出し、肩を揺らした。
「――何を言い出すかと思えば。君がふざけた奴だということは知っていたつもりだが、いやはやそこまでの馬鹿だったとはな! いやあ、笑わせてくれるよ」
目を細めてほほ笑んだまま、大日は崇春へと近づいた。
そして、差し出されていた手を取る。
「――さ、お望みどおり手を取った。これで救ってくれるのか?」
崇春は底抜けの笑みを浮かべた。
「――おお、分かってくれたんか! これは何より! これでわしらの争いも、ようやく終わりというもんじゃ!」
大日の手を強く握り返す。
「――じゃが先ほども言うたとおり、わしが救うわけではない。お
大日はいっそう、頬を歪めてほほ笑んだ。
「――救ってくれるのか、と聞いているんだ。たとえばこの我が、こうしてもなあ!」
「――む……うううぅーーっっ!!?」
叫ぶ間にも光は燃え移るように崇春の腕を駆け上がり、たちまちその体全てを覆った。
衣はくすぶり灰となり、鎧はたちまち黒ずんだ。皮膚が肉が黒く焦げ、端から端からめくれ上がる。
大日はもう片方の手をも重ね、さらなる光を立ち昇らせた。
「――はは、くはははは! さあどうした、さあどうした! 死んでいる場合か、この我を救ってくれるんだろう、ああ!?」
「――その、とおりよ……死んどる場合なんかじゃないわい」
大日の手をなおも握り返したまま、片方の手で自らの腕をつかむ。
「――ぐぐ……オン・ビロダキシャ・ウン! 【真・
その手から澄んだ光が広がり、
やがて
崇春は歯を
「――~~っ
片方の手で体をさする。その体のどこにも、今や傷一つなかった。
「――まったく何を考えとるんじゃっ! 救うてみよと言いながら、殺しにかかってくるとはのう」
それでも、ほほ笑んだ。
「――ま、ええわい。今の今まで戦い
そうして、両手で強く大日の手を握る。
崇春と大日の向き合う下、地上で百見は話を続けていた。
「一説には、逆三角形をしているという
「だったら……どうだというんですか。つまり、どういうことだと」
なんとなく、なんとなく想像はつきながらも――それを、崇春を怪仏だと認めたくなくて――かすみの声は硬くなっていた。
変わらぬ口調で百見は言う。
「神仏としての増長天は人間世界の守護者、人と地球を
その頃、上空にて。
目を見開いていた大日は不意に顔を歪めた。崇春の手を振り払う。
「――何だ……何だというんだいったい貴様は! あり得ん、この我の力を、『怪仏を打ち消す力』を二度ならず破るだと……!」
崇春は首を横に振る。
「――あり得んも何もない。見たとおりよ」
大日はしかし、崇春の目を見た。その顔にもう歪みはなかった。笑みも、驚愕の色も。
「――もはや油断はすまい、警戒する必要があると認めよう。だが恐怖する必要はない、なぜなら――すでに見えたよ、君が我が力を破れた理由」
光の
「――その力、決して『我が力を無効とするものではない』。先ほどの様子で確認できた、君は我が力に消されかけつつも、無理やりそれを押さえ込んだ。我が力の大きさをも上回る、君の力で。要は、我が力に君の力が消されなかったのは『我が力が打ち消す速さと強さを、上回るだけの力を放っている』だけのこと」
鼻で息をついた。
「――無論それとて驚異的だ、あれほど劣勢だった君が、いったいどこからそんな力を得たのか。だが」
両の掌を上に向けた。
「――もはや遊びも
崇春は首を横に振る。
「――死は別に救いではない。罰でもない。生が救いではなく、罰でもないようにのう。そもそも『生』も無し、『死』も無し。だいたい見たことなどあるか? 『表だけの十円玉』も『裏だけの十円玉』も。そんなものは元より無し、そして
す、と両の拳を構える。
「――『新たなる世』などというものは無い。あるのはただの『今、ここ』よ。それを知らぬ者に次などは無い。そしてわしこそは『今、ここ』を護る者。怪仏、『人界守護者・増長天』。――参るぞ」
大日は苦々しげに顔を歪めた。
「――ならばせいぜい守護するがいい、人間の世界とやらを! そんなもの
両掌の上に白く光が輝く。大日自身の
「――消えるがいい! 受けよ相乗する双手の力、【
両手から放たれた光は、ただ一条でしかなかったが。広く高く深く放たれたそれは巨大だった。まるで空を丸ごと、白く染め変えようとするかのように。いかに崇春が風の力で
迫り来るその力に気流がかき乱され、大気が震える。
その震えの只中で。崇春は静かに、両拳を腰へと引き絞る。
「――【真・
両脚から吹き上げる風が、地面を蹴るように宙を打つ。その勢いのまま飛び込み、金の光を昇らせる双拳を繰り出す。
澄んだ光だった、まるで流れゆく星か、輝きを持った風のように。
対照のような二つの光は真正面からぶつかり合い。巨大な光の波に、崇春はたちまち呑み込まれ。その姿を消した。
打ちつけるような余波に地上の大気すらも、びりびりびりと震える中。
「崇春さん!!」
かすみは叫んでいた。叫ばずにはいられなかった、せめてその声が崇春に届くように。
百見はその声からか震える空気からか、守るように耳を押さえつつ首を横に振った。
「谷﨑さん。もういい、必要ない」
「なっ……!」
かすみは食らいつくような顔で、百見をにらんだが。
百見は変わらず首を横に振る。
「必要ない、いや。心配ない。覚えているかい、以前僕が言ったこと。『この地球上で崇春に勝てる奴などいない』」
覚えがある。二人と出会ってそう日も経たない頃、斉藤の事件を解決するために三人で奔走していたときのこと。思えば遠い日のように懐かしささえ感じる。
「あれはね、嘘じゃない。気休めでも冗談でもない、ただの事実――さっきも言ったはずだ、彼は全人類を本地とする怪仏だと」
百見は真顔だった。かすみから決して目をそらさなかった。
「全人類を、本地に……?」
百見はうなずく。
「様々な人間の業で構成されるものとはいえ、怪仏は本来、ただ一人の人間を本地とする――本地が代替わりすることはあるが――、それが原則。さらには、すでに怪仏の本地となった人間が、同時に別の怪仏の本地となることはない。――そうした原則から外れた、例外的な怪仏。いや、ある意味では原則どおりなのかも知れない。『人間世界』あるいは『人類全体』という、ただ一つの本地を持つ怪仏」
空を、未だそこを覆うように放たれ続けている白い光を遠い目で見上げ、言葉を継いだ。
「そのような在り方は『人間世界たる
百見はほほ笑んだ。どこか――あきらめたように――寂しげに。
「断言しよう。最強の怪仏はいかなる武辺の明王でも、諸天部諸菩薩、最高位の如来ですらなく――抜きん出てただ一体『人界守護者・増長天』。地球上で、地球と人とを護るための闘いをする限りにおいてはね」
かもす仏議の四天王 ~崇春坊退魔録~ 木下望太郎 @bt-k
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