六ノ巻四十五話  上空と地上にて


「――な、にぃ……?」

 上空を流れる風に髪と衣をなぶられながら、大日金輪はつぶやいた。


 崇春は手を差し出したまま言う。

「――本当に、待たせたの。そしてお主も――東条も鈴下も――待ってくれちょった」


 放心したようだった大日の顔が、だんだんとこわばり出す。

「――ふざけるな……誰が待っていただと、貴様が勝手に言い出したことで――」


 崇春は目をそらさない。

「――『救ってみせろよ、できるものなら』。おんしが言うたことぞ、東条。誰より救いを望んでおるのは、おんしでありおんしらじゃ」


 大日の手で、くすぶるような音を立てて光が揺れる。

「――な……違う、そんなものはただのあおり、言葉のあやに――」


 違う、というその言葉の時点で、崇春はうなずいてみせていた。

「――そうよな、確かに『違う』。『救い』なぞとは。誰が誰に救われるというんか、誰が誰を救うというんか。そこには救うも救われるも無い。おんしも無ければわしも無い。そもそも、救う必要なぞどこにも無い」


「――な……?」


 動きを止めた大日を前に、崇春は静かに続けた。

「おんしはすでに救われておる。ただ、それに気づいておらぬだけよ」




 その頃、地上で。

「四天王・増長天。それは――怪仏でなく神仏しんぶつとしてのそれは――何をつかさど神仏かみだと思う?」

 百見はそう問うた。上空で大日に拳を向ける崇春を見上げながら、つぶやくように。


「何って……四天王だから方角ですよね、確か南」

 それが何だというのだ、そんなことを言っている場合なのか――かすみはそう問い返したかったが、百見が先に言った。


「その答え、正解の半分だ。東西南北のうち南方の守護者、それは正しい。だがそれと同様に、四天王にはもう一つつかさどるものがある。以前、少しだけ話したことがなかったかな」

 百見は淡々と続ける。

「大乗仏教の世界観では、世界――宇宙といってもいい――の中心に、須弥山しゅみせんという巨大な山があり、その遥か上方に仏の世界があるとされるが。この須弥山しゅみせんの四方に四つの大陸があるという。北に北倶盧洲ほっくるしゅう、東に東勝身洲とうしょうしんしゅう、西に西牛貨洲さいごけしゅう、そして南に南贍部洲なんせんぶしゅう。この四大陸をそれぞれつかさどる、それが四天王の役割。――そしてこの四大陸のうち、増長天がつかさどる『南贍部洲なんせんぶしゅう』こそが『人間の世界』……そのように伝えられている」




 上空にて。

「――すでに? 救われている? だと?」

 大日金輪は目を瞬かせてつぶやいたが。すぐに息を吹き出し、肩を揺らした。

「――何を言い出すかと思えば。君がふざけた奴だということは知っていたつもりだが、いやはやそこまでの馬鹿だったとはな! いやあ、笑わせてくれるよ」

 目を細めてほほ笑んだまま、大日は崇春へと近づいた。

 そして、差し出されていた手を取る。

「――さ、お望みどおり手を取った。これで救ってくれるのか?」


 崇春は底抜けの笑みを浮かべた。

「――おお、分かってくれたんか! これは何より! これでわしらの争いも、ようやく終わりというもんじゃ!」

 大日の手を強く握り返す。

「――じゃが先ほども言うたとおり、わしが救うわけではない。おんしらはそもそも救われておった、そのことを分かってもらうには――」


 大日はいっそう、頬を歪めてほほ笑んだ。

「――救ってくれるのか、と聞いているんだ。たとえばこの我が、こうしてもなあ!」

 えるような光が上がった。崇春の手を握り締めたままの、大日の手から。


「――む……うううぅーーっっ!!?」

 叫ぶ間にも光は燃え移るように崇春の腕を駆け上がり、たちまちその体全てを覆った。

 衣はくすぶり灰となり、鎧はたちまち黒ずんだ。皮膚が肉が黒く焦げ、端から端からめくれ上がる。


 大日はもう片方の手をも重ね、さらなる光を立ち昇らせた。

「――はは、くはははは! さあどうした、さあどうした! 死んでいる場合か、この我を救ってくれるんだろう、ああ!?」


 ぜるような、ひび割れるような音を立てて焼かれながら、崇春は笑った。煙を上げる焦げかけた顔で。

「――その、とおりよ……死んどる場合なんかじゃないわい」


 大日の手をなおも握り返したまま、片方の手で自らの腕をつかむ。

「――ぐぐ……オン・ビロダキシャ・ウン! 【真・増長天恵ぞうちょうてんけい】!」

 その手から澄んだ光が広がり、え上がる光と押し合った。やがて大日の光を押し包み、打ち消し、澄んだ光が全身を覆う。焦げた肉が肌が、服や鎧さえも、その光の中で修復されていく。


 やがてえる光が消えた後、目を見開いた大日の前で。

 崇春は歯をき、顔をしかめていた。大日の手を握ったまま。

「――~~っぁああ……! 何っちゅうことをしてくれるんじゃい!」

 片方の手で体をさする。その体のどこにも、今や傷一つなかった。

「――まったく何を考えとるんじゃっ! 救うてみよと言いながら、殺しにかかってくるとはのう」


 それでも、ほほ笑んだ。

「――ま、ええわい。今の今まで戦いうた身、救うと言われても信じ難かろう。それでも、これだけは覚えちょってくれ。わしらはおんしを、東条を鈴下を、救うために戦っちょった。今もじゃ」

 そうして、両手で強く大日の手を握る。




 崇春と大日の向き合う下、地上で百見は話を続けていた。

「一説には、逆三角形をしているという南贍部洲なんせんぶしゅうとは、似た形であるインド亜大陸――仏教が生まれたその土地――を示し、他の三洲は地球上の別の大陸を示すのではないか、ともいわれているが。僕としては賛成しかねる、それら三洲は地球上の大陸の形とかけ離れており、そこに住まうという者の寿命も人類のそれとはまるで異なる。やはり南贍部洲なんせんぶしゅう――またの名を閻浮提えんぶだい――こそが、人間の世界すなわち『地球』、そうとらえるべきだろう。実際、インド以外の仏教伝承においてもそのように解釈されている。中国でいえば禅宗の六代目継承者たる慧能えのうの教えをまとめた『六祖壇経ろくそだんきょう』など、また日本においても空海の著作、さらには庶民の残した狂歌きょうかなどにおいても、人間の住むこの世界を『南贍部洲なんせんぶしゅう』『閻浮提えんぶだい』と表現しているものが多数見受けられる。さらには江戸時代の画として、『南贍部洲なんせんぶしゅう図』と題される世界地図――必ずしも正確な地球の姿ではないが日本や中国、インドの他にヨーロッパ、さらにはアメリカ、アフリカなどの大陸が描かれているものもある――が複数存在する」


 南贍部洲なんせんぶしゅうがどうのといった話は、かすみも聞かされた記憶が――斉藤が怪仏に操られた、最初の事件を解決したときに――うっすらとある。だが。


「だったら……どうだというんですか。つまり、どういうことだと」

 なんとなく、なんとなく想像はつきながらも――それを、崇春を怪仏だと認めたくなくて――かすみの声は硬くなっていた。


 変わらぬ口調で百見は言う。

「神仏としての増長天は人間世界の守護者、人と地球をつかさどる者。ひるがえって、怪仏としての崇春かれは。『全人類を本地ほんじとする』『人類の守護者たる怪仏』」




 その頃、上空にて。

 目を見開いていた大日は不意に顔を歪めた。崇春の手を振り払う。

「――何だ……何だというんだいったい貴様は! あり得ん、この我の力を、『怪仏を打ち消す力』を二度ならず破るだと……!」


 崇春は首を横に振る。

「――あり得んも何もない。見たとおりよ」


 大日はしかし、崇春の目を見た。その顔にもう歪みはなかった。笑みも、驚愕の色も。

「――もはや油断はすまい、警戒する必要があると認めよう。だが恐怖する必要はない、なぜなら――すでに見えたよ、君が我が力を破れた理由」

 光のえる指で崇春を指す。

「――その力、決して『我が力を無効とするものではない』。先ほどの様子で確認できた、君は我が力に消されかけつつも、無理やりそれを押さえ込んだ。我が力の大きさをも上回る、君の力で。要は、我が力に君の力が消されなかったのは『我が力が打ち消す速さと強さを、上回るだけの力を放っている』だけのこと」


 鼻で息をついた。

「――無論それとて驚異的だ、あれほど劣勢だった君が、いったいどこからそんな力を得たのか。だが」

 両の掌を上に向けた。え盛る音を立て、そこに光が立ち昇る。

「――もはや遊びもおごりも無い。我が全力を以て、君をこの場で消し飛ばす。新たなる世の到来を確実とするため、そして悔い無きものとするため……何しろ新たなる世では、殺すも死ぬも不可能だからね。それに、君の方は新たなる世はお嫌のようだ。せめてもの慈悲、死を以て救いとしてやろう」


 崇春は首を横に振る。

「――死は別に救いではない。罰でもない。生が救いではなく、罰でもないようにのう。そもそも『生』も無し、『死』も無し。だいたい見たことなどあるか? 『表だけの十円玉』も『裏だけの十円玉』も。そんなものは元より無し、そして表裏ひょうりどちらも一つのもの。二元ふたつに分かれぬ一元ひとつのもの。『今、ここ』、ただそれがあるばかりよ」

 す、と両の拳を構える。

「――『新たなる世』などというものは無い。あるのはただの『今、ここ』よ。それを知らぬ者に次などは無い。そしてわしこそは『今、ここ』を護る者。怪仏、『人界守護者・増長天』。――参るぞ」


 大日は苦々しげに顔を歪めた。

「――ならばせいぜい守護するがいい、人間の世界とやらを! そんなもの破却はきゃく歪曲わいきょくする、今ここで!」

 両掌の上に白く光が輝く。大日自身のたけも身の幅も越え、高く広く。全てを呑みこもうとするかのように。

「――消えるがいい! 受けよ相乗する双手の力、【無辺むへんたる清浄しょうじょうの光】!!」


 両手から放たれた光は、ただ一条でしかなかったが。広く高く深く放たれたそれは巨大だった。まるで空を丸ごと、白く染め変えようとするかのように。いかに崇春が風の力でべたとて、逃れようのない規模だった。

 迫り来るその力に気流がかき乱され、大気が震える。


 その震えの只中で。崇春は静かに、両拳を腰へと引き絞る。

「――【真・閻浮提えんぶだい覇王拳】」

 両脚から吹き上げる風が、地面を蹴るように宙を打つ。その勢いのまま飛び込み、金の光を昇らせる双拳を繰り出す。

 澄んだ光だった、まるで流れゆく星か、輝きを持った風のように。え盛りき尽くすような大日の光とはまるで違った。


 対照のような二つの光は真正面からぶつかり合い。巨大な光の波に、崇春はたちまち呑み込まれ。その姿を消した。




 打ちつけるような余波に地上の大気すらも、びりびりびりと震える中。

「崇春さん!!」

 かすみは叫んでいた。叫ばずにはいられなかった、せめてその声が崇春に届くように。


 百見はその声からか震える空気からか、守るように耳を押さえつつ首を横に振った。

「谷﨑さん。もういい、必要ない」


「なっ……!」

 かすみは食らいつくような顔で、百見をにらんだが。


 百見は変わらず首を横に振る。

「必要ない、いや。心配ない。覚えているかい、以前僕が言ったこと。『この地球上で崇春に勝てる奴などいない』」


 覚えがある。二人と出会ってそう日も経たない頃、斉藤の事件を解決するために三人で奔走していたときのこと。思えば遠い日のように懐かしささえ感じる。


「あれはね、嘘じゃない。気休めでも冗談でもない、ただの事実――さっきも言ったはずだ、彼は全人類を本地とする怪仏だと」

 百見は真顔だった。かすみから決して目をそらさなかった。


「全人類を、本地に……?」


 百見はうなずく。

「様々な人間の業で構成されるものとはいえ、怪仏は本来、ただ一人の人間を本地とする――本地が代替わりすることはあるが――、それが原則。さらには、すでに怪仏の本地となった人間が、同時に別の怪仏の本地となることはない。――そうした原則から外れた、例外的な怪仏。いや、ある意味では原則どおりなのかも知れない。『人間世界』あるいは『人類全体』という、ただ一つの本地を持つ怪仏」


 空を、未だそこを覆うように放たれ続けている白い光を遠い目で見上げ、言葉を継いだ。

「そのような在り方は『人間世界たる南贍部洲なんせんぶしゅうの守護者』という、神仏としての増長天の特殊な立ち位置に拠るのだろう。そして、全人類の業をただ一つの怪仏に束ねるがゆえに、その真の力は他の怪仏の比ではない」


 百見はほほ笑んだ。どこか――あきらめたように――寂しげに。

「断言しよう。最強の怪仏はいかなる武辺の明王でも、諸天部諸菩薩、最高位の如来ですらなく――抜きん出てただ一体『人界守護者・増長天』。地球上で、地球と人とを護るための闘いをする限りにおいてはね」


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かもす仏議の四天王 ~崇春坊退魔録~ 木下望太郎 @bt-k

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