六ノ巻44話  これだけは聞いてくれ


 百見は合掌の形から指を崩し、別の印を結ぶ。

 中指から小指までの三指は伸ばし、指先を左右交差させる。人差指は直角に曲げ、互いの指先をつける。親指は伸ばして左右を揃えた。

 こうべを垂れた。

「せめて君に贈ろう、この真言を。この大神呪だいしんしゅを、この大明呪だいみょうしゅを、この無上のしゅを、この並ぶもの無きしゅを――往けよギャテイ往けよギャテイ彼岸へと往けよハラギャテイ彼岸へと完全に往き着く者よハラソウギャテイそれが悟りだボジ幸あれソワカ


 それを受け取るように、崇春は両掌を合わせた。感謝を示すように深く、こうべを垂れた。

「――般若心経はんにゃしんぎょうの真言か。ありがたいわい。――では、これにて」


 背を向けた崇春に、百見は声をかける。

「ああ。これでまた、目立――いや、何でもない。……頼んだぞ」


 崇春はうなずく。合掌していた両手で印を結んだ。手の甲を合わせて中指を絡め、他の指は花が咲くように自然に広げた形。これまでにも崇春が結んだ、増長天の印。

「――オン・ビロダキシャ・ウン。【南贍部洲なんせんぶしゅう職風翔しきふうしょう】」

 その声と共に、金色に澄んだもやが両足の下から立ち昇る。それは渦を巻き、だんだんと強さを増し、やがて崇春の体を宙へと浮かび上がらせた。


「――うおおお! 往くぞおおぉ!」

 一際高く風が吹き荒れる。辺りの土を煙のように巻き上げて散らし、崇春は風をまとってんだ。大日金輪へ向かって。


 かすみは、瞬きもせずそれを見ていたが。ずいぶん長く黙っていた後、つぶやいた。

「……何が……起こってるんですか」


 百見は、崇春がんだ後を見ていた。

「怪仏が怪仏を倒しに行った。それだけさ」


 かすみは口を開け、閉め、また開け。崇春の向かった方を見上げた。


 思い出していた、昨日のことを。

 刀八毘沙門天の力に初めて目覚めたとき、向かってきた怪仏二体――迦楼羅天かるらてん韋駄天いだてん――を倒したときのこと。

かすみは怪仏の力で、それら二体を胸像のようになるまで斬り刻み、あるいは胴を真っ二つに断ち割ったが。それでも二体の怪仏らは、どうにか生きてうめいていた。

 先ほどの崇春も、まるで同じ。


 そして思い出した、崇春のことを。

 ある時には毒のあるジャガイモの芽を喰らい――その場では百見が一撃して止めていたが。『滋養があるんじゃ』などと言っていたからには、それまでにも食べていたのだろう――、またある時には激しい戦闘に身を投じ、時には高所から落ちてもいたが。翌日には大した傷も残ってはいなかった。人間離れした頑丈さと回復力。


 それに先ほどのこと。怪仏を消し飛ばすという紫苑の力に対し、生身で向かっていった崇春は、その腕を消し飛ばされていた。

 怪仏の力をその身に宿し、怪仏と一体となったためにそうなったなどと、百見は言っていたが。そのげんも今にして思えば、ずいぶん怪しかった。まるで皆に向かって説明し、言い訳しているようだった。


 それらの記憶を何度も咀嚼そしゃくした上で。

ようやく、言葉を発することができた。

「怪仏、だっていうんです、か。崇春さん、が」


 百見は無言でうなずいた。


「いったい、どういう――」

 かすみが言いかけたとき、さえぎるように百見が口を開く。

「だましていたかったわけじゃない、いや、だましていたわけじゃない。言った覚えはない、『彼は怪仏ではありません』なんて」


 かすみの頬が引きつる。

「そういうっ、問題じゃあ……!」


 百見はうなずいていた。

「ああ。……分かっているよ。そういう問題なんかじゃない」

 紫苑へと向かう崇春を見上げる。

「彼は『怪仏・増長天』。この世で唯一明確に、『人類の味方として存在する怪仏』。それを扱うことこそが僕らの仏教宗派、『南贍部宗なんせんぶしゅう』そもそもの存在意義――」




 上空では大日金輪が、高く光を掲げていた。周囲の景色を、その遥か上方の不穏な曇り空さえも歪めるような、不自然にぎらついた光。澄んだ白ではなく照りつける銀色、まるで鈍く輝く刃物のような。この世そのものを裂く刃のような、あるいはいびつに輝く、新しい太陽のような光。


 それを見上げて大日がつぶやく。頬を歪めて笑いながら。

「――さあ、今こそ。東条紫苑よ鈴下紡よ、お前たちの望みが叶うときだ! お前たちの八つ当たりのまま、この世全てが歪むときだ! 代わってこの我が見届けよう、二人と同じ地獄の底に、誰もかれもがちるさまを! この異界ごと打ち破り、現世をあまねく歪めてくれよう……ゆけ、【破却し歪曲わいきょくする――」


「――喝ぁぁぁぁっっ!!」

 そのとき。飛び込んでいた、その叫びを上げる者が。澄んだ金色こんじきの光をまとい、風を切る音をうなるように上げながら。

 燃え上がるような光をまとう崇春の拳が、大日の掲げた光を打ち、裂き割り。銀色の飛沫しぶきへとかき消した。


 両手を掲げた格好のまま、しばし大日は固まっていたが。やがてうめきがその口から洩れた。

「――な……! ばかな、お前は、死んだはず……確かに裂かれて、死んでいたはず」


 ふ、と崇春は笑っていた。

「――わしもそう思うたんじゃが。どうもわしは、どこまで行っても不器用仏教な男……死ぬんもどうやら下手くそじゃったわ」


 口を開けたまま言葉を継ぎかねる大日を前に、崇春はその目を見た。

「――のう、怪仏・大日金輪……東条、鈴下。これだけは聞――」


 その言葉が終わる前に、大日は歯をきしらせた。

「――おのれ……! 何をしたかは知らんが、くまで楯突たてつこうというのか……! この世が歪む瞬間を、二人の望みが叶う時を、よくも邪魔立てしてくれたものだ!」

 宙に立つ大日の体に、えるような光が上がる。白く湧き起こりあるいは青黒く膨れ上がる、嵐に騒ぐ雲のような光の群れが。溢れ出るその力が目に手に脚に全身に宿り、吹き上がり噴き荒れる。

「――世を歪めるのは、しばし後だ……まずは貴様を! 二度と立ち上がることのないよう、完全に消し飛ばす! 受けよ、【無尽むじんなる熾盛しじょうの光】!」


 その手から放たれた白い光条が、崇春を呑み込むべく向かう。

 だが。


「――うぉおおおっっ!」

 崇春もまた、その光へと飛び込んでいた。真正面から。

 踏み込む足から風を吹き出し、宙を蹴るようにして駆ける。振るう拳が、澄んだ黄金こがね色の光をまとう。


 そうして、向かい来る大日の光が完全に崇春を呑み込み。

 そして。崇春の拳が今、白い光を突き破る。


「――おぉぉ……ぅおおおぉおぅりゃああーーっっ!!」

 大日の光を二つに引き裂き、輝くちりへと変えながら。飛び込んだ勢いのまま、崇春の拳が大日へと向かう。


「――な――」

 光を放った体勢のまま何の反応も取れてはいない、大日へと拳が迫り。風圧にその髪が揺れ、宝冠が首の瓔珞ようらくが揺れて音を立て。鋼のような拳が、顔面へと迫り。

 その寸前で、止まった。


「――な、ぁ……?」

 目をつむりかけていた大日が、ゆるゆるとまぶたを開ける。


 その目の前で。崇春は、止めた拳を振り上げた。もう片方の手と共に。


「――しまっ――」

 大日が防御の構えを取るより早く。


 ぱん! と高く音を立て、大きな両手が打ち合わされた。大日を打つことなく、ただ両手を、合掌するように合わせていた。

 そうして、腰より深く頭を下げた。崇春は、怪仏・増長天は。


「――すまん! 本当にすまなんだ、ずいぶん待たせてしもうたわい。じゃがこれだけは聞いてくれ。……約束、果たしに来たぞ。言うたとおり、おんしらを救いにの」

 そうして、手を差し伸べた。金色こんじき籠手こてをまとった手を、握手するように開いて。


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