六ノ巻43話 増長天
「……え」
かすみは思わずつぶやいて、その光景を見ていた。
動かなかった、崇春は。
それでも、百見はそばにいた。
なおも口を寄せ、語りかける。祈り、訴えかけるように。
「今こそ全てを思い出し
おかしくなったのだと思った、百見が。
目の前の現実を――親友の死を、そして今まさに歪められようとしている世界を――受け入れられず、壊れてしまったのだと。そうなっても、無理はないと。
そして次に。
おかしくなったのだと思った、かすみ自身が。
「……おう……なるほど……のう」
崇春が、目を瞬かせ。それから百見の顔を見上げた。肩から腹へ半ば真っ二つに、
「つまりは……目立ちの時間、っちゅうことか」
「え……」
かすみは何度も目を瞬かせる。そうすればこの幻が、都合のいい幻想が消えるかと思って。
それでも、崇春は動いていた。首を持ち上げ、辺りを――紫苑を、瞬きしかできずにいるかすみを、遅れてその事態に気づき固まる皆を、斬り裂かれた自分自身を――見た。
苦笑いする。
「むう……こりゃあこっぴどくやられたわい。ある意味もう、ずいぶん目立ってしもうたの」
愛用の白紙本を懐から出した百見が崇春の頭をはたく、ごく軽く。疲れ果てたような笑みを浮かべながら。
「そんなことを言ってる場合か。……すまないが非常事態だ、奴は今にもこの世を歪めようとしている、貴方が守護する世界をだ」
そこで不意に目をそらし、何かに耐えるように唇を噛んだ。つぶやく言葉は震えていた。
「……こんなことは言いたくない、言いたくなかった、君に、崇春、もう二度と。言わずにいられたらどんなにいいかと思っていた。けど……言わなくちゃ」
崇春に向き直り、五体を地に投ずるように。両手を、額を地につけた。絞り出したような声を上げる。
「どうか、願わくば。世界を、全ての人を御護り下さい。今こそ全てを思い出し、貴方の全てを使い尽くし……この世をどうか御護り下さい。
土につけた、その手はいつの間にか握り締められていた。地へ向けたその目は眼鏡の奥で、泣くようにきつくつむられていた。言い終えたその口は、震えるほどに歯を噛み締めていた。
崇春は横たわったまま、それを聞いていた。目をつむる。
「うむ。分かった、だいたい思い出してきたわ……なるほどのう」
苦笑して首をもたげ、自分の体を見る。
「前々から、我ながら頑丈じゃとは思うちょったが。しっかし、これで生きとるんじゃからのう、さすがのわしでも思い出したわ。今日も道理で急に、風の力なぞ使えたわけじゃ……新たに編み出したのでもなく、思い出してのう」
そのままの姿勢で百見が言う。震える声で。
「すまない……君を、だましていたかったわけじゃない、けど……こんな真実を、言いたくなんかなかった」
崇春は歯を見せて笑う。
「気にすることか、お
そしてまた目をつむった。
「今少し、思い出すべきことがあろう。わし一人では分からぬかもしれん……頼む。お
百見は顔を上げる。汚れた額も濡れた目元も拭うことなく、姿勢を正した。
「崇春、いや増長天。手短に言うぞ――お前の心をここに出してみろ、僕がそれを打ち砕いてやる。お前の怒りをここに出してみろ、僕がそれを焼き捨ててやる。お前の欲望をここに出してみろ、僕がそれを洗い流してやる。迷いをここに出してみろ、善意をここに出してみろ、情愛をここに出してみろ――全て、叩き壊してやる」
かすみは身動きもせず、その光景を眺めていた。他の皆も同様だった、石になったように何も言わず、ただ二人を見ていた。
崇春は目を閉じ横たわったまま。
百見がさらに言葉を投げかける。
「問おう、父母
崇春は、決して安楽に寝てはいなかった。横たわったまま目を閉じたまま、身じろぎもせず。口を引き結び眉を寄せていた、百見の問いに向き合うように。その身も流れた血もさらけ出した
「問おう。これは有名な話だ、知っているかも知れないが。ある人が僧を招き、
目を瞬かせた後、ふ、と崇春は笑っていた。
「なんじゃ、一休さんのとんち話ではないか」
ほんのわずかほほ笑んで――泣きそうな目をして――百見はうなずく。
「ああ。一休
崇春は半ば口を開けていた。ごく自然に開かれた目はどこか遠くを見るようだった。
そうして、ずっとそうしていて。
不意に、一つ瞬きをした。
「……、あっ」
跳ねるように身を起こした、半ば真っ二つの体のまま、肉も骨も臓物もさらして。全てをさらして応えていた。
「虎は――おらぬ」
百見は見定めるような目をしてうなずく。
「そう」
崇春は遠くを望む目をして言う。
「そこにあるのは、墨が絵の具が筆の跡が――虎の形に寄り集まったという、そのただの形……実体などない、それだけの『現象』」
「そうだ」
まなじりが裂けるほどに目を見開き、崇春はどこか遠くを見ていた。
「おらぬ虎を縛る必要などどこにもない、そもそも無いものを縛ることなどできはせぬ――そうじゃ。この問いは、最初の問いとまるで同じ」
百見がうなずく。
「そうだ」
崇春は続けて言う。
「『ならばその虎、屏風から追い出して下さい。そうすれば私が縛り上げてみせましょう』そう答えた一休さんと、最初の問いはまるで同じ。『ならばその心とやら、怒りとやら欲望とやら、迷いも善意も情愛も――お前の中から取り出してみろ。そうすればたちどころに消し去ってみせよう』――そんなことができるわけはない、なぜなら虎など――心など――『無いのだから』。『筆跡が寄り集まった、ただの軌跡と同じく。様々な要素が、それに対する反応が寄り集まった、ただの現象』。――縛ることなどできはせぬ。もとより縛るべきものなど、どこにもない」
崇春は腹の底から――そこは半ば裂かれてはいたが――、吐息を洩らした。安堵したような、何もかもが
ぱん、と一つ、ひざを叩いた。何かが解ったとでもいうように。風船の破裂するような音を立てて。
「――ああ……ああ。あー、あー、あーあーあー……そう。『縛るべき虎などどこにも無い』。そして『存在せぬ虎は、何ものにも縛られることはない』――『その虎こそが、心――そして、わしら自身』。……何にも、縛られることはない」
崇春はうなずき、笑っていた。
「――なるほど。すとん、と
重く、百見はほほ笑んだ。まるで刃を突きつきられ、笑えと
「そう。……
「――うむ。これにて、じゃのう。よっこらせ、と」
まどろむようにほほ笑む崇春は、わずかに身を起こし。残った右腕を下に、頭を支えて横たわる。
まるで――かすみも仏像の画像を検索していて見たことがある。亡くなるその時の釈迦を模したという仏像――
包むような、もやが上がった。崇春の全身から、澄んだ金色のもやが。吹き上がるでなく、燃えるようにでもなく。ただ、包み込むように上がっていた。
それが晴れたとき。崇春は変わらず横たわっていた。ただ、巨大な鬼神の右手は元の腕に戻っていた。ちぎれたはずの左腕も元のとおりに在った。それらの腕は袖を絞った衣に包まれ、澄んだ
よっ、と声を洩らして立ち上がる。準備体操をするかのように首を回し腕を回し、腰を回す。その体はもう、斬り裂かれてはいないらしかった。
腕を伸ばすようにストレッチしながら言う。
「――さてと。
その目は宙にある大日金輪を――紫苑を、紡を――見据えていた。
百見は、堅くほほ笑んだ。
「ああ。往ってこい、崇春、いや増長天……いや。崇春」
そうして、強く合掌した。
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