汽笛(後)

ココアを飲み終わると、ミコトとハルはみぞれ降る夜の町を歩く。


ここら一帯かつては海に面しており、この神社も人々が航海の安全を祈って海の神様を祀ったものである。より良い交易ルートが見つかり港として廃れてからも白砂青松の景勝地として親しまれていたらしい。その名残が感じられるのは神社の境内の松林くらいで、今は単なる住宅地である。


神社の西側へ進む。この辺りは中学生の頃までは二人の庭だったが、高校で別れてからはなかなか来ることがなかった。新しく建った家も多い中、昔なじみの建物を見ると少しだけ気分が上がった。


「あれ、ここって前からコンビニだっけ?」


ハルは冷たい光を指差した。


「いや、違うはず。えーっと…………あれ? うーん、前の建物って案外覚えてないもんだね」


「あ、クリーニングじゃない? この辺にパパのスーツ出しにチャリ漕いだ記憶あるもん。それにほら、うっすら面影が見える」


「なにが?」


「死せる者たちの悔恨が、クリーニングの亡霊が……!」


ハルは手で双眼鏡をつくってコンビニを眺め始めた。


「ミコトも見なよ」


「やめてよ。バカが伝染る」


そんなやり取りが懐かしく、心地いい。


しかし、前屈みになったハルのうなじに街灯の青白い光に当たって、みぞれの溶け流れた仄かな筋が涙のように反射すると、二人の間のたった数十センチに染みこむ冬風の冷たさが妙にはっきりしてきた。


ミコトは手を擦り合わせてハーっと白い息を吹きかけてから、ハルの隣に並んで、同じように双眼鏡を覗く格好をした。


「で、なに? 亡霊ってどれ?」


「あそこ。 右手にアイロン台、左手にもアイロン台」


「…………付き合ってらんない」


「待って、待って。いるってば。ほら、あそこ、レジの前」


「どれ?」


「今、おでん注いでる」


「んーと……違う、あれは幽霊じゃない」


「じゃあ何?」


「ただ顔色わるい店員」


「死霊じゃないの?」


「失礼な、生きてるよ」


「つまり生霊ってこと?」


「生き物ってこと」


とか言っていると、その店員さんがこちらに気づいて目を細めたので、恥ずかしくなってミコトとハルは慌てて店から離れた。


「幽霊見えた?」


「いや、全然。でも、まあ、確かに、言われてみれば、あそこクリーニングだった気はしてきた」


「ほら、やっぱ、見えてたんだ」


「いや、幽霊は見えてないってば」とミコトはかぶりを振ってから、


「でもなんか、こうやって二人でクリーニング屋覗いて適当なこと言って、そんで叱られたな、って」


ミコトはハルの顔を覗いた。ハルはキョトンとしていた。


「そんなことあったっけ」


「あったよ」


しかし、しばらく歩くと、くすんだ看板があった。そこに『ウォッシュタケナカ』の文字がある。ミコトとハルが気難しい親爺さんに怒られた、あの思い出のクリーニング屋であった。


「「まだあるじゃん!?」」


二人は素っ頓狂な声を上げた。コンビニのできる前のことは、結局思い出せなかった。


さらに歩いていくと公園が見える。二人は吸い込まれるようにそこに入った。中学の頃から、学校から出たはいいが家に帰るのが億劫になると自然とここに集まったから、それを身体が覚えていたのであろう。ハルは公園のブランコに立って「思ったより高いね」と不安気に微笑む。「それ中学のときも言ったでしょ」とミコトは笑いながら、しかし今ハルが制服を着ていないのが悲しかった。


「ねえ」とミコトは訊く。「今日は、なんで誘ったの」


「理由なんかないって。単に、気が向いたから」


「じゃあ、いい。私からはもう何も訊かない」


ミコトは夜空を見上げた。星はない。暗闇に浮かぶみぞれはチラチラと光って揺れる。額に当たって、溶ける。


「あのさ」とハルは気持ちを隠すのようにブランコの振れ幅を大きくして「旅に出るんだ、私」


「旅行?」


「いや、旅。この街から出てくの」


「どこ行くの?」


「……わかんない」


「帰ってくるの?」


「……わかんない」


「なにそれ」とミコトは吐き捨てるように言って、俯いた。


この街に雪は積もらない。みぞれならなおのことである。地面の土はぽつぽつと黒い点が染みているが、朝になれば乾いて消えてしまう。


小さく「ごめんね」と呟いて、ハルはブランコから跳び立つ。その直後、どこかからボオオンと汽笛が聞こえてきたと同時に突風が噴いてみぞれが勢いよく流れ、ミコトの視界を真っ白に覆った。わずかに見えるハルの姿は、白く、淡く、バラバラに崩れて、みぞれの嵐の中に混じって、溶けていく。そして、


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ミコトが目が覚めると、そこはフェリーの中であった。窓の外は暖かな昼の光に満ち満ちて、海の蒼が生き生きと映えている。


「ミコト、どうかしたの?」と同乗の友人が尋ねた。


「いや、なんか昔の夢を見た気が……」とミコトは夢の内容を思いだそうと首をひねったが、溶けたみぞれの行方が知れないのと同じで記憶はもう復ってはこない。


「まあいいや、それより到着まであと何分?」


「一〇分だって」


「そっか。それじゃもう、寝れないね」


ボオオンと、また汽笛が鳴って、消えていく。ミコトは耳を澄まして、名残惜しそうにその余韻を追いかけた。

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みぞれ降る日月(短編集) 馬田ふらい @marghery

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