一「消」入魂

結騎 了

#365日ショートショート 011

 この『一球』に関しては、野球部のエースである野々宮くんだって、僕には勝てないだろう。

 右斜め前の席にある彼の大きな背中を見ながら、決意を新たにする。彼が県内でも注目されるピッチャーで、それもかっこよくて優しくて気遣いができて人気者だということは知っている。けれど僕だって、ずっとこの日のために戦略を練ってきたんだ。この投球を、絶対に外してなるものか。

 まず、消しゴムは通常のままだと軌道が読みづらくなる。白いゴムのような物体が、それも立方体でカクカクしたまま地面に落ちると、不規則なバウンドを引き起こすのは明白だ。それではいけない。ちゃんと狙ったところに飛んでくれなくては。ここ何日か、僕は消しゴムを角から優先的にすり減らしてきた。おかげで、今や立方体と呼ぶには頼りない、ビー玉のような形になった。いや、これでいいんだ。こうでなくっちゃ。

 投球のタイミングだって大切だ。国語の授業だと、半田先生は何にでもよく気付く。数学の田村先生は、頻繁に机の間を歩き回る。社会の津田先生だって、生徒の手遊びにはとても厳しい。消去法で、理科。そう、理科だ。理科の江頭先生。この授業がちょうどいい。江頭先生の授業は普段から眠たくなるほど退屈だし、細かいことを注意したりはしない。おおらかなその性格、利用させてもらう。

 昼下がりの教室、西陽が射し込み、昼に食べたお弁当がゆっくりとお腹の底に落ちていく時間帯。どこからかいびきが聞こえるが、江頭先生のゆったりとした緩急のない口調はそれを妨げない。教室全体が、弛緩した空気に包まれている。今だ。ここだ。こういうタイミングで投げるからこそ、気付く。印象に残るはずだ。

 さあ、投げろ。投げろ僕。人差し指と親指で消しゴムを摘み、最小限の動作で手首にスナップを加える。スッ、と音のない音。消しゴムは僕の右斜め前、狙った位置に見事に転がっていった。そして、まだ誰もそれに気付かない。誰も動かない。そう、それでいいのだ。気付いてほしいのは、前の席に座る田中美智子さん。彼女ならきっと気付いてくれる。気付き、拾って、こちらを振り向くだろう。田中さんの綺麗な黒髪が、ふわっと回転するはずだ。消しゴムを返してもらえればこっちのもの、次の休み時間に改めてお礼を言う。話が、そう、田中さんと会話ができる。そうだ、ここだ、今だ田中さん。君の右手に転がった消しゴムに、さあ気付くんだ。

 僕の興奮が最高潮に達したその瞬間、かっこよくて優しくて気遣いができて人気者で県内でも注目を集める野球部のエース・野々宮くんが、その長い腕を伸ばし、消しゴムを拾って真横に差し出した。違う、私じゃない。微かに聞こえたその声の主の、小さな頬の紅潮を、僕は見てしまった。ゲームセットである。

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