最終話 新しい人生を送る

 あの一件があったあと、私は新しい人生を送ることになった。


 新居を借りて、大手企業の人事部に入って。

 腐っていたころの私はもういない。あのときの私はどこかへ行ったのだ。消息不明。共にいなくなった人もいたはずだけれど、顔も覚えていない。ぐちゃぐちゃになってしまったから、思い出せてもそれは原型ではない。きっと一生思い出すことはできないだろう。


 私の新しい人生は人生でそれなりに苦労があった。……いや、考えていたよりもずっと多くの苦労があった。

 セクハラパワハラサービス残業、社内派閥にお酌に相槌、強制される女子力大人力人間力、作り笑いで痙攣、迫る納期とクレーム対応、ピンボケする画面、信号待ちに襲ってくる睡魔、荒れた胃の臭いに吐き気を催して駆け込む多目的トイレ、使用中、ああ……。


 それでもあのときよりはマシなはずだ。最初はそう思っていた。でもいつしか『あのとき』がいつのことだったかわからなくなった。

 あれほど憧れていたレディーススーツも、今じゃもう憂鬱の根源でしかない。


 憧れていた?

 いつ?

 本当に私は憧れていた?


 こんな生活に、誰が憧れると言うのだろう。


『生まれる場所は選べないが、どう生きるかは選ぶことができる』


 どこかの漫画のヒーローがそんなようなことを言っていた。

 彼からすれば私のこのどうしようもない人生も自分で選んだ生き方なのだろう。だとしたら私のすべて、装飾品にいたるまでそうすべてが、努力不足の末に掴んだ不名誉で、ヒーローならなんとか名誉ある人生に上方修正できた道なのだろう。

 ご立派だよ。


 ——プシュッ。


 コンビニで買った酎ハイのフタを開ける。

 会社を出てから家に帰るまでアルコールがないともたない。いつからか高架下で炭酸が解放される音を聞くのが日課になっていた。

 クラクラする。でもそうじゃないとダメ。この吐き気は、この眩暈は、この倦怠感は、この視野しや狭窄きょうさくはすべてお酒のせいなのだ。正気でこんな状態なわけがない。わけがないんだ。ないんだ。


 そういえば、今日変な子に絡まれたな。青い髪を結んだ清掃員。凄く馴れ馴れしい感じだった。まるでどこかで会ったことがあるような。その子が「良かったですね。成りたい自分に成れて」と笑ったので「バカにしているのか」と返した。そのあとも「え、でも」と食い下がったので私は面倒くさくなって「クビにされたくなかったら消えなさい」と言った。とても残念そうな顔をされたけれど、皮肉を言われて嬉しいわけがない。悪いのは向こうだ。


 ——ズゾゾゾ。


 なんだ。もう飲み終わってしまった。ああ。もたないよ。これじゃあ。

 私は空いた缶を放り投げた。ゴミ箱に向けたはずなのにその放物線は人の家の塀を優雅に越えていった。

 あーあ。

 でも、ま、いっか。


 そのままフラフラと歩き出す。

 不意に。


 ——ボコンッ。


 音がした。


 その音が自分の後頭部からしたものだとわかったと同時に、私はそのままどしゃりと倒れた。


「え?」


 それは私の声ではない。

 足の感覚がなくて起き上がることができず、上半身だけを起こして声の方を向いた。

 青い髪の女性はカバンを抱えていた。角には血が付いている。もしかして……恐る恐る自分の後頭部に手を当てる。ぬるりとした感触と共に生暖かさが伝っては落ちた。温度が流れ出て行く。

 暗がりの中、彼女の背後には赤いものがピョロピョロと動いていた。それはまるでムカデの足のようだった。


 ムカデ。


 既視感を覚えてから記憶が蘇るまでに時間は掛からなかった。ほんの一瞬のスパークのようなもので過去が接続された。

 あのときのムカデだ。

 あれが今、目の前の女性を動かしている。

 ああ、そして青髪の彼女は、ゴミ箱で暮らしていたときのお隣さんだ。なんで気付けなかったのだろう。

 目が血走っている。肩で呼吸をしている。それでいて口は閉ざされているものだから、冴えた空気に白い鼻息が荒々しくたなびいていた。

 丁寧なあいさつをくれた、テキパキと仕事をしていた、私のために声を上げてくれた彼女の穏やかで凛々しくて悔しそうな表情はもうない。ただひたすらに、憎悪のみが顔に張り付いている。ためらいや見境などは感じられない。

 だとすれば、私は多分このまま。


 ——ドグシャッ。

 

 鼻が折れた音。口いっぱいに広がる血の匂い。

 いけない。このままでは。


 欲しいのならあげるから、いや返すから、返しますから。


「かえひまふから」


 瞬間、彼女の手が止まり、首を傾けた。

 なんて言っているかわからないんだ。

 お願い、伝わって!


かえひまふからぁ返しますから……! ほへんなはぁいごめんなさい!」


 しかし彼女の殴打の手は止まらなかった。奪われるとは、これほどまでに絶望的なものなんだと、どこか他人事みたいに思った。自分のことのように考えられないほどに、意識が遠くから私を見下ろしていた。

 血とよだれと涙が、もはやほとんど意味もなく流れて、私はそれを止めることもできず放心していた。きっと陥没した顔面の上に、赤色の液体が淀んでいるだろう。


「明日の朝、市役所に行こう」


 青髪の女性はため息みたいに言葉を吐いた。その言葉と一緒に彼女のふくらはぎからムカデが這い出ていった。

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ゴミ箱生まれのムカデ少女 詩一 @serch

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