5-60 ①
最初に『可能性を増やそう』と言い出したのはシャーネスだったらしい。
七つの風の主。その号が暗示するのは彼女の不死性の由来だ。
風とは世界を渡る無形の流れ。命を運ぶ息吹。揺れ動く運命。
紀神キュトスがかつて内包していた、分岐する自己と矛盾した歴史をシャーネスは継承した。彼女はゆらぐ
不死女神たちの中にあって最も不滅に近いとされていたシャーネスが、キュトス統合を目指すルスクォミーズの最初の標的となったのは必然だった。
全ての結果を『これはこれ』『そういう説もある』『そんな時間軸もあったね』でひっくり返されてはたまったものではない。シャーネスの打倒なくしてルスクォミーズの勝利はあり得なかった。
「確かに凄いとは思うけど、それって混乱しない? リーダー決めるとかしないと、方針がバラバラになっちゃいそう。ていうかそれ、『個我』の安定は大丈夫だったの? ほら、小鬼化とか」
生徒の素朴な疑問に対して、教師は神妙な表情で答えた。
呪術世界において、とりわけ『神』を巡る問答において重要な視点を、生徒は正確に理解している。『個我』とは呪術師にとってそれだけ大事なものだった。
「ええ、まさしくその点が彼女の脆さでした。ルスクォミーズはその弱点を的確に突いてシャーネスお姉さまを丸呑みしてのけたのです」
シャーネスという小女神にとって、個我や自己などという些事は夢に見る泡沫の幻に等しい。風がそよげばそのままどこまでも飛んでいく、儚い空想。
夢で遊ぶ風の女神は拡散し、攪拌され、覚醒を繰り返す。
そのような『軽い』自己像では足場が定まらず、より強固な個我を持った邪視をぶつけられればあっさりと押しのけられてしまうだろう。
「『塔』の中にはカネッサやカルルアルルアのように並行矛盾史を専門に扱う魔女もいますが、あれはとても危うい魔道です。修行も大詰めとはいえ、私の見ていない所で真似をしないように。ただでさえ、あなたの飛翔術は無軌道なんですから」
「言われなくても真似なんかしないよ。ってか逆立ちしても無理だし」
「そうですか? ですが、ゾラの当主はその逆立ちをさせるためにあなたをこの場所に送り出したのでは? 『七つ風』の秘儀を、再びクロウサーに取り戻すために」
教師の指摘は正しかった。憂鬱な現実を突きつけられたことで周りの風が澱む。
生徒は言葉を探すように減速し、またがった箒がゆっくりと高度を落としていく。空の上に遮るものはない。ごまかすようにくるんと身体を反転させ、太腿で体を固定しつつ頭を真下に向けた。
「逆立ち」
「リーナ。呪文の精度が甘いですよ。『逆立ちしても無理』という前提から『逆立ち』の見立てによって現実を歪めようとするのは詐術として破綻が大きすぎる」
「ミブレルお姉さまは冗談がわからないなあ」
「それ、エンバーディープにも言われました。冗談とはどういう意味ですか? 私にはその概念がわかりません」
「え、こわ」
キュトスの姉妹の十八女、ミブレルが本気で言っているのか、呪文の返しを狙ったのか、あるいはそれ自体が冗談なのか判断できず、リーナ・ゾラ・クロウサーは混乱した。浮世離れしたこの小女神は心も体も真っ白な雲で形作られている雲と霞の巨人だ。かつては空の大国で生を受けた王女であったらしく、七女シャーネスと共にクロウサー家と深い繋がりを持つ魔女だった。
「リーナ。あなたに教えられることはもうほとんど残っていません」
人の想像力を受けて自在に姿を変える雲は、時に恐ろしい怪物のように見えることがある。この時、リーナの目の前に漂う雲は厳格な目をしたティドロソフのようであり、少女は怒れる卵の殻を前にした雛のように縮こまった。
冗談など通じるはずがない。
この空での対話は修行であり、進路指導でもあったから。
「あなたが本当にシャーネスお姉さまの歩んだ空路を辿るというのなら、覚悟を決める必要があります。七つ風の中で個我を失わない、強い目的意識を定めなさい」
「いやいや。私なんかには無理だってば。お父さまにはこう、『頑張ったけど無理でした~』って感じで許してもらうし。落ち目のゾラを盛り立てるのはお兄ちゃんに頑張ってもらって、私はてきとーに生きていければそれでいいよ」
へらへらと、いい加減でちゃらんぽらんな自分をなぞって笑う。
生き方に染みついた笑い方だった。
何度も窘められ、改めるべきだと叱られた。
ミブレルは根気強く同じ態度で生徒に接し続ける。
その必要があると信じていたからだ。
「あなたは天才ですよ。でなければ、私の『
核心を突かれてそっぽを向く。
生まれた時からの劣等感。それでもしがみつかなければ前に進むことさえできない、たったひとつの寄る辺。空の民にとっての当たり前がリーナにはできない。
当たり前を可能にする『空飛ぶ箒』は彼女の欠落で、自尊心そのもの。
恥ずべき誇りで、掃われるべき埃だ。
「箒がなければ飛べない。それは果たして、本当に欠落でしょうか」
「また
「『杖』を枷と捉えるなら、空の民は確かに自由でしょう。けれど、生まれつき自由な者は、本当に自由を知っていると言えるでしょうか?」
「ほら、また
意味が分からない、と呟いて唇を尖らせる。
もちろん、リーナにはわかっていた。
自分はどうしようもなく子供で、ミブレルはどこまでも生徒にとって必要な言葉を与えてくれているだけだということを。
優しい言葉が必要で、箒に縋ることが必要な自分が情けなくて嫌になる。
リーナは自分の弱さを呪いたかった。
いっそ、自分が別の形をしていたらいい。
七つの風の主シャーネス。もしもリーナがクロウサーの始まりに関わった偉大な魔女のように自在に人生を変えることができたなら、どんな風になれるだろう。
もっと素敵な自分がいい。
もっと気楽な時代がいい。
もっと安全な環境がいい。
もっと素直な性格がいい。
それが本当にリーナ・ゾラ・クロウサーと言えるのかはともかく、もしもの歴史、もしもの世界、もしもの自分という空想には夢がある。
もちろん、ちっぽけな落ちこぼれのリーナが七つの風という始まりの神秘に届くはずがないことはわかっている。それでも、生まれ変わりのような奇跡を願わずにはいられない。どうしようもなく鈍い身体は空を自由には飛べないのだから、せめて心の中でくらい自由に空想を遊ばせてもかまわないはずだ。
「ごめんね、ミブレルお姉さま。私、やっぱり駄目な弟子みたい」
だからリーナは、心の底で自分を潰した。
周囲からの『落ちこぼれ』という呪詛によって形作られた『駄目な自分』という強固な自己像で、淡い空想を覆い尽くす。
悲しそうなミブレルの瞳に、気付かないふりをしながら。
修行の日々は、それからしばらくして終わりを告げた。
最も困難になるはずだった最後の試練から目を背けたリーナは穏やかに自分が越えられるだけの障害を乗り越え、そこそこの魔女として『塔』を卒業することになった。多くの
「時は満ちました。今よりミブリナと名乗りなさい、目的を持たぬ放浪者。魔女としての号を得れば、その浮ついた雲の心も少しは安らぐことでしょう」
師の言葉が心からの祝福であったのか、手に負えない弟子に対するお手上げの婉曲表現であったのか、ミブリナと名を変えた新米魔女には最後までわからないままだ。
それでも、師の名を分け与えられたことは彼女の胸を熱くさせた。
年若きゾラの娘はそうして『星見の塔』を卒業することになった。
言語支配者たちが覇を競い合い、各地に巨大な文明圏を築きつつある中であっても、キュトスの姉妹たちが西の果てに築き上げた小世界はひときわ強い輝きを放つ一等星だ。小さな女神たちが集う神話世界で学ぶ栄誉は血族のすべてに与えられるものではない。ミブリナは特別な機会を与えられたと言っていい。
だが、お世辞にもこれは良い結果とは言えない。
高名な魔女の教えを受けてなお、ミブリナは最後まで雲を掴むなんて絵空事を実現することはできなかった。父の期待を裏切ってしまった。
『七つの風の主』という号を、真の意味でクロウサーが取り戻すことはあるのだろうかとミブリナは思う。あるいは、これもないものねだりなのではないか。
ゾラの若き娘は『塔』の門をくぐった時から進歩がない、未熟な分家の術者のままだ。呪文を魔導書に書き写し、箒などに頼らねば空を飛べない落ちこぼれの這い地虫。うんざりするような現実がミブリナの心を大地に縛り付けている。
リーナ・ゾラ・クロウサーはミブリナという新たな名を授かったが、その本質に呪文が作用するにはあと一歩の鍵が必要だ。呪文は力であり名もまた呪縛ではあるが、雲の魔女から名を分け与えられてもまだ落伍者には欠落が多すぎた。
『箒乗り』というのは侮蔑の烙印だ。
心ひとつで自在に宙を渡るべき空の民にあるまじき欠陥。ミブリナだって心で飛ぶことくらいはできたけれど、それに身体がついていったためしはない。空想の中では誰よりも自由で、創作の中では比肩する者はいない。少女の背に生えた想像の翼はクロウサーの誰よりも大きく立派だった。それでも彼女は無価値なままだ。
無力なまま帰って、いったい何になるのだろう。
クロウサーは来訪者に連なる血族だ。その中では呪力こそが第一の権威となる。もちろん、一般的な呪術社会の中でもそれは同じ事。
外世界より降り立った神性たる来訪者たちに対し、この世界より現れた言語支配者たちは総力を結集して抗った。あるいは懐柔、同調、包摂、交渉、共存、ありとあらゆる知恵を駆使して様々な『滅びを遠ざける結果』を勝ち取った。そのすべては呪術という力がもたらしたもの。
偉大な呪術師であること。それが支配者の資格だ。
永劫なるセルアデスの手をとったキュトスの姉妹たちがそうだし、翼持つ者クロウサーと血で交わったジャッフハリム一世も同じだ。
聖なる結婚の果てに現れた血の梢。
その末端に輝いているのがゾラ・クロウサーだ。
忘れられていなければ、リーナの名もそこにある。
「あーあ、帰りたくないな」
誰にも届かないつぶやきを、空に向かって放る。
ゾラの血族は王位からはやや遠いが、尊き血を受け継ぐ者としてそれなりの責任を背負っている。
ジャッフハリム二世が完成させた偉業のひとつ、雲の上に広がる空想都市の管理。雲の領土を広げ、天空の文明圏をより発展させていくことがゾラの使命である。
雲上姫ミブレルの薫陶を受けた者として、これからミブリナの名を得た彼女は空の諸部族と相対しなくてはならなかった。血の拡散を狙うクロウサーと多様な種族の仲立ちとなり、『塔』の権威を最大限に利用しつつ、クロウサーがやりすぎないように努め、場合によっては勢力間のいざこざを調停する。
「めんどくさい」
正直、めちゃめちゃイヤだった。
だいたい、誰も彼も好き勝手に言うばかりでミブリナの都合なんて全く考えてくれないのだから腹が立つ。
師ミブレルは平和を愛しこの世界の行く末を憂う女神らしく『あなたが穏便に事を運ぶことで、多くの命が救われるはずですよ』などと言ってくれた。
一方でゾラの当主たる父は『魔女どもを利用し、お館様の歓心を得るのだ。上手くすればゾラの『七つ風』入りもあるかもしれん。失われた秘儀を取り戻すという重要な使命も忘れるな。任せたぞ、リーナよ』なんて夢を見ている。
「あああああ! 帰りてえ!」
さきほどとは矛盾したことを言っているが、少女の本心から出てきた言葉だった。
もちろん、帰りたいのは長く学んだ『塔』と実家のどちらでもない。『帰りたいどこか』だ。どこにも帰りたくないからこそ、『帰りたい』のだ。
なんもやりたくなかった。働きたくなかった。楽しいことを学んだり好ましい人たちと交流したりふらふらと遊んだりして人生の嫌なことと向き合わないままいい感じに歳を取って楽に老後まで人生を満喫したい。
空を見上げる。風を感じる。飛ぶ想像をする。
誰の手も届かない場所への逃避。
気持ちが良くて、俗っぽくて、ありふれた空想。
閃いた。それは天啓に近い妙案だった。
「帰らなければいいのでは?」
我ながら天才の発想だ。
責任や血の束縛をすべて『ぽーん』って放り投げればきっと爽快に違いない。そうだ、そうしよう。なんでもっと早く思いつかなかったのだろう。
「これから私は、したいことをしたいようにする」
後先なんて考えない。今だ。自分には今があればいい。
箒ひとつを手にとって、学んだ呪術の腕ひとつで気ままに旅をして、時にはなんかふわっとした楽しくてかっこいい感じの仕事をさくっとやって路銀を稼いで冒険譚の主人公になっちゃおう。そうだそれがいい。我に返って冷静になる前に勢いでその妙案を実行に移さないと人生が自動的に前に進んでしまう。急げ、まともな道から全力で逃げろ! なにもかもが勢い任せ、だがそれが正解だと愚者は確信していた。ミブリナは『塔』から旅立つその日に己の道をついに見定めたのだった。
「よっしゃ行くぞ! ミブリナ、新しい人生を始めます!」
宣言は、するだけなら自由だ。
実行できるかどうかは全く別の話。
ミブリナの決意を鈍らせたのは、旅立ちの直前に届いた急報だった。
『空使い』ダウザールの死。
その驚くべき知らせはクロウサー家に稲妻の如き衝撃をもたらした。
『藍』の彩域を巡る覇権争い。クロウサーの誇りをかけた呪術闘争。
結果としてクロウサー家の当主は壮絶な敗死を遂げた。
それは血族にとっての偉大な父の死に等しい。
リーナ・ゾラ・クロウサーにとってもそれは同じだ。
ただ、彼女にとってダウザールの敗北はそのままの意味で『父の死』でもあった。
使者がついでのように告げた知らせは、リーナの今後を決定づけるもの。
ダウザールの決戦に随行していたゾラ家の当主が討ち死にしたという事実。
「まじかー」
父が死んだ。おまけに兄まで死んだ。
最悪なことに、弟と妹は幼すぎる。
姉はとうに嫁入りしており、外から招き入れられた母にゾラを率いる資格は与えられていない。
次の当主は、自分をおいて他にいない。
どこかに旅立っている暇などなかった。
すぐにでも分家の長たちを集めて今後の方針を決定しなくてはならない。
「いやいやいや、逃げる逃げるぜったいに無理。なんだかんだでおにーちゃんが一番しんどくてめんどいことをやってくれるって思ってたからなんとか頑張れたのに」
ということを必死に叫びたかったのだが、実際には身体が固まったように動けない。悲しみゆえの衝撃だろうか。飛べない子を悲しそうな目で見る父と、どんくさい妹に苛立つばかりだった兄の記憶から親しみは浮かんでこない。それでも、家族とは尊いものであるはずだ。クロウサーは血の絆を重んじる。ミブリナは血族としてその死に衝撃を受けているはずだ。正しいクロウサーとして、家族として。
「こちら、父君より託された『風の便り』でございます。リーナ様宛の、最後の遺言。お確かめ下さい」
使者が差し出した手紙の封を切ると、その中に秘められていた呪文が広がり、ミブリナの心にすっと入り込んでくる。手紙に込められた情愛と期待が、遺された娘の心を激しく揺さぶった。死を覚悟して戦場に赴いた巨人の、魂を込めた願いが切々と綴られていく。重さを与えられた愛情がそこにあった。
ずるい。情に訴えかけるのは卑怯だ。父はきっと無表情で呪文を唱えたのだろう。
逃げられなくなってしまった。父はきっと心にもない言葉を紡いだのだろう。
こうなってしまえば退路はない。父はきっと必要だからこうしているだけだろう。
家督を継ごう。家族を守ろう。空っぽでもいい。寄せてくれた期待が嬉しかった。
本当は『帰りたい』のに、きちんと帰らなければリーナはリーナを許せない。子供の自分を押し殺してでも、リーナは生まれ変わったミブリナとして家に帰るべきだ。
「あーあ、また
魔女になったミブリナは、亡き父を想って胸を痛めるリーナの顔でゾラという血族の運命を背負う決意をした。
それが薄っぺらく、空虚な決意であったとしても、宣言には意味がある。
きっとこの身は不自由なまま、血に縛られて終わるのだろう。
もしもの自分。生まれ変わった人生。やりなおしの機会。自由な飛翔。
そんなものを空想しながら、空っぽな自分として生きていく。
それがミブリナという魔女の、この人生における結論だった。
幻想再帰のアリュージョニスト 最近 @saikin
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。幻想再帰のアリュージョニストの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます