5-59 ジグザグリーディング
クロウサーの主要血族を示す古い名に、『蹄鉄の四血族』というものがある。
古き空使いダウザールが『第一の死』を迎えたあと、血族の中から我こそがと名乗り出た者たちが空使いの称号を受け継ぐために冥府下りを決行した。
選定レースの起源とされているこの呪術儀式は苛烈を極め、死出の旅路に等しい難業を達成できたのはたったの四人。
死後の世界は暗い地中であり光あふれる天の御殿でもあったという。
矛盾した伝承は摂理を無視した困難をそのまま表している。
常識を超え、理解を阻む壁を壊して死せるダウザールの魂と謁見した四人の呪術師たち。ダウザールはその偉業を称えて愛馬チェダラーテの霊妙なる蹄鉄を贈った。
彼らが蹄鉄を現世に持ち帰ると、それは青い輝きと共に高貴なる血を滴らせた。
青い血が四人の中に入り込むと、彼らの身体には始祖クロウサーの象徴とされる四つの
四人の魂に刻まれたのはクロウサーの記憶そのもの。
この事実をもって、四人の勝利者たちはクロウサーの主流たる四大血族の基礎を築くことに成功したのである。
つまり神馬チェダラーテは、血族にクロウサーの力を与えた『母』であったのだ。
動物たちが愛の歌を響かせるただ中で、ひときわ強い嘶きが空を震わせた。
馬言語魔法。その身で切り裂く風そのものを『世界』と見なして干渉する馬種族の文明基盤。それは『嘶き』という名で知られている最古の呪術基盤のひとつだ。
この巨人級神馬の嘶きは、騎手ダウザールの呪力に匹敵する。
「ファーガスト。私のいとし子。この青い血を受け止め、ひとつになりましょう?」
人と共に歩む獣の中でも、馬と犬は特に『使い魔』として秀でた資質を持つ。
肉、卵、乳といった食にまつわる求めより、人と共に狩猟や戦争のために駆け抜けることも求められた獣たち。そうした在り方は主従の間に強い結びつきを生み、原始的な『使い魔』としての形が成立する。
時に、その絆の深さは家族にも匹敵するほどだ。
乗り手が求めれば馬は応えるし、優れた乗り手ほど馬の求めを正しく理解できる。
両者の愛は双方向的だ。
ゆえにこそ、神馬チェダラーテの求めをファーガストは正しく理解した。
目の前の『融血』がどれほど恐ろしくても、それが力をもたらすのであれば。
「ここで逃げんのは、男じゃねえよな」
彼は選定レースを巡る複雑な背景事情を知るよしもない。
だが、レーサーとしてすべきことなら必要なだけ理解していた。
草の民に生まれた騎手が目指す頂きの光景が、手の届く場所にある。
ならば迷うことはない。ファーガストは一歩を踏み出し、そこに至った。
すなわち、人馬一体の境地。
「ラーテ! 合体すんぞ!」
「ああ、ようやく願いが叶うのね! ファーガスト、私たちのいとし
『三本足』との結びつきなど手淫に等しく誉れは皆無。
だが獣愛神レメスの浄界の中で既存の障壁など無意味だった。
愛、熱情、官能の旋律。喜びの歌が世界を揺らす。
恍惚の中、馬のアストラル体から溢れ出した青い血が機甲箒とレーサーをどろどろに融かしてひとつの生命へと変質させていった。
かつて獅子王キャカラノートが平定した異形の諸部族には『ケヌートゥ』なる人と馬の混成種族が存在していたと言われているが、いま心身ともに混じり合ったファーガストとチェダラーテの在り様はまさにその伝説を再現するかのようだった。
あるいは、シナモリアキラならばかつて相対した修道騎士を引き合いに出してまた別のたとえを用いたかもしれない。
いずれにせよ、ファーガスト=チェダラーテは人であり、馬であり、箒でもある『何か』へと生まれ変わった。
直後、人馬ファーガストの背を風が後押しする。
古き神馬が駆け抜けてきた歴史の重み。
チェダラーテが選手とひとつになったことで、その膨大な文脈がテキストベース・サーキットというルールの中で機能し始めたのだ。
それは草の民という少数民族の怒りと恨み。
槍神教に対する屈従の日々の記憶。
そして、上位者による幼子の洗脳。
チェダラーテの傀儡と化した騎手は扇動呪文を紡ぎ出す。
ファーガストの咆哮がアストラルネットに伝播し、波紋を広げていった。
「怒りを解放せよ、草原に生きる者たちよ! 今こそ蹄鉄の約定を思い出せ!」
それは草の民の愚連隊であった過去を持つファーガストにとっての怒りでもあった。自由であるべき草原を穢される怒り。自治区という名の檻に『遅れた文明』を封じられているという憤り。なによりも、『それが同胞たちのためになる』という言い訳を口にして槍神教に魂を売った仲間たちの裏切りが苦痛だった。
仲間を捨てて守護の九槍となった『
偉大な英雄の名を授かりながら、その誇りを捨てた草の民の恥晒し。
偉大な総長がたった一度の敗北で相手に尻尾を振った時の失望をファーガストは今でも忘れることができずにいる。
「もう槍神教に頭を下げる必要はない! ずっと俺たちと共に草原を駆け抜けた友と手を取り合い、かつての栄光を取り戻そう! 草の民にはチェダラーテを祖とするフリグ・クロウサーの血族がついている!」
クロウサーという巨大血族の一翼を担うのは、霊長類だけではない。
ダウザールの愛馬より連なる血統。
その『優れた馬の系譜』は現在の名馬たちの八割を占める。
ゆえに馬と共に生きる草の民は、その大半がクロウサー家の影響下にあると言っても過言ではない。
ファーガストの扇動に、『ただ異なる権力に鞍替えしているだけではないか?』と冷静な指摘をする者もいた。
ただクロウサー家と手を結ぶというだけならば、草の民の心には響かなかったに違いない。だが自らの愛馬にクロウサーの血が流れていると知ったならどうか。
生まれるのは拒否反応ではない。半身を拒絶することなど自殺同然だからだ。
ゆえに草の民はクロウサーを受け入れるしかない。
大神院に対するクーデターという大きな流れの一部を『好機』と見た草の民たちは次々にファーガストに共鳴し始めた。
その感情は、既存秩序を変えていこうとするリーナへの若者たちの共感に近い。
『何かをやってくれそうな若者』に対する期待が彼らの背を後押しする風となる。
『嘶き』が馬体を変化させていく。拡張部位である角・翼・ヒレといった特徴が青い血から生じ、ファーガストをより完全なる呪術師の高みへと引き上げていった。
一方、劇的な追い上げによってトップグループとの差を縮めていくファーガストを見て、勝機を見出した者がいた。
「ここだ。ここしかない」
緑天主ロードデンドロンは、劣勢の中に一筋の光を見ていた。
動物の楽園と化した渓谷ステージは終盤。既にリーナたち先頭集団は次のステージへと移動するための『門』に迫っている。
『獣』という記号を用いた戦いを制したのはファーガスト。このルールの枠内でティリビナ人が優位に立つことは困難だ。
だが、次のステージならば。
隣接異界から第五階層へと帰還した選手たちを待つのはガロアンディアンと隣り合う深い森。古き『死人の森』の試練である。
『少数民族の誇り』という風に追い縋るように加速し、次元の壁を突破する。
ティリビナ人は移り変わる光景を確認するや否や、猛烈な加速を試みた。
初手のジュティアとミナ、そしてジーゼロによる連続回想がもたらした悪影響はまだ尾を引いている。 『回想飽和』の恐怖は根深い。
だが窮地の緑天主はこのまま手をこまねいていても差が広がるばかり。
使うならここしかない。世界が切り替わる瞬間、文脈とルールがリセットされて『次なる展開』への期待が高まる絶好のタイミングを逃さず捉える。
ロードデンドロンの脳裏に浮かび、テキストベース・サーキットの紙面に広がったのはひどく荒んだ過去だった。
迫害。内戦。戦火に震える子供たち。
ティリビナ人を異獣と蔑む者。ティリビナ人との共生は不可能と突き放す者。ティリビナ人と手を取り合おうとする者。ティリビナ人を知らぬ者。
淡々とした、記録映像のような事実の連続。念写というには硬質な悲劇の連鎖。
頑迷な老人たちが語る恨みと、中古端末の中に広がる自由な世界との間に横たわる巨大な壁。外の世界への憧れや恐れが入り混じった複雑な感情。
そんな中、『街路樹の民』という運動を主導している『上の世界のティリビナ人』がいるという知らせがロードデンドロンの心に希望を灯した。
「この選定レースに勝利して真の意味で緑天主となれば、故郷の長老たちも耳を傾けてくれるはずだ」
老人たちという『不理解の壁』に抗う若きロードデンドロンの姿がアストラルネットを通じて世界へと広がっていく。
この回想はティリビナ人の置かれた苦境を訴える内容であり、同時にロードデンドロンたち『同胞団』が融和の決意をもってこの祝祭に参加していることの表明だ。
「もう誰も悲しませないために、負けるわけにはいかない!」
必死の形相で加速するティリビナ人の姿に嘘はない。
たとえ上位入賞が絶望的であっても、観客に伝わるものはあった。
逆に劣勢だからこそ健闘を称える声が増えていく。
ある意味で、彼は参加した目的のひとつを果たしていた。
大きな注目が集まっているこのレースに出場し、この回想を披露した時点でテロリストや異獣といったティリビナ人のイメージは完全に覆されている。
ティリビナ人との遺恨を抱える者もいるが、そうした者たちも『ロードデンドロンのような若い世代は古い世代とは違う』という認識を得るに至っていた。
綺麗に整えられた、適度に可哀想で同情可能なストーリー。
応援したくなるバックボーン。
そして異質な外見を魅力に変える俳優。
それでいて、丁寧に作り込まれたティリビナ社会の状況をわかりやすく伝えるためのメッセージ性とディティールの数々。
中継動画を見ていた観客たちの心は沸き上がった。
『いいね』のかわりに集まったのはおびただしい数の『考えさせられる』だ。
『考えさせられる』『考えさせられる』『考えさせられる』『考えさせられる』『難しい問題だと思う』『考えさせられる』『募金はこちらまで』『#枯れ木難民は出て行け』『考えさせられる』『考えさせられる』『深いいね』『考えさせられる』
画面の向こうにある遠い世界の悲劇に胸を痛めながら、正しさに賛同を示す観客たちの声は風となってロードデンドロンの背を押していく。
順位が変動し、ティリビナ人はトップグループに食らいつこうとするファーガストの背に追い付こうとしていた。
林立する障害物を巧みに回避し、方向感覚を狂わせる森の中でも正確に最短ルートを選択して突き進むティリビナ人は、まさしくこの場の主役だ。
「しみったれてんだよ三行でまとめろや」
そう吐き捨て、緑天主を稲妻のように抜き去っていく男がいる。
クリーナーだ。
度の強い酒に依存しながら酩酊の精神高揚で加速し、全てを置き去りにする理不尽となってファーガストの真横に並ぶ。
彼の目の前に広がるのは一冊の古い魔導書。
『死人の森の断章』がその真価を発揮していた。
「俺も含めてモブキャラの過去なんてみんな真面目に読んでねーよ。まとめ動画で把握すりゃいいだろそんなもん。ざっと台詞だけさらっとけ」
暴言だが真理でもある。
ある種の階層の人々はロードデンドロンを『お行儀よく』応援するだろう。
正しい若者に共感し、素朴な善性の発露として署名や募金をするだろう。
しかし、全ての者がそうするわけではない。
異種族の姿を視界に入れただけで嫌悪に顔をしかめる者もいるし、そもそもこうした娯楽に『真面目な話を持ち込むな』と憤る者だっている。
つまみと安酒とスポーツ新聞を手にレース展開を予想して展開の不条理さに罵詈雑言を吐き散らす者とてけっして少なくはない。
もちろん、これは金を賭けているからこその激情だ。
庶民にとって目の前の金は重要だ。遠い世界で起きている少数民族の苦しみよりも、賭博の結果のほうが遥かに『重みのある現実』なのだから。
更に言えば第五階層は広大で、祝祭は開催期間が長すぎる。
観光客の全てがレース中継にずっとかじりついているわけでもない。
たまにハイライト映像を観たり、まとめ動画を確認したり、ネットメディアの速報を見れば十分という者の方が多数派と言える。
そうした『熱心ではないにわかファン』だって、応援している選手がいたりするし、その勝敗に一喜一憂するのである。
だがテキストベース・サーキットという媒体は、活字情報に強く依存している。
これはこの呪術世界といえど明らかに万人向けではない。
長い文章など読めない、読んでいられない層というのは存在する。
あるいは、駄文など読むに値しないと考える者も。
「こんなもん、丁寧に読んでる奴はそんなにいねえよ!」
セリフだけ読む者。ざっと流し読みする者。仮想使い魔に要約させる者。
テキストベース・サーキットは長すぎる。
結果が出たら後でまとめて読む。それが許されるのが文字情報というものだ。
「俺はよお、世界情勢とか少数民族の問題とか辛気臭い話題はついてけねーんだわ。こんなレース! 『斜め読み』して、『飛ばし読み』しとけばいいんだよ!」
クリーナーの粗雑な結論は、しかしロードデンドロンが取りこぼした世界を正確に代弁していた。『考えさせられる』のは疲れるし、付き合ってられないのだ。
この男が
連続した過去の開示は観客を飽きさせる。よって彼はただ、『断章』という遺物の突出した力を駆使してこの森と親和した。
ただの森でなら、ティリビナ人には勝てないだろう。
だが『死人の森』であるのなら、地の利はクリーナーにある。
その不可解な事実と唐突に登場した強力な魔導書に観客たちがざわつきはじめる。
ここで回想シーンに入って解説をしてくれたならすぐに納得できただろうに、レース展開のセオリーゆえにそれは叶わない。実況と解説もあえての沈黙を選び、より注目が集まっているリーナの方に言及し続けている。
謎が謎を呼ぶダークホース、クリーナーとは何者なのか?
この男の動きがレースにどのような影響を及ぼすのかはいまだに未知数だ。
観客に蓄積したフラストレーションは、皮肉にも対抗回想がないからこそ次なる展開の期待となり、彼の背を押す風となった。
回想を温存するということは、一発逆転の可能性を残すということ。
トップグループに追い付くほどの加速はできないが、焦らすことで『流れ』を途切れさせることなく速度を維持している。
「待っていてくれ、リーナ。お父さんが、お前を自由にしてやるからな」
駄目押しの小さな呟きが伏線となり、『考察』と『予想』が膨らんでいく。
アストラルネット上ではこのタイミングで投下された『謎のダークホース・クリーナーの正体とは?』という動画が拡散。
「トントロシューラだよ」
「ポロロンセスカです」
「今日は選定レースのダークホース、クリーナーの正体に迫っていくよ」
お豆腐頭のちびキャラによる『仕込み』がクリーナーの背を押して、レース展開をコントロールしていた。
器の形をした駒たちが動き、空虚な盤面を揺るがしていく。
指し手たちが空の器に注ぐのは、奇しくも同質の呪文だった。
すなわち、若い世代への期待。
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