わだかまりが溶けたスープ
冬寂ましろ
山間の道の駅に年取った男がひとり…
長野県小諸近くの山間にあるこの道の駅は、夜を迎えると早々に店を閉じられ、暗闇の森の中をさまよっているような寂しさだけがあたりを包んでいた。大きな山小屋風の建物は冷えた墓標のように佇み、田舎特有のただ広いだけの駐車場には1本だけの電灯が頼りなげに青白く光っている。ちらちらと舞う小さな氷がそれをうけてわずかにきらめいていた。
このあたりは長野県のわりにあまり雪が積もらない。その代わりにやたらと冷え込む。道はすでに凍りだして黒くうっすらと光り、葉を落とした木々は透明に凍りついていた。
何もない。
冷たい何かだけがただ大きく広がっている。
これじゃまるで自分そのものじゃないか…。
私はただ茫洋とその中に立ち尽くしていた。風の音だけが聞こえ、目には暗闇しかやってこない。感じられるのは冷たさだけ。自分があの日に持ってしまったようなあの冷たさ…。
「おー、さむさむ」
体の震えで自分を取り戻す。大した防寒具を着ていない老年オヤジの体にはかなりひびく。耳が冷たくて痛い。鼻もチリチリとする。除夜の鐘でも聞ければと思ったが、このあたりの人々は家に引きこもり、温かいこたつの中にいるのだろう。そんな音はみじんもなかった。
いろいろ諦めて自分の車に逃げ込む。コートをいったん脱いでばさりとはたくと、ドアをわずかに開け、滑り込むように倒したままのシートへ沈み込む。入ってくる冷気を押し返すようにドアを閉め、コートを布団代わりに羽織ると、少しだけぬくもりを感じた。あまりの寒さに暖房をつけようと思ったが、高いガソリンのことがちらつき手が止まってしまった。
なに、なれたものさ。
まあ、なれないもののほうがはるかに多いが。
車中泊というものを続けてもう3か月になる。アメリカントラックとかではないにしろ、このオンボロ車なら世界のどこにでも行けると思っていた。香港、エジプト、アメリカ、みんな行ってやると息巻いたが、さすらっていくうちにだんだんと気持ちが削がれてしまい、どこにも行く気が失せてしまった。今では長野県の端っこで寒さに震えている。
まあ、いいか。このまま寝ちまおう。
シートにうずくまってしばらくすると、寒さに我慢できなくなってきた。車の中は冷え冷えとしていて、シートからは底冷えする寒気がじわりと襲ってきていた。このままではまた腰痛になってしまうな。布団が欲しくなる。それぐらいは買えるお金はどうにかあるが、買ってしまったらもう戻れなくなると思うと、どうしても買えなかった。戻れない? もうずっと戻れないじゃないか。
何か食べるか。
食べたら少し暖かくなって、どうにか眠れるだろう。
少し離れたコンビニで買ってきたものをビニール袋から取り出す。ついいつもの癖で、赤いきつねと緑のたぬきの両方を買ってしまったことに苦笑いする。
娘は赤いきつねの揚げが好きだったな…。子供の頃はいつも揚げばかりをせがんでいた。つられて私も食べるようになったが、娘の欲しがる視線が痛々しくなり、自分は緑のたぬきを食べるようになった。いつの日にか高校生になった娘は「お父さんはたぬきのほうが好きでしょ?」と夜食に差し出してくれた。親の心、子知らずだ。それでも、あの一杯は実にうまかった。
薄いビニールをひっかくように破き、薄い紙の蓋をわずかに開ける。くるりとする蓋を少しなでつけてやり、助手席のシートに置く。少し斜めになったカップに気を付けながら、蓋の隙間から水筒のお湯を流し込む。コンビニのポットから移し替えてから少し時間が経っているせいか、すっかりぬるい。それでも湯気はたくさんあふれ、ドアのガラスを曇らせた。木の割り箸を蓋の上へ重石代わりに載せると、少し心が落ち着いた。
出来上がりを待っている間に音楽でも聴こうとラジオをつける。音量を小さく絞ったスピーカーからは、年末恒例のあの番組が流れていた。
「喉越しつるつる、来年くるくるか…」
誰だっけ、あの髪の長い俳優だか歌手だか…。顔は思い出すが名前が出てこない。あれもこの番組に出ていたんだよな。あんたが西城だっけか? 暮れなずむ夕焼けの…なんだっけ。歳をとったせいか、もういろいろと思い出せない。それでも忘れたい思い出だけはいつもよみがえる。
妻を亡くしたのはちょうど今ぐらいだった。娘が幼稚園のときだ。職場に電話をもらいあわてて病院についた頃にはもう冷たくなっていた。いつも家族を置いて仕事にかまけていた自分に罰が当たったのだと思った。せめて娘だけはあちらに連れて行かないでくれと抱きしめながら泣いた。それからは男手一つで娘を育てた。亡くなった妻もどこかで手助けしてくれていたのだろう。とてもやさしくて良い子に育ったとあのときは思っていた。
ある日、娘が好きな人を連れてきた。娘がこうなるとは思ってもみなかった。そういう人たちがいるのは知ってたが、身近にはまったくいなかったから、いざそれを突き付けられるとわからなくなった。私が育て方を間違えたのだろうと自分を責めた。何より娘を育てるために手助けしてくれたさまざまな人たちへ顔向けできないと思った。そして、そんな想いを持ってしまった自分が許せなかった。私の大切な娘じゃないか。どうあろうと私が娘の味方にならなければいけないのに、なぜこんな想いを持ったのか…。
あの日は軽く話をし、耐えられない想いからやんわりと帰ってほしいと伝えると、娘は寂しそうに「うん、わかった」とだけ言ってその人を送っていった。そのあとにすぐ家から逃げ出した。勢いで出奔したことを後悔したが、もうどうにもならない。私がいないほうがきっと娘が幸せになれるのだろう、こんな想いを持ってしまった私は娘の負担になってしまうだろう。それでも娘を心配し、そばにいてやりたい気持ちが強く残る。ひとりきりになると、こんな相反する気持ちが繰り返し訪れ、心が摩滅していった。
車内に出汁の良い香りが立ち込める。娘も食べているだろうか。年越しそばはいつもこれだった。毎年食べていたものだから、もう飽きたのかもしれない。好きな人と何を食べているのだろうか。ちゃんと温かいものを食べてるだろうか…。
娘への心配と一緒に蓋をめくる。いつもの香りがして安心する。甘辛い出汁をひと口すすると心からほっとする。暖かい食べ物は偉大だ。心も体も落ち着けてくれる。そばをすすり、かき揚げをかじる。サクサクとした触感が嬉しい。その日初めて嬉しいという感情を持てた。
娘に気兼ねすることはないのだから赤いきつねも食べてしまおうと、蓋を開けて白い麺が絡み合うカップにお湯を注ぐ。そのとき、ふいに音がした。
コンコン。
車のドアを叩く音がする。車中泊をしていると警備の人や変な輩がたまにこうやって呼び出してくる。だいたいろくなことにはならない。やれやれと仕方なしにドアを開ける。
「お父さん」
娘が立っていた。
「ミツコ…」
「いろいろ探していたら親切な人がこの近くに居るって教えてくれて」
「そうか…」
娘の隣には、あの日に大切な人と紹介された女性が立っていた。私を見るなり、こらえきれなくなったように地面に這いつくばった。
「すみません。本当にすみません。どうか、帰ってきてください。お願いです」
土下座している。冷たく凍りついた地面へ素手をついている。寒かろうに。
「私のせいです! ミツコはいつもお父さんの話ばかりするいい子だったんです。それが私のせいで…。本当にごめんなさい。申し訳ありません」
何に謝っているのだろう。私はすぐには思いつかなかった。
「ナオちゃん、そんなことしなくていいから…」
娘が抱きかかえて起こそうとするが、頑として女性は頭を下げ続けていた。
「私は! 私は…。お父さんと離れ離れにするために、ミツコを好きになったわけじゃないから…」
「わかってるよ。でも…」
ふたりがすれ違う。ああ、こんなときは飯を食えと妻は言ってたっけ。満腹になれば怒りも悲しみも忘れると。私はいつも静かに怒ることが多かった。ぶぜんと無口になる私にいつも妻はおにぎりやうどんを差し出してくれた。
ああ…、うどん。
車のドアを開け、少し伸びてしまった赤いきつねと箸を差し出す。
「食うか。寒いだろ」
「うん…」
差し出したカップを受け取ると、娘は女性をさすりながら言う。
「ほら、ナオちゃんも食べようよ。寒いから、ね」
ひと口食べては交互に箸を渡し合い、ふたりで仲良く揚げを分け合う。あれだけ好きだった揚げを…。
湯気が娘たちを包み込む。娘は確かに良い子に育った。それを見初めてくれたこの女性も、きっと良い人なのだろう。
私はいろいろなわだかまりを、いまごくんと静かに飲み干した。
「…帰るか」
娘がただ黙ってうなずく。涙ぐんでいた。
「私は…」
「君も私の娘だろ。これからは娘が2人になるんだから」
「…ありがとうございます!」
深々とお辞儀をされる。泣くまいと必死な顔を見せないように。
雪がちらつく冷たい駐車場にそのまま安堵の息を吐きだすと、まるでお湯を注いだときの湯気のように広がっていった。それは私と娘たちの間をさまよって包み込んでいく。
ああ、ようやく暖かくなれたな。うまい一杯を食べたときのように。
わだかまりが溶けたスープ 冬寂ましろ @toujakumasiro
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