第3話

水谷はじっと梶井を見た。町田の手の中、万札が行き場を失ってゆれていた。

二人は一歩も引かなかった。膠着した空気を破ったのは梶井だった。すっと視線を下に落とす。


「着信が」


点滅するブルー。着信を知らせるスマホを水谷はポケットから取り出した。手の中で震えるスマホを睨みつけると床にたたきつけた。そのまま液晶画面を踏みつぶした。

ふるふると震えていた余韻の残るこぶしをそのままにまっすぐに梶井を見た。

そして、殴った。よろめいて机に手をついた梶井をそのままに、水谷は勢いよく町田と梶井の間を駆け抜けた。酔っ払っているとは思えない勢いで手近な椅子を掴みあげると、舞台に駆け上がる。ドン。籐の腰掛を置いた。椅子の高さなどまったく気にしていない。


無造作に腰掛けた。

梶井をちらと見た。


「グロトリアン」


水谷はピアノの蓋を開けると、愛しむように鍵盤をなでた。大きく息を吸った。

そして低く深く、Gシャープが響いた。心蔵をわしづかみにする音だった。ジャズのスウィングをかき消した。左手がゆっくりと動き出す。それは右手とともに交互に音をつむぐ。


「幻想即興曲」


高速で音をつむぎながら、粒のそろった音だった。きらきらと輝く華やかな音は聴き栄えがする。高速のパッセージの中で親指が奏でる旋律が浮かび上がり、それはやがて右手に移る。聞いているものにはただ高速の華やかな曲を梶井は見ていた。

一気に駆け上り、駆け下りる。その後を情感たっぷりに水谷は歌い上げる。酔いのせいかところどころ省略されていたが、華やかなその音はショパンをより華やかに聞かせていた。最後まで疾走するように弾き終えた。余韻の残る店内、水谷は勢いよく立ち上がった。


籐の椅子が転がりおちて、椅子をこいでいた嶋老人がバランスを崩してカウンターにしがみつき、目を覚ました。緊迫した空気で梶井を睨みつける水谷の顔を見ると、ほうとため息をついて愉快そうに目を細めた。

口を開いたのは梶井だった。割れた液晶画面のスマホをを拾い上げると壇上の水谷へと歩み寄った。


「お客様」


梶井の赤みを帯びた頬をぼうっと眺めていた水谷はその一言に目に見えて不機嫌になった。自分の右手を見下ろし、ぐいっと右手を梶井の顔の前に差し出した。


「痛い」

当たり前の、そして理不尽すぎるその言葉にすら、梶井は顔色一つ変えなかった。

「お客様――」


再びのその言葉に水谷は目を大きく見開いた。そして勢いよく店を出て行った。扉の閉まる音に梶井が我に返った。


「あ、追い待て。金」


追いかけようとした梶井の肩を町田がつかんだ。行き場のなかった万札を振ると笑った。

「梶井君。彼の分は私が払うよ。珍しいものを見せてもらったからね。お釣りは彼にでもやってくれ」

「ですが」

「かの有名なショパンコンクール優勝者水谷聡史の生演奏だ。それぐらいの価値はあるだろう? さて、そろそろ帰ろうかな」

「ご存知だったんですか?」

「前にいったはずだよ。私は君のピアノのファンなんだ。九年前のあのコンクールから。同時に出ていた彼を知らないはずはないだろう?」


君は十八、水谷君は十六だったか、そういって町田はキープしているボトルに目をやり笑みを浮かべた。眠たそうな嶋老人を見ると店を出る。梶井もその後に続いた。

その日最後の客の見送りのついでに、看板を取り入れるのも梶井の仕事だ。ピンクとネオンの谷間。ジャズの響きなどとは程遠い場所に出ると町田は振り返った。


「そういえば、大丈夫だったかい?」

何のことか分からずにいる梶井に町田は自分の頬に触れた。

「ええ、慣れてますから」

「慣れてるのかい。それはまた」

ちょっと呆れたようにいうと町田は揺れる立看板を見下ろす。

「力強くて、真っ直ぐだったね」


町田の声は斜め向かいのホストクラブから聞こえる、またねえ、という声に重なった。梶井は顔なじみのホストが軽く手を上げたのに、軽く頭を下げると、そうですねと答えた。


 グロトリアンは力強く、重厚感があるといわれる。梶井にはその違いなど分からなかったが、先ほどの演奏がすばらしいものだということに異論はなかった。


「皮肉なものだね。将来を嘱望されたが、一人はピアニスト。もう一人はウェイターとは。もう、ピアノは弾かないのかい?」

「過去のことです」

立看板をたたむためにしゃがみこんだまま梶井は答える。

「だが、前は弾いていただろう」

梶井はたたんだ看板を手に立ち上がった。

「俺はウェイターですから」

「確かに。でもウェイターが音楽をやったっていいだろう?それに指が命のピアニストも案外喧嘩が強いようだ」


いやに具体的な話に梶井は眉をひそめた。町田の視線の先、数人相手に一人の男が喧嘩をしている。酔っ払いの喧嘩など日常茶飯事。無視しようとして足を止めた。

輪の真ん中にいたのは水谷だった。


「いいのかい?」

梶井は町田を見た。

「俺はウェイターです」

「そうだね」

「あいつは……客です」

「そうだね」


梶井は看板を放った。


「…だから・・・くそっ」


梶井は水谷に向かって走り出す。どこかぎこちなく走る後姿に町田は目を細める。看板を立てかけた。


「酷だね」


沈奏舎。光のない今はただの古い板切れとなったそれを見下ろしつぶやくと、町田は去っていった。

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