第9話
「好きなのですか?」
宇喜田は目を見張ると、にやっと笑った。女性だったらくらっときそうな笑みだった。
「おまえほど愛しちゃいないがな」
「何の話をしているんです?」
お盆の上、ウーロン茶と山盛りのキャベツを持った梶井が帰ってきた。
「どっちがよりおまえを好きかって話だ」
梶井は眉をしかめると、不毛ですねと切り捨て座った。
「どうして弾いてやらない?一回くらいいいんじゃないのか」
「宇喜田さんは知らないんですよ。この手の人間を甘やかすと際限なく吸い尽くされるんです。無意識だから女よりもタチが悪い」
宇喜田はぽんと札束を机の上においた。
「何のつもりです」
「これでも弾かないか?俺もおまえの本気のピアノって奴を聞きたいんだが。それとももっとか?」
「宇喜田さん!そんなこと」
たしなめる水谷の前に手が伸びる。梶井の手だった。
「いくらですか?」
「五十万はあったはずだが」
梶井は無表情に数え始める。水谷はそれを醜悪なものを見るように見ていた。数え終わると、梶井は小さく笑った。
「いいでしょう。何を弾けばいいんです」
「それは彼に聞いてくれ」
「何を弾けばいいんでしょうか」
ウェイターとしてのときと同じ本音を隠した声音に、水谷は震えた。
「リスト、スケルツォと行進曲」
「あんたも変な曲をリクエストするんだな」
そういうと、梶井は立ち上がる。
「結局金なのか?」
梶井は振り返る。
「金がなくちゃ生きていけないだろう。ピアノは俺に飯をくれないんだからな」
梶井は無造作に紙幣を二つ折りにすると、ジャケットの内ポケットにしまいこんだ。その姿を二人は見送ると、会計を済ませ店を出た。小さな路地を出れば、朝日の当たる大通りだった。
「どうした浮かない顔だな。嬉しくないのか?ああ、金のことを気にしているのか。だったら気にしなくていいぞ。俺の好きでしたことだ」
「違います。そんなことじゃないです」
「そんなこと、って。君もつわものだね。じゃあ、なんなんだ?」
「怖いんです」
「怖い?どうして」
「これからまた梶井の本気の音が聞けるんだと思うとぞくぞくするんです」
「マゾかおまえ」
呆れたように宇喜田はこぼす。前方を歩く梶井は振り返ろうともしない。宇喜田はおい、と隣を歩く水谷をつつく。
「怖くはないのか。ブランクがあるんだろう?あいつは」
「そうですね」
「あいつはたぶん君が知ってたあいつとは別人だぞ」
「そうですね。でも、だからこそ出せる音もあるでしょう」
「おまえ」
宇喜田がはじかれたように水谷を見た。
「いったでしょう?俺、欲しいものは何をしてでも手に入れる主義なんです」
朝日を浴びて水谷の笑みは妖艶に光った。
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