第10話
「梶井センセ」
三人が沈奏舎に戻ってくると、店の前に自転車を止めていた湯原祐が梶井に走りよってきた。高校の学生服に軍手、という違和感を覚える服装に水谷は彼の足元を見た。ナイキのランニングシューズ。手袋代わりということか、水谷は結論付けた。
梶井は荷台に括り付けられたスポーツバッグを見た。
「よう、祐こんな朝早くどうした?」
「これ、おすそ分けだって。いつもピアノ習ってるお礼」
「そうか、わざわざありがとう。あとでおばさんに電話しておくよ。朝練あるんだろ」
「別に。通り道だったからね。ついで」
祐は赤くなった鼻をこすると、自転車にまたがった。
「そうか、じゃ気をつけていけよ」
「おう、センセも転ぶなよ」
祐は去っていった。
梶井は袋の中からりんごを一つ出すと宇喜田に放った。じっと自分を見る水谷に梶井は顔を上げた。
「ピアノ教えてるのか」
「定期収入は家計の要だ」
水谷の質問に、梶井は沈奏舎へと続く階段を下りる。一足先に下りていった梶井の背中を見送ると、宇喜田はかじりかけのりんごを手に水谷の肩に手をおいた。
「さて、君のいう素晴らしいピアノを――っておい、どうした?」
「はれ?」
気の抜けた水谷の声に宇喜田が顔を上げた。曲がり角で祐の乗った自転車とすれ違った女が朝日を背に、ハイヒールの音が聞こえそうなほどの勢いで水谷に近づいてくる。その勢いのまま兼山沙織は容赦なく水谷の頭をたたいた。
「痛い。沙織さん」
「何が痛いよ。こっちの足のほうが痛いわよ。あんな電話よこすから、一晩中探し回って。おまけにスマホはつながらないし」
大丈夫、と水谷は近くの路駐自転車の荷台に腰掛けるよう促した。結構、とすげない沙織に水谷は自分が腰掛ける。いつの間にか宇喜田の姿はない。
「?ああ。でもよく分かったね」
「私の人脈なめないでくれる。ほら、行くわよ。打合わせがあるのだから」
「俺はもうやめる」
振り払われた手を見て、沙織は初めて目を少し開いた。
「水谷くん本気だったの?」
「おれはいつでも本気だ」
「十回目だけどね」
沙織はバッグからスマホを取り出し、かけた。
「はい、兼山です。朝早くから申し訳ありません、水谷の件で……はい、本気のようです。ですが……。分かりましたそのように伝えます」
「藤さん?」
「ええ」
「なんて?」
「とりあえず、一週間は待つそうよ。その間に頭を冷やしなさい。いい加減水谷君も現実を見たら?あなたのやり方は聴衆には受けないのよ。今のようなのを喜ぶのは通だけ。一般受けしなくちゃだめなのよ」
「別にいいさ。それでも。俺は自分の人生の中に音楽があればいい」
沙織はそれを聞くと大きなため息をついた。
「分かってないのね。私は友人としていってるんじゃないの。あなたのプロデュースをする側の人間としていっているの。芸術家を気取る前に社会人としてもう少し自分の言動に責任を持つことね」
「分かっているさ」
ごみ捨て場に集まったカラスたちがネットの上からごみをつつく。水谷は足を揺らしたまま生ごみの中から肉の欠片を奪い合う二匹のカラスを眺めた。
「それなら――」
水谷は立ち上がると、ずいっと沙織に近づいた。
「神童だって二十歳過ぎればただの人。それなら、契約を切る前に水谷の売れるアルバムを作って儲けさせてもらおうって言う腹もね」
口ごもった沙織に水谷は皮肉気に口の端をあげた。そのまま沈奏舎へ続く階段を下りていった。
「カッコイイねえ、お姉さん」
「何、あなた」
「こういうものです」
差し出された名刺の上にはバンドエイド。宇喜田は沙織の足元を指差した。
「相当痛いんでしょ、それ。無理しないほうがいいですよ」
「営業?」
「傷つくな。ただの親切心ですよ、じゃ」
そういうと宇喜田は沈奏舎に消えた。沙織は名刺を握りしめ、二人の消えた階段を見つめると、手すりに手をのばした。
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