第11話

 椅子の高さと位置を几帳面なまでに調整する梶井を水谷は黙って眺めていた。

「何していたのですか?」

 水谷は振り返る。すでに壇上では照明をつけた梶井がいた。


「あのお姉さんに、カットバンをね」

「ちゃっかりしていますね、営業ですか」

「君に振り回されてるお姉さんへのいたわり、といいなさい。で、あの人独身?」

「バツイチ、子持ち。小学生になる男の子が二人の戦うお母さんですよ」


 それを聞くとぺシ、と宇喜田は水谷の頭をたたいて、お気に入りのイタリア製のソファに座った。水谷も椅子に座って待つ。梶井は几帳面に何度も椅子の高さを調整し、ペダルとの距離を測る。


「で、そのリストのなんたらってのはどういう曲なんだ。有名なのか?」

 宇喜田の問いに水谷は我に返り、初めて自分の手が震えているのに気づいた。

「いえ、あまりメジャーではないと思いますよ。ただ・・・聞けばわかります」


 震える左手を握り、水谷は壇上の梶井を見た。

 リストのスケルツォと行進曲。駄作とも隠れた名作とも言われるそれを水谷がはじめて聞いたのは、高校一年のコンクールだった。その言いようのない衝動にプログラムをめくれば、同音楽高校の先輩だった。だが、同時に本来梶井が弾くはずの曲ではなかった。その日に梶井の両親がなくなったのだと水谷が知ったのは随分あとのことだった。

 梶井は二人の姿を確認すると、ペダルに足をのせ、左足を一歩下げる。伸びた背中、無駄のない動き。かつて水谷が見ほれた姿が変わらずそのままそこにあった。ただ一歩引かれた左足が形式美をいびつにゆがめていた。

 梶井がゆっくりと鍵盤に手をのせた。始まりは静かに、速く。低音部。粒のそろった十六分連符が徐々に高くなる。緩やかな坂道を転がっているような、不安定感。変わらぬ速さ、だが高音になり、軽妙になればなるほどその輝く高音部不安定さはいや増す。転げ落ちていく。時々混じる明るく安心できる響きもすぐに続く。聞くものを一気にどん底へと誘う。和音で終わったと思えばまた始まる音。そのころには最初の旋律と似ているのか同じなのかすらどうでもよくなる。


「やっぱり」


 水谷は梶井をみた。きらきらと綺麗なはずなのに胸の中に湧き上がるどうしようもない感情。かつて一度これを聞いたときと変わらず、それ以上に深みを増した音色。梶井の脱力しきった腕がしなる。背中だけでそれを支える。無駄のない力の入れ方はその姿だけで美しい。ただ一ヶ所、一歩引いておかれた左足に水谷は疑問を持ったが、数年ぶりに見る梶井の演奏する姿に、水谷は顔をソファにうずめた。スケルツォが終わりに近づくトリルのあたりで梶井は眉を寄せた。それでも曲は続く。だが、行進曲に入ろうというところで、梶井は手を止め立ち上がった。左手をピアノに、右手を腰に置き、静かに頭を下げた。


「よく分からんがすごいな」


 拍手をしかけた宇喜田の手を水谷は叩いた。ぱちぱち、と二回乾いた音が鳴って止まった。


「どういうつもりだ」


 水谷は壇上の梶井を睨み上げた。驚いた顔の宇喜田を見もしなかった。


「どういうつもりも、これが今の私の実力です。一度ピアノから離れたら腕が鈍るのはよくご存知でしょう?分かったらお帰りください」


 梶井は宇喜田に申し訳なさそうに頭を下げた。梶井の丁寧な言葉遣いに水谷はグランドピアノの下のカートから手書きの楽譜を取り出した。


「じゃ、これはなんだよ。こんなもん書くやつが、ピアノをやめたって?」

「ただの暇つぶしです」


 梶井は壇上を照らしていたライトを切った。

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