第12話

「暇つぶしで作曲をするのか?」

「趣味なんて人それぞれ、でしょう?」

「嘘だ。趣味でこんな物作って、そんな風に、弾かれてたまるか。何があったのか知らないけど、俺を騙そうって言うのならちゃんとピアノでも嘘ついてみろよ。口ではただのウェイターですとか言っておいて、絶妙な力の抜き方も、ずっとピアノから離れていた人間がぱっと弾いてできるわけないだろ!」

「嘘などついていません。昔それだけ練習した。だから指が覚えている、それだけのことです。大体どうして水谷聡史が俺みたいなのに執着するのです?」


 その口調も身のこなしもウェイターそのものだった。水谷は手書きの楽譜を睨みつけた。


「高校のとき、二年上にどんな難しい曲もさらりと何でもないことのないように弾いておきながら、そのくせ切ったら血が噴出しそうなほどの深い音を出すやつがいた。きっとこいつにはピアノの神様がついていて、一生叶わないのだと思った。だけど、あるコンクールを境にそいつは表に出てこなくなった。やめたと思っていた。だけど違った。だったら一緒に何かしたい、そう思うのはそんなに変なことか?」

「だからピアノはやめたと、何度――」

「ピアノをやめたのだとしても、あんたは音楽はやめてない。そうだろう」


 蓋を閉じたグロトリアンの上にだんと水谷は譜面を載せた。さすがにピアノにたたきつけるのは気がひけたのか勢いは幾分衰えていた。


「俺はただのウェイターだ。迷惑だ」

「もう一度、俺の目を見て言ってみろよ」


 水谷は大股で梶井の元に駆け寄った。胸倉をつかみ上げた。

「迷惑だ。これでいいか」


 梶井は水谷の指を一本一本外した。暴力の似合わない水谷の繊細な指は、掴む先を失い、だらりと垂れ下がった。梶井は壇を下りる。そのままカウンター脇の片付けに向かった。


「水谷君。これはどういうこと?」


 水谷はここに沙織がいる現実に目を瞬いた。自分の服を掴む沙織の指に現実だと理解するといった。


「梶井と一緒に音楽やる」

「梶井って、あの梶井基?」

「知っているの?」

「ええ、何度か一緒に仕事したことがあるわ。あれは確か彼がまだ大学出たばかりのころだったから。でも最近は話を聞かなくなったと思っていたら。まさか水谷君」

「そう、そのまさか」

「やめなさい。あれはだめよ。何が枷になっているのか知らないけれど、諦めているもの」


 沙織の苦々し気な言葉が水谷に突き刺さる。


「諦めている?俺は――」


 水谷は両手を握りしめる。開いて閉じて、開いて閉じて。コンサートの前にいつもする自分の指を確かめるための作業。落ち着くための、癖だった。

 片付けを終えた梶井が近づいてきた。余所行きの笑顔を浮かべる沙織に如才なく頭を下げた。


「梶井、君?」

「お久しぶりです、兼山さん」

「そうね、三年ぶりかしら。それより、水谷君の言っていることは本当?」

「いいえ。こちらとしても迷惑なので連れて帰ってくださるとありがたいです」

「あー、裏切り者ー」


 梶井は水谷を無視した。


「あなたがキャンセルしたホールで山根和幸が弾くことになるわ。代わりになりたい人間ははいて捨てるほどいるのよ」

「なるほどそういうことか」


 梶井はキャリーケースの中から数枚の紙を取り出すと、カウンターに置いた。


「これは」

「欲しかったのはこれだろう?やるから帰れ。二度と来るな」

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