第13話

「梶井くんが作ったの?すごいわ。これがあれば、藤さんを説得できるわ。でも本当に」

 興奮気味で話す沙織を梶井は冷めた目で見つめた。

「必要なら一筆書きますよ」


 その言葉に水谷は沙織の手から楽譜をひったくった。だんとカウンターに置く。奥のほうでグラすがぶつかる音がした。梶井はそちらをちらと見た。

 水谷はそのまま壇上に上がった。ピアノの椅子に座った。照明の余韻が残る蓋を開けた。古いけれど手入れのされたピアノ。音を出さずにゆっくりと鍵盤を押す。タッチの深さを確かめると、両手を握った。開いて閉じて、開いて閉じて。呼吸を一つ、叩きつけるように鍵盤に指を落とした。それはさっき梶井が弾いたスケルツォと行進曲だった。梶井のように不安定さを助長するようなものではなく、華々しくくるくると回る。どこまでも続くと思われた音は唐突に不協和音で終わった。


「なんなんだよ。理由だなんだって。俺はおまえをすごいと思った。だからやりたい。それじゃ理由にならないのか」


 弦の端まで伝わった不協和音が少しずつ空気の中から消えていく。部屋のどこにも音が存在しなくなると、梶井は口を開いた。


「子供の理屈ですね」

「やりたいこととできることが違ったらやりたいことを選んだらだめなのかよ」


 壇上、鍵盤に目を落とす水谷の横顔は髪がかかって見えない。だが泣いているようなかすれた声は見るものの心を締め付ける。純粋なのだ、とむき出しの感情を見せられて困惑と共に、憧れを抱かせる。


「水谷クン」


 沙織は困惑気味に呼びかけたが水谷はピクリとも動かなかった。

 梶井は表情一つ変えなかった。カウンターに置かれた楽譜を手に取った。


「いらないのならそれでいい。兼山さんと一緒に帰れ」

「ものわかりのいい大人の振りして、オブラートに包んだ音がいいとでもいう気かよ」


 水谷は唸るように言うと、顔を上げた。挑みかかる雄の顔だった。


「ふむ」

 張り詰めた空気に微妙な抜けた音がした。水谷が振り返ると嶋老人がいた。

「朝から何かあったのかい?」


 梶井が嶋を紹介すると、沙織は「突然お騒がせしましてすみません」と几帳面に頭を下げた。

 水谷は梶井と嶋を見比べると頭を下げた。


「あの、この店のオーナーですよね。昨日店にもいらした。俺をこの店で雇ってください」

「な!」


 状況が把握できていない梶井をよそに、嶋はじっと水谷を見た。上から下まで眺め回す。うん?と何かを思い出したように、胸ポケットから眼鏡をかける。


「ああ、見えた」

 嶋は左だけ歪んだ眼鏡のつるを持ち上げた。

「それで、何ができる?」

「ピアノが弾けます」

「どうしてここで働きたい?」

 水谷は梶井を見た。

「あいつが欲しいんです。ここであいつの曲一緒に弾きたいんです。ここならピアノもいいピアノだし」

「水谷聡史なら外に仕事はあるだろう?」

「できることと、やりたいことが違ったら、俺はやりたいことをしたいんです」


 嶋は水谷をまじまじと見詰め、なるほどと頷いた。


「月に三万だ」

「は?」

「そのソファに止まる権利だ。土曜にここで弾くのなら月に三万でそれをやる」

「嶋さん」

「うん」

「金儲けはしない主義じゃなかったんですか」


 嶋は梶井を見ると奥の影にあるグランドピアノに目をやった。


「金儲けは好きじゃないが、面白いことは嫌いじゃないからな。どうする」


 それが水谷への問いなのか、梶井への問いなのか。

 梶井が迷っている間に水谷は口を開いた。


「つまり、ここに住んでいいと。ウェイターとして働くなら。そういうことですか」

 嶋は頷く。

「その間梶井を口説いてもですか」

「プライベエトは好きにしたらいい」

 あっけなく了承されて水谷が始めて戸惑いを見せた。

「どうして、ですか」


 嶋は初めて笑った。下から水谷を見上げ、少しだけ首を傾げ茶目っ気たっぷりに言った。


「理由が必要かい?」

「よろしくお願いします」


 いいだろう、と頷くと仕事は梶井に聞けといって嶋老人は再び一階への階段を上っていった。


「というわけで、よろしくお願いしますね。梶井センパイ」

「おまえ」

「俺の辞書に諦める、ていう言葉はないんです」


 水谷はさっきまでが嘘のように朗らかに笑った。


「どういうつもりなの、水谷君。マネージメントする人間としてそんなこと許せないわよ。わかっているでしょ」

「俺は商売人にはなれないんですよ、残念だけど」

 水谷は少し困ったように笑った。

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Presto26 雪野千夏 @hirakazu

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