第8話

「あ、いえ。どうも事務所と馬があわなくて、もめたのですよ。演奏会のことだったのですけど。結構毎回そんなのが続いて。なんで音楽やっているのだろう、とか思い出して。それで昨日一方的にやめます宣言をしたんですが。うわ。言葉にするとなんか俺の人生ちゃっちいですね」

「それで昨日道の真ん中で怒鳴ってたのか」


 なかなかあれは見ものだった、と宇喜田は笑う。


「ああ。まあ。あ、ミノもういいんじゃないですか。それでもうピアノなんてどうでもいいやと思っていたのに、梶井と再会しちゃいまして」

「で、カジとはどういう関係なんだ?」

「俺がまだ学生だったころに出たコンクールがあって。それがピアニストになるきっかけにもなったのですけど。そのコンクールに梶井も出ていたのですよ。もちろん俺が一位であいつは何位だったのか知りませんけど。とにかくそこそこ注目株だったのです」


 水谷は少しばかり芝居がかって言った。

「おい、それで?」

「待ってください。もうちょっとで俺の肉がちょうどいい感じに」

「マイペースな奴だな、で? おい、タンばっかとるな、カルビも食え」

 肉をさらえると続きを促す。

「別にそれだけですよ。あっちからしたらただの顔見知り程度でしょ。きっと。切ないよう」


 水谷は箸をくわえると眉尻を下げた。

「おまえ、マジでカジのこと」

「好きですよ。大嫌いだけど」

「?」

 水谷は箸を置いた。

「あいつが演奏しているところ見たことあります?」

「いや」

「一度見とくといいですよ。ピアノの前のあいつが一番素直ですからきっと。どんな曲も顔色一つ変えないくせにもう出てくる音が生きているんですから」

「そうなのか」

「ところで、あいつっていつからあそこで働いているんですか。好きなものとか嫌いなものって知ってます。あと怒りと笑いのツボってどこでしょう?それから」

「ハ?ちょっと待て」


 水谷は一気に言い切った。大真面目な水谷の顔に宇喜田は半身をひいた。堅い椅子の背がゆれた。宇喜田は一度腰を上げ座りなおす。

「君は一体なんなんだ」

「なんなんだといわれても、あいつと一緒に音楽やりたい元ピアニストですけど」

「そうではなくて」

 ようやく宇喜田の言いたいことが飲み込めたのか水谷は後ろを向く。梶井がまだ来ないことを確認すると少し声を潜めた。

「敵を知り、己を知れば百戦して危うからず、って。俺、欲しい音楽は何が何でも手に入れる主義ですから。俺は梶井がほしい」

 水谷の顔をしばらく眺めてから、宇喜田はたばこを灰皿に押し付けた。

「君を、誘ったのは間違いだったかな」

「どうしてです?」

 怪訝な顔の水谷に宇喜田は苦笑いする。


「どうも、君はまっすぐすぎるからな。俺たちみたいな人間には眩しすぎてな」

「そんなまぶしいなんて年じゃないですよ」

「君、いくつだ?」

「二十五、ですけど」

「あいつと一緒に弾いてどうする気なんだ?」

「やりたいのに理由が必要ですか?」

 ふ、と宇喜田は笑った。

「おまえ、あいつに似てるよ」

「梶井に、ですか?」

「ああ、ここに来たころのあいつもそんな目をしてた。自分の信じるものに正直でどんな未来も受け止めてやるって。噛み付きそうなほどの強い目だった」


 ま、今はあんなだけどな、と宇喜田は顎をしゃくった。

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