第2話
裸電球が三つ、ぼんやりと照らす店内に「A列車に乗って」は流れていた。ほの暗い明りに、二つの丸テーブルと無造作に置かれた椅子が浮かび上がる。黒いイタリア製の革張りソファに、色あせたラブソファ。常連客のバリ土産の籐の腰掛。照明の落とされた一段高い舞台には、年代物だと思われるグロトリアンのアップライトピアノ。そして店の奥、光の届かない場所にひっそりとカバーをかぶっているのはべヒシュタインのグランドピアノだ。統一性のない店内だが見る人が見れば店主のこだわりは見て取れた。
沈奏舎。そう呼ばれるこの店は、いつからか繁華街の端でひっそりと続いていた。訪れた客は、それぞれお気に入りの椅子に座り、古い蓄音機から流れるジャズと酒を楽しむのだ。
梶井基は今日もまた淡々と仕事をこなしていた。空のグラスを盆に乗せると丁寧にテーブルを拭く。椅子にこぼれた酒をエプロンに入れていた布でたたきしみこませる。上半身を起こし歩き出す。長身だが、その動きは静かで音楽の邪魔にならなかった。ぎりり、と何かをひき潰すような音がしたが、梶井は振り返らない。まっすぐにカウンターへと向かう。完璧なウェイターだった。
一人の客が手を上げた。レコード棚と蓄音機の前に陣取っている嶋老人は目を開けた。ゆっくりと首をめぐらすと、梶井の姿を探す。視線だけで客の相手をするように伝えると、年齢不詳の嶋老人は再び目を閉じ椅子を漕ぎスウィングする。ちょうど洗い場から出てきた梶井は、その指令を正確に読み取った。梶井よりも嶋老人のほうが客に近いがそんなことは関係ない。彼がこの店のウェイターであるから、これは梶井の仕事。ただそれだけのことだった。梶井は手を上げた客の元へ向った。
「何かご注文ですか?」
舞台に一番近い左端の席だった。ピアノの鍵盤がよく見えるその場所がその客、町田の指定席だった。五十をいくらかすぎた町田というこの客がどんな仕事をしているのか、梶井は知らない。だが週に一度やってきてはこうやって梶井を呼ぶのだ。
「今日はお客が少ないね」
町田は入り口近くで酒を飲むもう一人の客を振り返る。町田の視線を追い、この店で一番光の当たらない場所に座っている客に目をやると、梶井はいつものことです、と答えた。普段は呆れるほどに無愛想で気が長い梶井の、常とは違う様子に、町田は梶井に気づかれないようにそっと後ろに意識をやり、唇をほんのわずか上げた。
「リクエストをいいかな」
その声は二人しか客のいない店内でやけに大きく響いた。
「ええ。何を」
レコードがある限り沈奏舎でリクエストを断ることはない。
「煙が目にしみるを」
「分かりました」
嶋老人に伝えようときびすを返した梶井の腕を町田が掴んだ。
「僕は生の演奏が聞きたいんだが」
「…申し訳ありません。あいにくと今夜は演奏者が居りませんので」
梶井は丁寧に頭を下げた。沈奏舎の売りは毎週金曜日に行われる生演奏だ。打ち合わせなしの即興演奏は、ときに迷奏となり行き着く先もなく唐突に終わることもあったが、それはそれでよしとされていた。
常連客である町田はもちろんそれを知っている。だが町田は月に何度か訪れ、そのたびに梶井に生の演奏が聞きたいという。梶井にとってそれはすでに慣れ切った儀式のようなものだ。もう一度深く頭を下げれば、町田は仕方ないね、と頷くのがいつもの流れだ。
「本当に?」
いつもと違うセリフに梶井は頭を上げた。そこにはおもむろに財布を取り出す町田の姿があった。品のよいブランド物の財布から万札を一枚取り出す。その仕草があまりにもスマートで梶井は固まった。町田の目が一瞬梶井ではないどこかを見て、すぐにまっすぐに梶井を捕らえた。
「本当に?」
金で物事を動かそうとする強引さも、汚さも感じさせない子供っぽさを滲ませられて、梶井は一瞬目を見張ったがすぐに頭を下げた。さっきよりもゆっくりと。
「ええ、申し訳ありません。生演奏が聞きたいのであれば金曜の夜においでください」
視線を正面から受け止めた。自分の目の数センチ前に当てられた視線に、町田は苦く笑う。
「そうかい?」
「私はただのウェイターですから」
揺れながらも譲れない何かを守ろうとする瞳の色に町田はわずかに目を見張り、そう、とつぶやいた。
「時間を取らせて悪かったね」
町田が万札を財布にしまおうとしたときだった。
「おれもー、リクエスト。あるんだけどー」
間延びした、人を食ったような抑揚に二人は振り向いた。
「水谷聡史」
町田はつぶやいた。水谷は三杯目のスコッチがわずかに残ったグラスを町田に向かって軽く振った。グラスが電球の明りにぎりぎり照らされて、妙な形にゆれた。水谷は最後の一口をあおると、ロココ調の椅子からゆらり、立ち上がり歩き出す。梶井の正面に立った。
「申し訳ありませんが、金――」
「リスト。スケルツォと行進曲」
「!」
梶井のもとまでやってきた水谷の体が前に倒れる。とっさに水谷を支えた梶井を水谷が見上げた。梶井のネームプレートをはじく。水谷の目に光が宿る。
「申し訳ありません。私は――」
梶井は顔色一つ変えない。ただ同じ言葉を繰り返す。
「梶井基がただのウェイター?」
「そうです」
「ピアノがあるから俺がいるんじゃない、俺がいるからピアノが歌うんだ、じゃなかったのか?」
挑発するように酔っ払った水谷の目が熱をはらんだ。
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