第4話

梶井は水谷に絡む酔っ払いを殴りつけると、水谷を引っ張った。

すでに殴りかかって来た三人のうち二人は水谷によってアスファルトに沈んでいる。水谷はといえば同じようにアスファルトに寝転んではいるが、梶井の姿をうつろな目で見ていた。認識しているのか分からないその顔に、梶井は眉をよせた。


「お客様」


ことさら低くいうと、梶井はアスファルトに寝転ぶ水谷の手をとった。体のわりに大きな手にしっかりと筋肉のついた長い指。親指の付け根の厚み。鍛えられたピアニストの手だ。

その手の甲に血が滲んでいた。


「何やってるんです!あんたピアニストでしょう!」


梶井は怒鳴りつけた。それまでの冷めた様子はどこにもなかった。アスファルトに大の字になっていた水谷がきょとんとした。


「なんだ、何か文句あるのか」


気まずげに視線をそらし吐き捨てた梶井に、アスファルトに大の字になっていた水谷は目を大きく見開くと、そこが路上だということも気にせず転がった。


「あ。やっぱり梶井だ。変わってないや」


酔っ払いは痛みに無頓着で陽気だった。水谷はからからと笑った。

梶井は無表情になり、がしがしと頭をかいた。癖のある黒髪が二倍になった。

何が嬉しいのか水谷は梶井を見てベートーベンだ、と笑い続けた。


「仮にもプロならもう少し手を大事にしたらどうです」

元に戻った梶井の口調に水谷は不満げに唸る。

「えーでも俺ピアノの神様に愛されてないしー。仕事はくびだろうし。ピアノなんてなくても」


水谷はしゃべり続ける。アスファルトの上、大の字になったまま転がり、笑い続ける姿はまるで気違いだ。白いシャツはすでに汚れている。梶井はとりあえず危険はない、と判断した。酔っ払いが道に寝ている光景など珍しくもない。その後水谷がどうなるかなど梶井の知るところではない。梶井は早くこの男から離れたかった。背を向けて歩き出した。


「なあ、梶井。一緒にやろうよ。そうしたら絶対楽しくてかっこいい――」


梶井は振り返らなかった。そのまま歩き出す。しばらくして梶井はふと振り返った。梶井は動けなくなった。夜の街、まっすぐに水谷が梶井を見つめていた。倒れた放置自転車のサドルに抱き着く、完全な酔っ払いなのに、その目は清廉で梶井の目の奥を貫いた。梶井は何も言えなかった。見つめた。ネオンの灯りが一つ消え、ホステスの気だるげな媚交じりの挨拶が聞こえる。タクシーが一台通り過ぎた。エンジン音が聞こえなくなった。熱気が揺らぐ。風が吹いた。


何とか立ち上がろうとする水谷の足はもつれ、何度目かの挑戦で放置自転車もろとも倒れた。二台の自転車をベッドに倒れた水谷は「あれえ」と言ったあと動かなくなった。それでも梶井は動けなかった。寝息が聞こえ出してようやく梶井は金縛りが解けた。ぎこちなく自転車と水谷を見比べる。


「仕方ないので一晩泊めてあげます。その代わり町田さんのおつりはもらいますからね。いいですよね」


梶井の問いにううと水谷がうなった。それは決して了解の返事でもない。風で回ったペダルが頬を掠めたことに対する抗議だったが、梶井は行動に移った。水谷を起こすと、手早く血と土で汚れたシャツを脱がす。上半身裸にするとそのまま背負い、引きずるように水谷を運んだ。

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