第5話

 店に入ると、梶井は色あせたラブソファを二つ向かい合わせにし、その上に水谷を放り投げた。小柄とはいえ、大の男がラブソファに寝る姿はなんともシュールだった。汚れたシャツをバケツに放り込み、洗剤を入れる。嶋老人はすでに一階にある住居へと戻っていた。


 ほのかな灯りにアップライトピアノが照らされている。ライトを切った舞台には熱だけが残る。梶井は倒れて転がった籐の腰掛を元あった場所に戻した。余韻の残る店内を見渡すと、淡々と閉店の作業に取り掛かる。椅子を寄せてモップを駆ける。形も重さも違う椅子の移動はそれだけでかなりの重労働だ。看板をしまい、全ての作業を終えると、梶井は制服のタイを緩め、古いグランドピアノの前に座った。この店にピアノは二台ある。舞台の上にあり演奏されるグロトリアンのアップライトピアノと、店の隅にひっそりと置かれたベヒシュタインのグランドピアノだ。グランドピアノは開店中はカバーをかけられ電気も消され陰になっているが、閉店した今はここだけ明りがついていた。嶋老人の思い入れのあるものだ。


 年代物のグランドピアノはよく手入れがされているがそれでも所々傷を帯び、光沢も薄れていた。白鍵がわずかに黄味を帯びている。それでもほの暗い明りの中、優美な曲線を描く。梶井は蓋を開けた。右手を鍵盤の上に乗せる。かつては水谷と同じ大きくて傷一つないピアノを弾くためだけにあった手も、今は日々の仕事で指は太く節張っていた。ソファの上、水谷が寝返りを打った。梶井は中指を上げ、力を抜いた。


 Aの音は鳴らなかった。ただ鍵盤の向こうでハンマーがあがり、弦のあった場所を叩いた。音を出さない白鍵に梶井は唇の端を少し上げ、もう一度中指を上げたが打鍵せずにやめて、蓋を閉めた。


 緩めたタイをほどくと、ピアノの下にもぐる。ずるずるとキャスタ付きのケースを取り出す。中にはブランケットが一つに、服などの日用品。もう一つには楽譜、五線紙にボストンバッグがある。これが梶井の全荷物だった。一つしかないブランケットと上半身裸の水谷を見比べると、梶井はブランケットを水谷にかけた。ボストンバッグにあるだけの服を詰め、グランドピアノにかかっていたピアノカバーを床に敷いて、その上に丸くなった。服を詰めて枕代わりのボストンバッグに頭を乗せた。


「ここに来たころみたいだな」


 外にいたら浮浪者な自分に梶井はつぶやく。五年前、ここに来たころ、梶井はまだ夢を追いかけていた。そのために親と衝突し、ボストンバッグに楽譜だけを詰め込んで、家出同然で働き住み着いたのが沈奏舎だった。月に一万の場所代と一万の水道光熱費。その代わりに、風呂なしだった。風呂は仲良くなった向かいの店のホストの家で週に数回シャワーを借りていた。


 梶井はほのかな灯りの下、どこで拾ってきたのかすら忘れてしまった画板に五線紙をおいて眺めた。水谷の寝言に梶井は水谷を見た。


「俺は、ウェイターだ」


 自分に言い聞かせるように口にすると、梶井は電気を消し、冷たい床の感触に目を閉じた。

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