第6話
ピアノが鳴っている。目を開けた水谷は、見覚えのない天井に二、三度瞬きをした。首をめぐらせば、梶井がアップライトピアノの前に立ち、ただAの音を鳴らしていた。
集中している梶井は水谷が起きたことに気づいていない。響きを一つ一つ確かめるその姿がとても神聖なものに思えて水谷は目をそらした。起きようと足を動かし、水谷はソファから転げ落ちた。グランドピアノの下。白い紙が落ちていた。水谷はそれを取ろうとして止まった。
ピアノの音が止んでいる。
「おはようございます」
壇上から梶井が水谷を見ていた。水谷は床に落ちたまま顔だけを梶井に向けた。なんとも間抜けな体勢だった。
「あ、と。おはよう」
梶井はピアノの蓋をしめると、舞台を降りた。椅子を元に戻す。そのままの体勢で呆然と自分を見る水谷に言った。
「お客様。申し訳ありませんが私はこれから店の準備がありますので目が覚められましたらお帰りください。シャツなら汚れていたのでそこのバケツに突っ込んどきました。一応洗剤を入れときましたので洗ってください」
涼しい顔に昨夜水谷を怒鳴りつけた一声の名残は微塵もない。きれいさっぱりウェイターの顔をしていた。まるで本当にただの客とウェイターのような言葉に水谷はしばらく固まっていた。その意味するところを理解すると勢いよく立ち上がった。
「おい!」
「何でしょう」
梶井は振り返った。
「昨日の返事」
「何の、ことでしょう?」
「一緒に音楽やろうって言っただろ!」
梶井は大きなため息をつくと、そのままカウンターへと向かった。水谷は大またで梶井に駆け寄った。強引に梶井を振り向かせた。
「まてよ、何か言うことはないのかよ」
梶井は水谷につかまれた肩を見ると、ポケットに手を入れた。昨日水谷が壊したスマホを取り出した。無残な形のそれを水谷に握らせる。
「お返しします。物は大事にしたほうがよいと思います。あとは……酒のついた手でピアノを弾くのはあまり感心しません」
あまりにもあっさりとした対応だった。水谷は思わず手を放した。
「まさか、俺のこと覚えてないのか」
「ピアニスト水谷聡史の名前は有名ですね。ですが私はもう音楽はやめたんです」
梶井は水谷に背を向けた。そのままカウンター内に入ると水谷を無視して冷蔵庫を空けた。ミネラルウォーターを取り出すと水谷に背を向けたままキャップを開ける。
完全な拒絶だった。水谷は梶井の背中を見つめていたが、頑として振り返ろうとしない梶井に、ソファに戻った。かけられたブランケットをたたみ、ソファの上におく。壊れたスマホを後ろポケットに突っ込んだ。ふとさっきちらと見えたグランドピアノの下の何かが気になった。水谷はピアノの下にもぐった。ボストンバッグに楽譜の入ったケース。天井から垂れ下がった電球。その周りにいくつもの手書きの譜面があった。
水谷は泣き笑いのように口をゆがめた。いくつものモチーフがかかれた五線譜や、手垢のついた譜面に、書き込みの入った譜面。書きかけの五線譜は梶井がまだ音楽とともにいると示していた。
水谷は呼吸を整えると起き上がった。頭をぶつけた。大きな音にも梶井は反応しない。水谷は頭をさすりながら梶井の背中を睨みつけた。
「うそつき」
「この街は嘘を売る場所です」
「へエー。その割にはさあ。肝心なところが本音駄々漏れだよねえ」
梶井が振り返った。水谷はたった今見つけた譜面を見せ付けるようにふった。梶井の目が鋭くなった。
「あ、怒った?」
「黙れ」
抑揚の消えた声だった。水谷は笑った。鋭い目は水谷の覚えのある目だった。そう、この男はこういう目をする男なのだ。
「黙らないから。俺は欲しい音楽は何してでも手に入れる主義だから。元ピアニストの本気なめないでね」
「元?」
「あ、ああ。言ってなかったっけ?俺多分数日中には契約違反で今のレコード会社くびになるから。だから晴れてピアノ弾き?」
「それは、悪かったな。そんなにその曲が欲しければやるから。帰ってくれ。そして二度と来るな」
ばっさりと梶井は切り捨てた。そこに夜遅くまで何でも一小節に頭を悩ませていた男の顔はない。音楽など心底どうでもいいのだ、とでも言うように視線をそらした。水谷はダン、と足を踏み鳴らした。床を伝った振動がピアノを伝い、梶井に伝わった。
「俺は、おまえとやりたいんだ。おまえが好きだ」
バタン。
二人の視線が扉に向いた。沈奏舎の扉を開けたのは向かいの店のホストだった。男は梶井の服をつかむ水谷の手と、梶井の顔を見比べると男はにやり、笑った。
「宇喜田さん」
「これは、失礼」
梶井の呼びかけに飄々と、芝居がかった一礼をすると、男は扉を閉めた。店にある柱時計の秒針の音だけが響く。ちょうど六秒分。
「・・・・・・おまえのピアノが」
水谷がつぶやいた。
「遅い」
梶井は大きな大きなため息をはくと、誤解を解くため店を出た。
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