19:ファーストペンギンはシロクマの夢を見るか
尚も二人で進んだ先には、大きな平屋の建物と柵で囲まれた土地があった。
現在は平屋の中から、ヤギやヒツジが柵の内側に放たれているようだ。広々とした屋外で、来園客と柵を挟んで接触している。
干し草ひと束一〇〇円。親子連れが購入して、近寄ってきたヤギやヒツジに少しずつ手で食べさせている。
朱里も早速、代金を支払い、餌やりに興じはじめた。
干し草を
が、ある一点に関してはかなり残念がっていた。
それはヒツジが皆、体表から羊毛を
何しろ朱里は、すでに見た通りもふもふした動物の毛並みを愛好してやまない。
しかしここのヒツジは夏場を間近に控え、すっかり涼しげな格好にされていた。
「さっきポスターで行事予定を見て気付いたんだけど、先週『毛刈り』の特別なイベントが
朱里は、痩せたヒツジに干し草を与えながら、無念そうに言った。
「あと一週間早く来ていれば、白くてふわふわの子たちが見れたのに」
「そりゃ惜しかったな。まあ別の機会に他の誰かを誘って来るこった」
俺は、目の前の柵に寄り掛かると、故意に気のない返事で応じた。
間接的に「面倒臭いから次は誘うな」と、伝えたつもりだった。
だが朱里も、それをあえて聞かなかったかのように続ける。
「……どうせなら、いっそ君とここへ来るのを一ヶ月遅らせれば良かったかも。そしたら来月のイベントに参加して楽しめたかもしれないし」
「はあ? 来月にはどんな催しがある予定なんだよ」
「キツネザルと遊べるみたいよ、それもポスターに記述があったわ」
ヒツジに餌やりするのをいったん止めて、朱里はこちらを横目で見た。
こっそり何かを試すような目つきをしている、と俺は直感的に思った。
「それに来月は、私の誕生日もあるし」
「何だよ、やっぱり祝って欲しいのか」
「まあそうね。ここの区画にある売店で、何かおごってもらうのもいいかと思って」
朱里は、かすかに頬が上気している。こちらを見たのは、他愛ない贈り物をねだろうとしたせいみたいだ。
昔から、こいつは甘えたりねだったりするのが、下手くそだった。
欲しいものがあっても、まず最初に相手の顔色をうかがうからだ。
だからいつも別の口実を作って要求したり、断られても自分が傷付かないで済むような言い方をする。
俺は、逆に訊き返してみた。
「むしろ売店で何か買ってやるぐらいでいいのかよ、年に一度の誕生日に」
「……え。仮に他で多少高価なものをねだっても、買ってくれる気なの?」
「一応世話になってるからな。漫画の稿料や印税で買える範囲のものなら」
朱里が戸惑うような挙措を見せたので、
度々繰り返すが、これでも平均的な高校生より経済力には自信がある。
もっとも朱里は、少し間を挟んでから、かぶりを振って固辞してきた。
「ダメよそんなの、何言ってるの。高校生でしょう私も君も……」
こっちは要望に応えてやろうとしたのに、なぜか叱責されてしまった。
正直なところ納得いかないが、同時に俺はそれを幾分面白がっていた。
「何がダメなんだよ。いらねーのか、誕生日プレゼント」
「いらなくはないけど、身の丈に合わないものはダメよ」
「うわー相変わらず真面目だなあ朱里。血液型Aだっけおまえ」
「何よ悪い? 文句あるのAで。そういうのもハラスメントよ」
からかうように言うと、朱里はいっそう顔を赤くして怒り出す。
それから柵の側へ向き直り、再びヒツジに干し草を与えはじめた。
「ふれあい牧場」を出たときには、もう午後二時半が近かった。
同じ区画のカフェテリアへ立ち寄り、二人で多少遅めの昼食を取る。
ホットドッグとポテト、炭酸飲料で食事を済ますと、動物園の見物を再開した。
ここまで南端に位置する正面ゲートから、園内を反時計回りに移動してきた。
それゆえ順番に沿って、現在地を抜けたら北西の区画へ踏み入ることになる。
この一帯には、屋内展示の飼育動物が多い。
まずはゾウガメやニシキヘビ、エリマキトカゲといった
イグアナとかは、よく見ると少しドラゴンっぽい雰囲気もあるんだよな。
「怪獣みたいなキャラクターをデザインする際は参考になりそうだ」などと思いながら、俺は例によって写真撮影に精を出した。
ただ一方の朱里は、あまり爬虫類に興味を惹かれないみたいだったが。
まあこいつの場合、俺が作画資料の収集にかまけていることを差し引いても、基本的にもふもふ好きみたいだからな。
とはいえ園内北西の区画にも、女性人気が高い生き物はちゃんと存在していた。
爬虫類の展示施設を出て、隣接した建物に入れば、すぐさまそれと遭遇できる――
ペンギンだ。白と黒の体表、黄色いくちばし、よちよちとした歩き方。仲間と群れる有様も含め、その姿に妙な愛嬌が
尚、同じ施設の中にはシロクマやアザラシなども飼育されていた。
ここでは極寒地域をテーマに展示しているらしい。
動物が活動している場所は、真っ白な壁面の他、氷塊を模したオブジェや足場などでイメージが統一されていた。
「たしか小学校の写生会で、ここに孔市はずっと入り浸っていたわよね」
朱里は、施設の通路を歩きながら言った。
口元に愉快そうな笑みが浮かんでいる。
「だんだん色々と思い出してきたわ。そう、あのときに私は園内南東の区画で、キリンの水彩画を描いていたのよ。首が長くて、ぱっと見た感じも華やかな絵になりそうだったから。……でもペンギンが気になって、休憩時間にここへ来た――」
「そうしたら、この辺りで俺が写生しているのを見付けたんだろ?」
あとを引き取って、軽く肩をすくめてみせた。
あの日のことだったら、俺もしっかり覚えている。
ただし語り出せば、自嘲的にならざるを得ない。
「水彩画の題材にはシロクマを選んだんだよな俺。身体が白くて大きくて、カッコいいと思ったからさ。しかしそいつが失敗だった」
俺は、おもむろにその場で立ち止まった。
柵の向こう側に展示されているシロクマを、じっと見詰める。
白い毛で覆われた大きな体躯と――
その周りを囲う、寒冷地みたいに真っ白な壁や床。
「……小学校低学年のくせして、白い空間の中で動く白い生き物を、上手に絵の具で表現できるはずなんてないんだよな。我ながらやることが無謀すぎる」
あの頃の俺はモチーフを描く際、色彩のコントラストなんて概念を理解してなかった。
その結果、元々白い画用紙の上にシロクマと白い背景を描き、何やら絵面の酷くぼんやりした一作が出来上がってしまったわけだ。
完成したシロクマの絵に対する反応は、
「そもそも、なんでシロクマを写生しようと思ったの君は」
朱里も立ち止まり、こちらを振り返って問い
「カッコいい動物を描きたかったのなら、ライオンやトラでも良かったじゃない」
「ライオンやトラを描こうとする男子は、他に沢山居たんだ。それじゃ差別化できなくて、面白味がないと思ったんだよ」
我ながら可愛げのない発想をする子供だったな、と思う。
あの写生会でシロクマの絵を描いたのは、俺一人だけだった。
だから当時この辺りで写生していたのも、俺一人だけだった。
ペンギンの絵を描いていた女子児童は、同じ建物の中で数人見掛けた覚えがあるが……。
それはここから、出入り口側へ少し引き返した場所だ。
考えてみれば、根本的な行動原理が今もまるで進歩していない気がする。
日頃はぼっちで引き篭もって、ラブコメ漫画ばかり描いてるんだからな。
たぶん俺は、根っからそういう「在り方」を好む人間なのだ。
「だけど不思議ね。あのときシロクマの水彩画を散々バカにされていたはずの君が、今は絵を描くことが仕事の漫画家になっているだなんて」
朱里は、シロクマの展示へ視線を移し、微笑みながらつぶやく。
「……まあ、そうだな」と、俺は短く答えた。
寒冷地の生き物を展示にした施設から出たあとは、園内南西の区画へ移動する。
ここが四つに区分された敷地のうち、俺と朱里が本日最後に踏み入るエリアだ。
ダチョウ、フラミンゴ、ラクダ、ヒグマ、ゴリラ……と順に展示を眺めていく。
やがてサル山の前に到着し、ほぼ園内全域を一周するところまで来た。
このまま敷地の外縁部に伸びる道を進むと、円形の広場に出るはずだ。
そこは園内南端の正面ゲートに続いている。言うまでもなく大柿谷動物園へ入園する際、俺と朱里が最初に通過した場所だ。
「結局、今日はずっと作画資料を撮影してたわね君……」
朱里はサル山の前で、呆れ顔になって言った。
俺がデジカメをかまえる姿にも見飽きて、すっかり嫌気が差したらしい。
でもそんな言葉は聞き流し、被写体のサルに向かってシャッターを切る。
するとまた、朱里は不平そうに意見してきた。
「仕事熱心なのを否定する気はないけれど、さすがに園内の動物や施設以外は画像として一切保存していないっていうのはどうなの? ちょっとぐらい私や君自身のことを、写真に撮っておいてもいいんじゃないかしら」
「平時頻繁に顔を合わせる相手の写真を持ってたって、資料的価値がないだろ」
「だからそういうことじゃなくて! 今日の思い出も一枚や二枚、写真に収めておくべきだと思わないのかってこと!」
あくまで持論を繰り返すと、朱里は頑強に食い下がってくる。
その上、唐突に思い掛けない目論見を提案してきた。
「それで折角だし、画像共有サイトに投稿したりするとか……」
「はあ? 画像共有サイトに写真をアップロードする、だと?」
俺は、警戒心を刺激され、咄嗟に身構えてしまう。
画像共有サイト。非リア充にとって、忌避すべきインターネットサービスである。
俺が普段利用している短文投稿系SNSとは、およそ真逆の文化圏と言っていい。
「それってあれだろ……。パリピで陽キャなリア充共が
「物凄い偏見なんだけど!? 全然普通に写真を載せておくだけの人も沢山いるから!」
端的な印象をまとめて述べると、朱里は即座に激しいツッコミを入れてきた。
そうして
柔らかい感触が二の腕に伝わり、
にわかに互いの身体が密着し、当惑で一時的に身動ぎする術さえ忘れてしまう。
朱里は、そのあいだにスマホを目の高さまで掲げ、カメラのアプリを起動した。
「ほら、孔市もこっち向いて」
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