16:定期考査前の高度な駆け引き

 放課後に帰宅すると、また俺はすぐ原稿に取り掛かった。

 朱里は、いつも通り多少それに遅れて、我が家を訪れた。

 それから、俺は漫画を描くのに集中し、朱里は部屋の清掃をはじめる。

 しばらくして掃除を済ませると、リア充な幼なじみが切り出してきた。


「ねぇ孔市、次の休みの日なんだけど」


 名前を呼ばれ、液タブの画面から視線を上げる。

 朱里は、作業机のそばに立って、こちらを見ていた。

 その手に二枚、チケットらしき紙片を持っている。


「ちょっと二人で、大柿谷おおがきだに動物園に行きましょうよ」


「……はあ? いきなり何言ってんだおまえは」


 唐突な誘いに意表をかれ、思わず間の抜けた声で返事してしまった。



「大柿谷動物園」――

 名称通り、藍ヶ崎市大柿谷で営業している動物園だ。

 市内北東部の地域で、ここ陽乃丘より、むしろ星澄市ぎんの森と近い場所にあった。

 週末や祝祭日には、近隣各所から行楽客が訪れる。老若男女を問わず楽しめるレジャースポットとして、県下では有名だった。



「実は学校で今日の昼休み、唯から動物園の特別招待券をもらったの」


 朱里は、片方のチケットを差し出して言った。

 受け取ってあらためてみると、なるほど表面にはカラフルなイラストと共に「大柿谷動物園-特別ご招待券」と印刷されている。


「それで折角だから、たまには孔市と一緒に出掛けてみようかなって」


 何でも朱里の話によれば、春海の父親が仕事で取り引きのある会社は、大柿谷動物園の提携先のひとつらしい。

 そのため時折、こうした招待券を入手する機会があるそうだ。


 ただし有効期限が存在し、このチケットの場合は五月末に設定されている。

 春海は、すでに今月の予定が埋まっており、遊びに行く余裕がないのだとか。


 ――このまま無駄にするのは惜しいから、代わりにアカリが使って欲しい。


 我が幼なじみはそう言われ、学食で招待券を譲られたというのだが……。



「――で、なんで俺がそんな誘いに乗ると思ったんだよおまえは」


「言うと思った……。あくまでも引き篭もって漫画描くつもり?」


 真顔で返事すると、朱里はげんなりした様子で肩を落とした。

 愚問である。いついかなるときも、俺は漫画を描かねばならない。

 こっちの反応がわかっているのに訊くなよ……

 と言いたいところを、一応「そうだ」と短く答えておく。


 そうしたら、思い掛けなく問い重ねられた。


「でも仕事の〆切は、先日済んだばかりなんでしょう」


「あん? そりゃまあ、たしかにその通りだが……」


「じゃあ時間に余裕がない、ってわけじゃないのよね」


 当惑気味に認めると、朱里は明るい面差しでうなずく。


 たしかに今は、それほど切羽詰まった仕事があるわけじゃない。

 それに「学校で話し掛けるな」とは言い聞かせてきたものの、遊びに出歩く際に誘うなと要求したこともない。

 だから食い下がって説得すれば、外へ連れ出せると踏んだのだろうか。



 ……しかしながら、そこには重大な見落としがある。


「なあ朱里。おまえはバカなのか?」


「どうして動物園に誘ったら、突然バカ呼ばわりされなきゃいけないのよ!?」


 率直な感想を伝えると、朱里は声を荒げて抗議してきた。

 だが現状を正しく把握していれば、批難されるわれなどない。


「あのなあ、今月三〇日三一日は学校の試験期間だろうがあ!! しかも五月はもう半ばを過ぎてるんだぞ、なんでこのタイミングで遊びに誘うんだおまえは!?」


 そう。招待券の有効期限が切れる五月末は、中間考査の当日でもある。

 でもって今月残りの土日は、二一日、二二日、二八日、二九日の四日。

 それゆえ鐘羽東の生徒は春海に限らず、もう五月は「(勉強で)予定が埋まっていて、遊びに行く余裕がない」と考える方が普通だろう。


 昼休みの学食では、朱里以外にも仲の良さそうな女子が春海と同席していた。

 なのにチケットが他の誰かの手へ渡らなかった理由も、おそらくそこにある。


「おまえはまったく、学生の本分を何だと思っているんだ」


「……そのセリフ、君の口から聞くのは心外極まりないんだけど」


 俺がかぶりを振ってみせると、朱里は平坦な口調で反発した。

 こちらをじっと半眼で見据え、不機嫌そうに詰め寄ってくる。


「だったら孔市、今月残りの休日全部を試験勉強に当てるつもりなの?」


 …………。


 そんなはずあるわきゃなかった。

 これまで高校進学後の定期考査は、すべて実施日直前の土日二日間に一夜漬け――

 ではなく、夜漬けで赤点回避してきたのだ。次もそれでイケると踏んでいる。


 今月の中間考査に当てはめれば、二八日及び二九日が試験対策の山場。

 裏を返すと、それ以前の段階で必死に勉強する気などない。



「黙っているところを見ると、案の定ね。どうせ試験期間の直前までは、普段通り漫画を描き続けるんでしょう。まあ最初の返事でわかっていたけど」


 朱里は、わざとらしく嘆息してから、肩をそびやかした。

 憮然ぶぜんとしてみせているが、同時に勝利を確信した仕草だ。

 俺が定期試験を乗り切る手口については、とっくに知悉ちしつしているらしい。


「でもそうすると、やっぱり次の土日は試験勉強の予定なんかないんじゃない。どっちか空いている方の日で、遊びに出掛けたってばちは当たらないわよ」


 朱里は、部屋の壁に掛かっているカレンダーの前へ歩み寄った。

 五月の二一日(土)と二二日(日)の箇所を、順に指で示す。


「……おまえは大丈夫なのかよ、試験期間の一〇日前かそこらに出歩いて」


「私は君と違って、毎日予習復習欠かしてないもの。定期考査は本来、日頃の学習成果を確認するためのもので、あわてて急にじたばたするようなことじゃないわ」


 一応朱里の都合もたしかめてみたが、優等生らしい答えが返ってきた。


「それに見方を変えると、次の休日は今月中に外出する最後のチャンスだとも言えるわ。さすがに試験直前の二八日や二九日に行楽する気概は、私にだってないもの」


 朱里は、計画に抜かりない、と主張するように付け足す。


 ――むむむ、こりゃ面倒臭いことになりそうだぞ。


 俺は、尚も誘いを断ろうとして、口実をひねり出そうとした。

 しかし上手い言い逃れが、どうにも咄嗟に思い浮かばない。


 ていうか朱里め、まさか動物園の無料タダ券なんかをもらい受けてくるとは。

 まあこいつ、頻繁にケーキやクッキーを知り合いから譲られたりしているし、こういうことがあるのも不思議ではないんだが……。

「社会関係資本の高さ」ってやつを、またしても思い知らされたようだ。



「ていうか、なんで俺を遊びに誘うんだよ。他にも友達沢山いるだろおまえは」


「いや今の会話の流れで、それ訊くの? 普通なら今時期は試験が近いから勉強するって、君が自分で言っていたじゃない」


 苦し紛れに提起した疑問も、呆れ顔でいなされてしまう。

 その上で朱里は、思いも寄らない事実を打ち明けてきた。


「それに君のおばさんから、これまで時折『もし機会があったら、たまには孔市を家の外へ連れ出してやってくれないかしら』って頼まれていたのよ。毎日引き篭もって、机の前で漫画を描いてばかりだから心配になるんですって」


 ……まーたうちの母親の差し金だったか。

 きっと俺を家の外へ連れ出したら、何某か報酬が供与される約束なんだろう。

 家族ぐるみで親交がある幼なじみのクソネットワーク、マジで厄介だなこれ。

 自分と一番身近な女の子がダイレクトに母親と連絡取り合ってるの、わりと思春期男子のセンシティヴな感性を刺激してくるんだが? 

 などと、密かに事態の背景を呪っていたら。



「どうするの孔市? ――もし『動物園に行かない』っていうつもりなら」


 朱里は、おもむろに衝撃的な脅しを掛けてきた。


「私が学校の授業で取ったノート、もう君には貸してあげないわよ?」


「……はああああぁぁ――!? おいこら待てや卑劣だぞ朱里ィ――ッ!!」


 椅子を蹴って立ち上がり、絶叫せざるを得なかった。


 朱里が授業で取ったノートは、定期考査を乗り切るためのキーアイテムだ。

 俺が思い描く試験対策としては、まず朱里から試験範囲のノートを借り受け――

 来週明けから学校の授業中に自分のノートへ書き写す。

 あえてコピー機などには頼らず、手書きで複写し、内容を頭の中に叩き込むわけだ。

 試験勉強を二八~二九日の二日間だけで済ますには、その方策なしじゃあり得ない。


 だというのに、そんなノートを人質にするだなんて……。

 それが優等生な幼なじみのやり方かああああぁぁ――ッ!! 



「恨むなら、日頃から授業中も漫画のネームばかり描いていた自分を恨むことね」


 朱里は、こちらの心の中を見透かしたように嘲笑う。


「とにかく、次の休みの日には大人しく私と動物園へ行くこと。いいわね?」


「くそっ。まさかこんなことで、貴重な休日に外出せねばならないとは……」


 俺は、非情な現実に打ちのめされ、その場に膝から崩れ落ちざるを得なかった。

 仮に定期考査で赤点を取れば、追試や補習は免れられない。それはかえって漫画制作の時間を圧迫せしめ、今後の仕事に悪影響を及ぼすだろう。絶対に避けねばならない。


 ――だが、そのための試験対策には、朱里からノートを借りることが必須! 


 とすれば「動物園へ行く」という要求を、どうしても受諾する他に道はなかった。


「屈辱だ。プロの引き篭もりとして、アイデンティティを否定された気分だ」


「何がプロよ。そんな自尊心は塵にして消し去りなさい」


 震える声をしぼり出す俺に対し、朱里の態度は冷ややかそのものだった。

 とはいえ譲れない主張のため、無駄と知りつつも抗議せねばならない。


「俺にはなあ! 積極的に引き篭もっていくことで、むしろ新しいライフスタイルを世界に提案するという使命があるんだよ! クズなぼっちの社会不適合者でもラブコメ漫画で得た印税さえあれば、人生を謳歌できるっていうロールモデルになりたいんだ!」


「外出せずにラブコメ漫画を描いてるだけなのに、やたらと壮大な社会活動感出してきたわね!? ていうかクズの自覚あるのにロールモデルを目指そうとしてるの君は!?」


「人類は偏見に囚われず、もっと自由に各人が自分らしい在り方を追求していくべきだ」


「自分らしく引き篭もるのが各自の自由だとしても、あまり健康に良くない生活なことに変わりはないと思うけど……」


 朱里は、嘆きながら頭を抱えた。

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