29:幼なじみは慕われている
結局色々悩んだものの、藤花に漫画のアシスタントを頼んだ。
〆切までに原稿を完成させるためにも、背に腹は代えられない。
諸々の契約は脱稿後、早急に済ませてもらう。
事後手続きになるから本来は良くないのだが、
守秘義務の件も、ひとまず藤花を信用するしかない。
ただしアシスタント代に関しては、日給で先払いしておく。
藤花は遠慮し続けたが、相場の額を無理やり受け取らせることにした。
とにもかくにも、こうして話はまとまったのだが――
仕事に当たってもらうに際し、まず藤花には作業内容を把握してもらわねばならない。
具体的には、漫画のベタ塗りやトーン貼りのやり方についてだな。
これは基本的な約束事を、俺が藤花に直接ひと通り教える必要があるだろう。
それゆえ今日の放課後は、陽乃丘の鵜多川家まで来てもらわねばならない。
しかし当然、それにもいくつか問題がある。
ひとつは何より、俺の部屋が相変わらず散らかっていること。
もうひとつは、それを掃除しに来るはずの幼なじみのことだ。
――藤花が部屋へ来るにしても、普段の惨状のままじゃやばいよなあ。
手っ取り早い解決策としては、放課後に俺が単身先んじて帰宅し、藤花の訪問前に自室を清掃してしまうことだ。
だが朱里は、いつも俺の部屋を掃除して、小遣い稼ぎしている。
その仕事を奪うのは、あいつの収入を減らすことでもある。
勝手に判断すべきじゃないだろう。
ちなみに藤花は、鵜多川家を訪れる前にいったん自宅へ戻るという。
日頃から作画用に使っているタブレットPCを、うちへ持ってくるつもりらしい。
再び微妙に悩んだが、とりあえず朱里へスマホでメッセージを送ってみた。
この際は直接相談した方が、話が早い。かい摘まんで事情を説明する。
藤花に漫画のアシスタント業務を依頼すること。
そのため、藤花が放課後に俺の部屋へ来ること。
しかし部屋が汚いので、片付けなきゃいけないことを伝え――
その上で、俺と朱里のいずれが掃除すべきだと思うか、と意見を問う。
既読が付いてから、約一分後に返信があった。
【アカリ】:よその女の子を自宅へ連れ込むために、幼なじみの女子に部屋を掃除するか
どうかで相談してくる男ってどうなの。
…………。
なかなか痛いところを突く返事である。
もっとも今回はくだらないやり取りをしている場合じゃない。
俺は、気を取り直して、さらにメッセージを送った。
【宇多見】:真面目な話なんだ。
【宇多見】:考えを聞かせてくれ。
【アカリ】:わかってるわよ。
【アカリ】:放課後になったら、私も君と一緒に急いで帰るわ。
【アカリ】:それで藤花さんが来る前に、君の部屋を綺麗にしてあげる。
……なんと朱里のやつ、あくまで自分が掃除する気らしい。
少し意外な感じがするけど、一応は礼を言っておこう。
【宇多見】:マジかよ助かる。
【アカリ】:どうせ君じゃ、きちんと掃除できないだろうから。
どうにも朱里の言い様は、いちいち
だが何にしろ、これで話はまとまった。
放課後になると、俺はすぐに二年一組の教室を出た。
朱里も友人に「今日は用事があるから」と告げ、足早にあとを追ってくる。
鐘羽四条から二人で同じバスに乗り込み、真っ直ぐ陽乃丘の自宅へ帰った。
それぞれ私服に着替えてから、俺の部屋で再び顔を合わせる。
たぶん藤花は、ここへ一時間ほど遅れてやって来るはずだった。
地下鉄陽乃丘三条駅に到着したら、スマホにメッセージで連絡が入る予定だ。
まさか先日交換した連絡先が、こんな場面で役立つとは思ってもみなかった。
「何はともあれ、藤花さんが来る前にさっさと掃除を済ませなきゃね」
朱里は早速慣れた手つきで、床の上のゴミ拾いと整理整頓をはじめる。
俺も手伝おうとしたら、しかしいきなり強い口調で制止された。
「〆切が危ないんでしょう。掃除なんかしてないで、漫画の続きを描いたら?」
朱里は、不機嫌そうに俺の顔を
「生活力が欠如した社会不適合者は、無理せず自分にできることをしてなさい」
手厳しい物言いだが、現状に照らすとありがたみしかなかった。
なので勧められるまま作業机の前に座り、漫画原稿に取り掛かる。
しばらく各々作業していると、俺のスマホに着信が入った。
藤花からのメッセージだ。案外早く、陽乃丘三条に着いたらしい。
その場をいったん朱里に任せて、俺は急いで藤花を迎えに行く。
地下鉄駅の出入り口に着くと、藤花の姿はすぐに見付かった。
何しろゴスロリ服を着用していたからだ。もしかして平日とか休日とか関係なく、私服は常にこれなんだろうか。
それにしても住宅街だと、藤花の
「よう藤花。早かったな」
「――あ、宇多見先生!」
声を掛けると、藤花はこちらに気付いて振り返った。
ぱあぁっと顔を輝かせ、とてとてと足早に近寄ってくる。
小柄な身体の所作と共に、ゴスロリ服のフリルが揺れた。
「こんなところまで来てもらって、悪かったな」
「い、いえ。むしろ今日はご自宅へお招き頂き、ありがとうございますっ」
礼を言ったら、逆にぺこりと頭を下げられてしまった。
ていうか今、俺のことを「宇多見先生」って呼んでいたよな?
学校を出たら、途端にペンネーム呼びに戻るのか……。
それはさておき、藤花を鵜多川家へ案内する。
道すがら、自宅には先程から朱里も来ている旨を説明しておく。
「漫画の仕事で忙しいとき、しばしば用事を肩代わりしてもらっている」……
ということにしておいた。嘘は言っていないはずだ。
それを聞くと、藤花は「な、なるほど……っ! さすが家が隣同士の幼なじみですね、参考になりますっ」と言って、こくこくとうなずいた。
いや第三者には再現性皆無の状況だと思うが、何の参考にするの?
まあ無駄に俺と朱里の間柄を勘繰られるよりは、全然やりやすいが。以前「家が隣同士で逆に何もない」と言ったのを、信用してくれているのかもしれない。
家に戻ったら、玄関ドアを開けて中に入る。
藤花は、緊張した面持ちで「お、お邪魔します」と言って、あとに倣った。
自分の部屋に帰ってくると、朱里が藤花に明るく挨拶した。毎度ながら外面がいい。
藤花もそれに応じたものの、直後に部屋の出入り口で立ち止まった。
「こっ、ここが宇多見先生のお部屋ですか……!」
室内をのぞき込むように眺め、興奮気味につぶやく。
……やっぱ朱里に掃除しておいてもらって良かった。
ほんの四、五〇分前まで荒れ放題だった室内は、いまや綺麗に片付いている。
密かに朱里の様子をうかがうと、恩着せがましい目でこちらを見ていた。
あからさまに「感謝しなさいよね」と言いたげだった。
俺は、藤花に入室をうながし、まずは作業机の
PCで漫画原稿制作アプリを立ち上げ、画像ファイルを開く。
一瞬の間を挟んで、液晶タブレットの画面に描きかけの原稿が表示された。
藤花は、直後に若干裏返った声を漏らす。
「は、はわわわ~……これが宇多見先生の、なっ生原稿……っ!」
「これはまだ、キャラのペン入れが済んだところまでのページだ」
俺は、タッチペンで画面を指し示しながら、説明をはじめる。
「藤花には、これから預けるページのベタ塗りとトーンの貼り込みを頼みたい」
選択範囲を取って塗りつぶす箇所、
仕上げ作業での描画ツールの使い方、
特殊な処理が必要になる部分の指定、
トーンレイヤーの種類……などなど。
個々の指示に対して、藤花は真剣な面持ちで耳を傾けてくれた。
ひと通り説明が済んだところで、メモリースティックに原稿を数ページほどコピーし、藤花に手渡す。もちろん作業に取り掛かってもらうためだ。
藤花は、ローテーブルの前に座ると、バッグの中からタブレットPCを取り出した。
持ち運び可能なモデルの液タブほどじゃないが、たしかそこそこ高性能なやつだな、とひと目見てわかった。漫画原稿の仕上げ程度なら、問題なく処理できるだろう。
メモリースティックからファイルを読み込み、漫画原稿制作アプリ上で開く。
「……宇多見先生の漫画、こんな高解像度で拝見できて感激です」
藤花は、画面に表示された原稿を、今一度じっくり凝視していた。まるで大きな瞳は、俺が描いた漫画の線を一本一本、視線でなぞっているみたいだった。
「Web上で閲覧する画像でも、とっても綺麗ですけど――こうして原稿サイズそのままだと本当に素敵で、素晴らしさが上手く言葉になりません……」
「そんな、さすがにそれは大袈裟なんじゃ」
ゴスロリ同級生の感想に苦笑したのは、朱里だった。
それまで、
俺が描いた原稿を、あまりにも藤花が熱心に見入っているので、いささか滑稽なものを感じたのだろう。
「いつも孔市って、こんなおっぱい大きい女の子の絵ばかり描いているのよ。そりゃ私も上手いなあとは思うけど、欲望に正直すぎて少し引かない?」
朱里は、半笑いを浮かべながら、わざとらしく肩をすくめる。
俺の漫画(と性癖)を方便にして、笑い話を提供するような言い方だった。
リア充文化に特有な、一種の軽い「イジり」みたいな話術だ。平時から俺に対しても、たまに朱里は似たような言葉で茶化してくる。
ところが藤花は「……いいえ」とつぶやき、まったく笑わなかった。
そうして食い入るように原稿を見詰めたまま、静かに続ける。
「あのっ。以前も言いましたけど、エミは同人誌でよく漫画を描いています。アマチュアですから当然、宇多見先生みたいに上手く描けません。――でもそんなエミでさえ、薄い本一冊作れるようになるまで、かなり頑張ったんです」
朱里の顔からも、口元の笑みがすうっと消えた。
藤花は、漫画原稿制作アプリの拡大ツールで、画像の表示倍率を上げる。
タブレットPCの画面上には、原稿の一コマが細部まで映し出された。
「エミがあれだけ努力して描けるようになった漫画よりも、同い年の宇多見先生は遥かに綺麗な作品を描いてらっしゃいます。それも商業連載しながら、SNS上では一次創作のショートコミックを公開しているじゃないですか? エミには、とても信じられません。可愛いキャラクター、綺麗な線のタッチ、目を引く構図――これだけの技術を身に付けるまで、いったいどれだけ血の
ひと息に語ってから、そこで藤花はちいさく溜め息を
その横顔をふと見ると、大きな瞳がわずかに
思い掛けなく場の空気が変化し、俺はどんな態度を取るべきかわからなくなった。
二人の女の子を前にして、黙然とかまえていることしかできない。
藤花は、少しかすれた声音で、言葉を継いだ。
「たとえ他の人には、ちょっとえっちで絵が上手い漫画にしか見えなくても――エミの目に宇多見先生の漫画は、神様が描いた原稿みたいに見えます」
それから、たっぷり二〇秒余りの静寂が生まれた。
気詰まりな室内で、次に言葉を
「……そう、なのね。ごめんなさい」
誰にともなく、謝罪する。
俺は、
「それより原稿描くぞ。〆切は三日後なんだからな」
作業をうながすと、藤花が「はい」と短く返事する。
ゴスロリファッションの同級生も、持参したタブレットPCのタッチペンを握った。
それぞれ画面上の原稿へ視線を落とし、俺はペン入れ、藤花は仕上げに集中する。
……俺と藤花が作業に取り組みはじめると、朱里はキッチンで三人分のコーヒーを
もっとも、その後は部屋の片隅に一人で、クッションを抱えながら座っていた。
漫画原稿を制作する二人を眺めながら、朱里が何を考えていたかはわからない。
その有様は何しろ、才色兼備な優等生の姿からはかけ離れたものだったからだ。
ただあるいは藤花の言葉を耳にして、ささやかな驚きを覚えていたかもしれない――
まさか、ぼっちなはずの幼なじみが本当に慕われていたなんて、と。
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