四 はすのうてな

 カナオがその日その時その場に居合わせたのは、完全に偶然だ。駅のホームで蝉喜つづきに似ているなと思う相手を目で追ったら、本当に本人で驚いた。

 朝の忙しい時間帯、話している間はないだろう。だが挨拶ぐらいはしても良いはずだ、そう思って近づくと、幼なじみは記憶の何倍も憔悴しょうすいしていた。


 ガリガリにやせて、しわくちゃの背広はどことなく色合いが変だ。近づくとかすかに異臭がただよい、きちんと風呂に入っていないことがすぐ分かる。ただ、顔立ちに面影はあったし、髪型だけは三年前と変わっていなかった。

 短髪というものは、頭の形が良くないと似合わない。間違いなく蝉喜つづきだった。一体何が起きたのか問いただそうとした時、電車がホームに入ってきて、


 蝉喜つづきはふらりと、ホームに落ちた。


 衝動的に飛びこんだのだろう彼は、その衝動が望んだままに五体を四散させて、朝の通勤ラッシュにブレーキの金切り声と悲鳴をもたらした。人体から聞こえてはいけない音と、人体から出てはいけないあらゆるものの混沌。


蝉喜つづき!?」


 同時に、腕の中へ飛びこんできたのだ。彼の生首が。


「カナオちゃん」


 そして当然のように口をきいた。横隔膜は、いや心臓は、脳は、そういう合理的な思考は凍りついて、ただ蝉喜つづきの言葉に全神経が集中する。


「オレといっしょに来てくんない?」


 そしてカナオは走り出した。頭がカッと熱くなって、周囲の音が急速に遠くなる。


(間に合った、僕は間に合ったんだ)


 蝉喜つづきと電車がぶつかった瞬間、心臓どころか肺も腸も胃も肝も跳ね上がり、酸素をすべて吐き出して呼吸が止まるかと思った。

 彼を永遠に失ったと思ったのに、どういうわけかそうではないらしい。だったら、これはチャンスだ。今この時、選択を誤ったら蝉喜つづきともういられない。


 だから、彼の口に翡翠の蝉を押しこんだ。

 キーホルダーを持っているかと訊いたのは、我ながら間抜けだ。おそらく線路のどこかに、蝉喜つづきの体と一緒に飛び散ってしまっただろう。

 そして彼は生首から自分の体を取り戻した。さっきまでの憔悴した姿ではなく、カナオがよく知る元気なころのまま。


(もっと早く会いにこれば良かった)


 蝉喜つづきがボロボロになるまで、放っておいた自分に腹が立つ。仕事が忙しいからと、なあなあで会うのを先延ばしにして、三年も経ってしまうなんて。

 ひんぱんに連絡を取るのが気恥ずかしかった、という気持ちが皆無だったわけではない。でもその結果がこれなら、そんな安いプライドは捨ててしまえば良かったのだ。彼より大事な人なんて、自分にはいないのだから。


 カナオの膝で眠ると、蝉喜つづきはまた生首に戻ってしまった。このまま目が覚めないかと心配したが、首だけになってもどういうわけか呼吸しているし、体温もある。そして目を開けたら、また自分の足で歩き出すのだ。


蝉喜つづき。もう気づいているんじゃないですか?」


 校長先生の家を出て、しばらく歩くとまた駅がある。その改札を前にして、カナオはようやく切り出した。

 自分たちは、この世とあの世の境にいるのかもしれない。地理的にあり得ないのはもちろん、死んでしまった、もう会えないはずの人とも会った。


「ちゃんと成仏して来世へ向かうか、それとも」

「オレはカナオちゃんと、もっと旅をしていたいかな」


 駅員のいない改札を素通りして、蝉喜つづきが手招きする。


「本当に、それでいいんですか?」

「別にいいじゃん、今ぜんぶ決めなくっても。今は旅行中! ぱーっと楽しもうよ、ぱーっと。カナオちゃんがいてくれるから、それでもういいや」


 小さな田舎の駅だ、改札の向こうはもうホームになっていて、強い西日が差していた。逆光でシルエットになった蝉喜の姿以外、向こうの景色は何も見えない。

 本当に自分たちは境にいるのだろうか。もうとうにそこは越えているのかもしれない。それとも、今ここが境界なのか。だとして、自分は此岸に引き返すのか。


(そんなわけがない)


 引き返し方だってそもそも知らない。

 カナオは改札を通ると、走って蝉喜つづきの首に抱きついた。

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願い蝉の呪 雨藤フラシ @Ankhlore

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