三 おもひでのはかば

「おや、蝉喜つづきくんにカナオくん! よく来たなあ!」


 校門からえびす顔の老人がひょっこり顔を出して、親しげに手を挙げる。


「校長先生?」


 順当に歳を取って総白髪になっているが、確かに蝉喜つづきらが通っていた当時の校長だった。母校は東京の隣県だったはずだが、いつの間に自分たちはそこまで来ていたのだろう。それ以前に、学校の前にあんな森はなかったはずだ。

 そう思って振り返ると、今しがた二人が通ってきた森も池もなく、道路とガードレール、小さな文房具店があるだけだった。


「あれ? 〝かつらださん〟辞めちゃったんじゃなかったっけ」


 文房具の桂田だから、かつらださん。漫画雑誌も取り扱っていて、放課後には立ち読みに寄るのが楽しみだったものだ。それも蝉喜つづきたちが高校に上がる前には、老齢を理由に店を畳んだはずだが、子どもか誰かが引き継いだのだろうか。


「ぼーっとして君らしくないな! 昔は手のつけられないヤンチャ坊主だったのに」


 店に気を取られていると、校長の方から近づいてきてわしわしと蝉喜つづきの頭をなでた。カナオとはまた違う、大きく分厚い手。記憶より少ししわが増えた。


「いやあ、社会人になると、なんかこう」


 言いかけて、ふいにこみ上げるものがある。


「……つかれ、ちゃいまして」

「そうか、がんばったな」


 ぽんぽんと、肩を、背中を優しく叩く手がうれしい。ああ、オレ、三年間よくがんばったなあ、と。重たい荷物を降ろした気分だ。

 人に何かをねぎらわれるなんて、ひさしく無かった。


 校長先生はもともと地元の出身で、退職した後も町に住んでは、卒業生や在学生とよく交流を持っていた。生徒に出会うと気軽に家に呼んで、相談に乗ったりお茶を出したり。色々と顔が広くて、就職を紹介された者も多い。

 ようするに、〝みんなのおじいちゃん〟なのだ。

 だから生徒にとても人気があったし、蝉喜つづきもカナオも好きだった。


「二人とも、うちでお茶でも飲んでいきなさい」


 誘いを断る理由などない。それにしても、蝉喜つづきはうれしくてたまらなかった。


「はい。でも良かったっす、先生。病気、良くなったんですね」


 校長先生は、蝉喜たちが大学に入ったころから、痴呆をわずらって性格が変わってしまった。いつもニコニコして優しかったのに、怒りっぽくなって。

 大学の夏休み、地元に帰ってスーパーに行ったら、店員を怒鳴りつけている姿を見たことがある。その時は奥さんになだめられていたが、あまりの変わりようにショックだった。蝉喜つづきがサッカーボールで校長室の窓を割った時だって、決して声を荒げたりしなかった人なのに。親や同級生からの人づてに、病気の話は聞いていた。

 けれど、実際に目にするまではそんなことになっているとは信じられなくて。信じたくなくて。もう自分が知っていた校長先生は、いないのだと悲しく思っていた。


「ん? どうかしたかね?」


 校長先生が笑う。記憶の通りの、優しい笑顔。

 でも、それはもう二度と見れないはずのものだ。

 校長先生の病気は治っていない、だって蝉喜つづきがスーパーで先生を見かけて一年半後に、そのまま亡くなってしまったのだから。葬式にだって出た。


「いや、なんでもないっす。行こっか、カナオちゃん」


 この状況はおかしい。それを悟っても、不思議と蝉喜つづきに恐怖はこみ上げてこなかった。ただ、校長先生はもういないんだと、改めて思い出したのが悲しいだけ。

 となりの幼なじみの姿を確認する。


「ねえ、カナオちゃんはさ。まだ生きてるよね?」

「ちゃんとここにいますよ。大丈夫」

「そっか、良かった」


 今の状況は、つまり夢みたいなものだろう。ただ、カナオも本当は死んでいたらどうしようと思うと蝉喜つづきは耐えられない。幻にお前は幻かと問うても詮ないことだが、今のところ、カナオが死んだという記憶は自分にはなかった。

 だから、きっと大丈夫だ。



 蝉は土から出て短い生を謳歌し、また死んで土に戻ることから、古代中国では再生と復活、輪廻転生のシンボルとされた。

 遺体を葬る時、こうした願いをこめて口に含ませた玉の蝉を「含蝉がんせん」と言う。

 地中に居た幼虫が、長じて羽根を得ることから、死後は自由に飛び回れるという来世への祈りもあったのかもしれない。――だが、別の考えもある。


 蝉の抜け殻や死骸は、羽根もそろえて乱れがない。その様に、人々はまた別の願いを託した。死者の魂が抜け出さないように、あるいは、死者の姿が乱れぬように。


 何を願うかカナオはずっと考えていた。ただ、蝉喜つづきとこのまま別れてしまうのは耐えがたくて、せめて時間が欲しかった。

 けれど、そろそろ彼自身に、どうしたいか訊いても良いのではなかろうか?

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る