二 ねがいねがわじ

 反射的に蝉喜つづきが呑みこんだ翡翠の蝉について、カナオは頑として説明をはぐらかした。この幼なじみは、昔からこうと決めたら動かない頑固さがある。

 こんな悪ふざけをするやつではなかったと思うのだが、どうにも心当たりがない。蝉喜つづきが考えこんでいると、頭をなでる感触に思考を中断した。

 柔らかな掌と細い指が、短く刈りこんだ固い毛を丹念にすいている。ふわっと温かい浮遊感を覚え、なんとも心地よい。だが、さすがにこれは照れくさかった。


「何よ。カナオちゃん、オレの頭さわるのそんな好きだったっけ?」


 仕返しとばかりに、両手で思いっきり幼なじみの頭をもみくちゃにする。

 ハリネズミのように固い蝉喜つづきと真逆の髪は、かき乱されるままにぱっと広がると、軽やかに踊ったのも一瞬。元に戻ってさらりと肩を流れ落ちる。

 カナオの髪はその持ち主の声とよく似ていた。清流のような動きも、ひんやりした触感も、さらさらとした軽やかさもすべて。


蝉喜つづき、さっき頭打ったでしょう。たんこぶが出来ているかも」

「あー、そっか」


 頭部に衝撃を受けた記憶はないが、倒れていたのは確かだし、彼が言うのならそうなのだろう。蝉喜つづきは自分で後頭部をさすって確認する。


「ん。特に痛くないから大丈夫よ」

「そうですか。めまいや痛みがあったら、すぐ言ってくださいね」

「はいよ」


 リモートワークでも髪が伸びてくると上司が文句を言うが、それとは関係なく、定期的にバリカンで頭を刈るのが蝉喜つづきの習慣だった。つい昨日も切ったばかりだ。


「あっは」


 食事より睡眠より上司の小言より、そんな習慣を愚直に続けていた自分に気づいて、ふいに吹きだしてしまった。カナオが怪訝な顔でこちらの眼を覗きこむ。


蝉喜つづき?」

「いや、オレさあ、職場もう無理ーって思ってたのに、髪だけはきちんとしてたんだなあって気づいたら。なんか笑えちゃって。人としてもっと――」


 たとえば入浴だとか。

 そういえば背広はちゃんとクリーニングしていただろうか。

 今までその習慣を完全に忘れていたことを思い出して、蝉喜つづきは自分の衣服を見下ろした。新品みたいにぴかぴかだ。出社日だから? 今さら?


「人として、なんですか?」


 続きをうながすカナオの声が、耳に気持ち良い。


「あ、うん。昨日風呂入ったっけって」

「臭いませんよ」

「ならいいけど」


 ほっとして頭をかくと、やはり脂ぎったような感じはしなかった。髪型を保っていたのは、たぶん、カナオがそれを好きだと言ったからだ。

 大学を出てからはたまに連絡するだけで、会うことも減ったというのに、そんなことは律儀に守っていたとは。我ながら笑えるなと考えて、否と思った。


 蝉喜つづきはカナオに会わなかったのではなく、会えなかっただけだ。就職してから間もなく、休日になっても上司からは電話がかかって呼び出されるし、たまの休みは布団から起き上がる気力もなくて。年末も年始もなくずっと働き通しだった。


「ゴメン、カナオちゃん。オレちょっと寝るわ……」


 ああ、疲れた。本当に疲れた。そんな思いで、言葉かため息かも曖昧なものを吐き出す。それに返す幼なじみの声は、やはり涼やかで、しかし今までになく柔らかい。


「ええ、ゆっくり休んでください。もう、好きなだけそうできるんですから」


 カナオの手が頭にふれる。そのまま膝上に導かれながら、蝉喜つづきは抵抗することなくそれを枕にして意識を落とした。



――〝蝉〟に何を願おうか。


 自分はまだ、決めかねている。これが最後のチャンスだ。

 けれど、時間はたっぷりある……はずだ。



 夢は見なかったと思う。ただ、溶けてしまいそうなほど心地よい暗闇にいたような気がした。それが錆びついた金属を引っかくような、耳障りな音で引き裂かれる。

 電車が停まったんだな、と蝉喜つづきが察して目を開くと、相変わらず車内は人気ひとけがなかった。「膝枕さんきゅ」と礼を言って、思いっきり伸びをする。


「とりあえず、降りよっか」

「ええ」


 印象に残らない改札を抜け、駅を一歩出ると、そこは鬱蒼とした森林だった。雑木林なんてレベルではなく、伐採用の細く長く伸びた杉林でもない。

 自然のダイナミックな力を思い知らされるような原生林。電波塔のように太い樹木が立ち並び、地面は苔むした木の根と大小の石ででこぼこしていた。


「どこよ、ここ。ホントに日本? 屋久島じゃあるまいし」

「さあ。大都会を離れて、森林浴にはもってこいなんじゃないですか」


 辺りを見回しながら、幼なじみの語調には動揺の欠片もない。東京近郊も自然豊かなところは凄いと言うが、それにしたってここまでのレベルとは思わなかった。


「カナオちゃん、冗談言えたんだね」

「せっかくの旅なんだから、前向きに楽しみたいだけですよ」


 乗ってきた電車はもうない。このまま野宿になるかもしれないが、散らかり放題の自宅よりも、この森でカナオと二人の方が心安らぎそうだ。


「じゃあ、いこっか。適当に歩いたら、なんとかなるっしょ」


 アウトドアとしては馬鹿も良いところの判断だろうが、蝉喜つづきはそれを察していてなお別にいいやと思っていた。なんだか、もう、普通の心配というものがすべて無用の長物と化してしまったのだと思う。たとえば遭難して、自分だけではなくカナオが死んでしまったら申し訳ないと思うのだが、そうはならない気がする。


 壊れてしまったブリキのおもちゃが、それでも動力だけ生きていて、ぎーがーぎーがー言いながら動いているような。

 自分の中の決定的な何かは、きっと崩壊してしまった。己をそう分析しながら、森を行く蝉喜つづきの足取りは軽い。となりにはカナオがいる。


「なんか急に悪いね、カナオちゃんも色々予定あったんじゃない?」

「別に大したことはないですよ。蝉喜つづきと会うのも久しぶりですし」


 革靴でも思ったより歩きづらくはない。しかしカナオは木の根や段差に苦労しているようだった。ときおり腕を引いたりして、手を貸す。


「あはっ。でもオレ、誘拐犯みたいじゃん。こんな突然さあ」

「誰も僕に身代金なんて出しませんよ」


 カナオは幼いころに両親を失って、祖父母に育てられた。その二人も在学中に亡くなって、いまや天涯孤独の身だ。


「オレなら出すのに」

「それじゃ誘拐の自作自演でしょう」

「あははっ」


 胸の中に涼しくて気持ち良い風が吹き抜ける気がした。こうしてカナオに会って、話しているだけで蝉喜つづきはそんな心地になる。

 少し無理してでも、休日にもっと彼に電話をかければ良かった。そうしたら、自分からとっととあの会社に辞表をつきつけて、人生を楽しんでいただろう。


「カナオちゃん。オレさぁ」


 連絡しなくてゴメンね、と謝ろうとした言葉を「蝉喜つづき、前!」というカナオの警告がさえぎった。足元を見ると地面がない。


「うおっと!? ……池?」


 近くの樹に手をつき、とっさに体を支える。

 森が急に開けて、青緑色の池が広がっていた。身も心も青に染まるような葉陰と木漏れ日の中、澄んだ水が深々と場を満たしている。ところどころ朽ち木が沈んでいたり、落ち葉が浮いていて、水際に見える小石もなんだか宝物のように見えた。


「心が洗われるようですね」

「旅に出た甲斐があるよ~」


 カナオのコメントに全力で同意しながら、蝉喜は飛び石を見つけて跳んだ。おあつらえ向けに、向こう岸に渡れそうな間隔で足場がある。

 池は底が見えないほど深いようだが、飛び石は大の大人が二、三人乗っても余裕があった。多少苔むしているが、滑ることもなく危なげなく渡りきる。


 どうやらそこが森の終わりらしい。なんとか野宿せずに済みそうかなと蝉喜つづきが顔を上げると、そこにはかつて通っていた小学校の校門があった。

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