二 ねがいねがわじ
反射的に
こんな悪ふざけをするやつではなかったと思うのだが、どうにも心当たりがない。
柔らかな掌と細い指が、短く刈りこんだ固い毛を丹念にすいている。ふわっと温かい浮遊感を覚え、なんとも心地よい。だが、さすがにこれは照れくさかった。
「何よ。カナオちゃん、オレの頭さわるのそんな好きだったっけ?」
仕返しとばかりに、両手で思いっきり幼なじみの頭をもみくちゃにする。
ハリネズミのように固い
カナオの髪はその持ち主の声とよく似ていた。清流のような動きも、ひんやりした触感も、さらさらとした軽やかさもすべて。
「
「あー、そっか」
頭部に衝撃を受けた記憶はないが、倒れていたのは確かだし、彼が言うのならそうなのだろう。
「ん。特に痛くないから大丈夫よ」
「そうですか。めまいや痛みがあったら、すぐ言ってくださいね」
「はいよ」
リモートワークでも髪が伸びてくると上司が文句を言うが、それとは関係なく、定期的にバリカンで頭を刈るのが
「あっは」
食事より睡眠より上司の小言より、そんな習慣を愚直に続けていた自分に気づいて、ふいに吹きだしてしまった。カナオが怪訝な顔でこちらの眼を覗きこむ。
「
「いや、オレさあ、職場もう無理ーって思ってたのに、髪だけはきちんとしてたんだなあって気づいたら。なんか笑えちゃって。人としてもっと――」
たとえば入浴だとか。
そういえば背広はちゃんとクリーニングしていただろうか。
今までその習慣を完全に忘れていたことを思い出して、
「人として、なんですか?」
続きをうながすカナオの声が、耳に気持ち良い。
「あ、うん。昨日風呂入ったっけって」
「臭いませんよ」
「ならいいけど」
ほっとして頭をかくと、やはり脂ぎったような感じはしなかった。髪型を保っていたのは、たぶん、カナオがそれを好きだと言ったからだ。
大学を出てからはたまに連絡するだけで、会うことも減ったというのに、そんなことは律儀に守っていたとは。我ながら笑えるなと考えて、否と思った。
「ゴメン、カナオちゃん。オレちょっと寝るわ……」
ああ、疲れた。本当に疲れた。そんな思いで、言葉かため息かも曖昧なものを吐き出す。それに返す幼なじみの声は、やはり涼やかで、しかし今までになく柔らかい。
「ええ、ゆっくり休んでください。もう、好きなだけそうできるんですから」
カナオの手が頭にふれる。そのまま膝上に導かれながら、
◆
――〝蝉〟に何を願おうか。
自分はまだ、決めかねている。これが最後のチャンスだ。
けれど、時間はたっぷりある……はずだ。
◆
夢は見なかったと思う。ただ、溶けてしまいそうなほど心地よい暗闇にいたような気がした。それが錆びついた金属を引っかくような、耳障りな音で引き裂かれる。
電車が停まったんだな、と
「とりあえず、降りよっか」
「ええ」
印象に残らない改札を抜け、駅を一歩出ると、そこは鬱蒼とした森林だった。雑木林なんてレベルではなく、伐採用の細く長く伸びた杉林でもない。
自然のダイナミックな力を思い知らされるような原生林。電波塔のように太い樹木が立ち並び、地面は苔むした木の根と大小の石ででこぼこしていた。
「どこよ、ここ。ホントに日本? 屋久島じゃあるまいし」
「さあ。大都会を離れて、森林浴にはもってこいなんじゃないですか」
辺りを見回しながら、幼なじみの語調には動揺の欠片もない。東京近郊も自然豊かなところは凄いと言うが、それにしたってここまでのレベルとは思わなかった。
「カナオちゃん、冗談言えたんだね」
「せっかくの旅なんだから、前向きに楽しみたいだけですよ」
乗ってきた電車はもうない。このまま野宿になるかもしれないが、散らかり放題の自宅よりも、この森でカナオと二人の方が心安らぎそうだ。
「じゃあ、いこっか。適当に歩いたら、なんとかなるっしょ」
アウトドアとしては馬鹿も良いところの判断だろうが、
壊れてしまったブリキのおもちゃが、それでも動力だけ生きていて、ぎーがーぎーがー言いながら動いているような。
自分の中の決定的な何かは、きっと崩壊してしまった。己をそう分析しながら、森を行く
「なんか急に悪いね、カナオちゃんも色々予定あったんじゃない?」
「別に大したことはないですよ。
革靴でも思ったより歩きづらくはない。しかしカナオは木の根や段差に苦労しているようだった。ときおり腕を引いたりして、手を貸す。
「あはっ。でもオレ、誘拐犯みたいじゃん。こんな突然さあ」
「誰も僕に身代金なんて出しませんよ」
カナオは幼いころに両親を失って、祖父母に育てられた。その二人も在学中に亡くなって、いまや天涯孤独の身だ。
「オレなら出すのに」
「それじゃ誘拐の自作自演でしょう」
「あははっ」
胸の中に涼しくて気持ち良い風が吹き抜ける気がした。こうしてカナオに会って、話しているだけで
少し無理してでも、休日にもっと彼に電話をかければ良かった。そうしたら、自分からとっととあの会社に辞表をつきつけて、人生を楽しんでいただろう。
「カナオちゃん。オレさぁ」
連絡しなくてゴメンね、と謝ろうとした言葉を「
「うおっと!? ……池?」
近くの樹に手をつき、とっさに体を支える。
森が急に開けて、青緑色の池が広がっていた。身も心も青に染まるような葉陰と木漏れ日の中、澄んだ水が深々と場を満たしている。ところどころ朽ち木が沈んでいたり、落ち葉が浮いていて、水際に見える小石もなんだか宝物のように見えた。
「心が洗われるようですね」
「旅に出た甲斐があるよ~」
カナオのコメントに全力で同意しながら、蝉喜は飛び石を見つけて跳んだ。おあつらえ向けに、向こう岸に渡れそうな間隔で足場がある。
池は底が見えないほど深いようだが、飛び石は大の大人が二、三人乗っても余裕があった。多少苔むしているが、滑ることもなく危なげなく渡りきる。
どうやらそこが森の終わりらしい。なんとか野宿せずに済みそうかなと
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