願い蝉の呪
雨藤フラシ
一 きみはみちづれ
「も、いいでしょ。勘弁してよ」
何を許されたいのかわからないまま、
いつも通勤に使っていた駅のホーム、立ち止まった彼の背中にぶつかった誰かが、悪態をついて通り過ぎていく。しかし
食べ物の味がしなくなり、食事の必要性が曖昧になってずいぶんと経つ。最後にベッドで横になって、眠ったのはいつだったか。
仕事に対しては、自分なりに情熱を持って打ち込んできたつもりだ。しかし最近、上司がまくし立てるものが、叱責も指示も同じように聞こえてきた。
時々、睡眠薬を何錠かまとめて口に放りこみ、思いっきり噛み砕くとしばらく頭がスッキリして気分が良い。用法用量などというものは忘れた。
リモートワークで引きこもっている内に、家の中は荒れに荒れたが、掃除する気力も湧かない。今日は久しぶりの出社日だったが、不意に糸が切れたようだ。
立ちつくす
ごおおおお、と列車がホームにすべりこむ音が響いて、
「
名前を呼ばれて我に返ると、長く黒いものがいく筋も自分の周りに降りていて、檻か籠の中にいるようだった。
それが艶やかな黒髪だと知ると、端麗な顔立ちが自分を見下ろしている。
そういえば世界にはさまざまな色彩があったんだと思い出すような、鮮やかでまばゆい心持ちになる容色。内に光がこもったような白い肌も、宝石のような大粒の瞳も、さらさらした長い黒髪も、すべてがキラキラしていた。
よく見知ったその顔を、忘れるはずはない。
「カナオちゃん」
会うのは三年ぶりではなかろうか。幼稚園からの幼なじみ、七瀬カナオ。
いつ見ても、女と見まごう綺麗な顔立ちだ。そしてどうやら、自分はホームで仰向けに倒れていて、頭をカナオに持ち上げられている状態らしい。
手をついて「ゴメンゴメン」とわびながら、ゆっくりと起き上がる。立って服のホコリを払うころには、もう
カナオの手首を握ると、華奢な感触が懐かしい。
「オレといっしょに来てくんない?」
返事は聞かずに走り出す。さっきまで石のようだった足が嘘のように軽い。来た道を戻り、いつか旅行の時はお世話になろうと思っていたホームへ走り出す。
タイミングよくオレンジ色の車両がすべりこんできて、カナオと二人、それに飛び乗った。行き先がどこだなんて確かめもせず、どっかと座席に腰を下ろす。
肩を上下させ、みっともなく
「なー、カナオちゃんさー、オレってば、まだ人を殺しそうな顔してる?」
呼吸を整えて最初に訊いたのは、謝罪でも説明でもない。
勉強でも運動でも、そしてケンカでもそこそこ器用にこなしてしまえたから、降りかかる火の粉を払うつもりでいたのが良くない。気がつけば、
彼が行状を悔い改める気になったのは、カナオの「人でも殺しそうな顔してますね」という一言がぐっさり刺さったからだ。
「もっとひどい顔してますよ。昔の方が、たぶんマシです」
「だーよーねー!」
席に戻って、今度は逆にガクンとうつむく。
「オレ、もう今の職場ダメだわ」
「そうですか」
淡々としたですます調。知り合ったのは幼稚園のころだったはずだが、中学生ぐらいから、カナオは「敬語キャラ」になっていて、それは今も変わらない。
カナオの声はひんやりとしてなめらかで、ですます調はその涼やかさに似合っている。だから、カナオは親愛とか遠慮とは無関係に、自分の声に一番似合うしゃべり方をしているんだろう、と
「カナオちゃんさあ、やっぱその声にそのしゃべり方、好きよ」
「――ほかにもっと、僕に言うことあるんじゃないですか」
一瞬、カナオの呼吸に虚を突かれたような間があったが、
「オレ、もう職場ぶっちしちゃうからさ、退職旅行につきあって欲しいんだよね」
「いいですよ。もう巻きこまれてますし」
言われてみて初めて、
さっきは人目もはばからず大声を出したりしていたが、そもそも二人の他に乗客はいないらしい。通勤ラッシュはもう過ぎたのだろうか。
行き先はどこだろうと思ったのは一瞬、どこでもいいか、と思い直した。
「
「ああ、これ?」
家の鍵を取り出して見せる。それは親指サイズの、翡翠で出来た蝉だった。最後に会う少し前、カナオが「お守り」と言って誕生日にくれたものだ。
カナオには少しスピリチュアル趣味があるらしいが、翡翠の蝉はどういういわくがあるか、
カナオは懐から、同じ翡翠の蝉をぶら下げた首飾りを出してきた。ペアルックだったのと訊こうとすると、カナオは蝉をチェーンから外す。
「何してんの」
「呑んでください」
は? と聞き返す口に、カナオは本当に蝉をつっこんできた。冷たく固い感触は、決して食べ物ではありえない異物感を主張して、反射的に無理だと感じる。
ちょっと待って欲しい。しかし力の強さは自分が上だと
カナオが諦め悪く蝉を押しつけ続けるため、二人はしばし膠着状態となった。そこで先に退いたのも、またカナオだ。彼は蝉を自分の口に放りこんだ。
「ちょ、ちょっと」
抵抗を封じるようにカナオが
そして有無を言わせず、唇を重ねてきた。
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