第九話 逃避行


  大正十三年十二月十一日、朝早く目覚めた紫梗は、自室の鏡台の前で首筋に白粉おしろいをはたきながら、これから自身が行おうとしている、或る計画を反芻していた。

 

 今日は公休日である。江戸の頃は盆と正月以外、遊女に休みなどなかったというが、明治に入り労働者の権利意識の高まりなどから、吉原でもみせによってまちまちだが、年に数回の公休日が設けられるようになった。

 

 吉原は周囲を黒板塀と「お歯黒溝はぐろどぶ」と呼ばれる掘に囲まれている。そのままでは完全な陸の孤島だが、町の外と行き来するための通路が八つ設けられてあった。

 まず正面の吉原大門と、そこから仲之町通りを真っ直ぐに抜けた処にある裏門。それから町の各所に備えられた六つの非常門である。

 いずれの門も夜の営業時間を過ぎると閉ざされてしまうが、昼間は解放されており、吉原に暮らす人々は普段は主にこの非常門から出入りしていた。

 また大門だけでなく、この非常門の側にも番屋があり、当番の者が詰めていて、常に人の出入りを見張っている。

 なので遊女が、その監視の目を潜って外へ出るのは非常に困難であった。


 だがその遊女が、大手を振って堂々と吉原の外へ出られる日がある。それが公休日であった。

 明治から大正に掛け、外食や買い物、活動写真を観に行くなど、遊女の行動もそれまでに比べるとだいぶ自由になった。 

 その際は警察に外出先と帰り時間の届けを出し、さらに遣り手婆や下新の娘などが付き従うなど必ず監視役が付いたが、吉原を逃げるならこのときが最も大きな機会である。


 その日、紫梗は浅草の活動写真に出掛ける予定になっていた。

 他の遊女たちも久々の公休日ということもあり、朝から皆、華やいだようなウキウキした気分でいる。

 たいていは朋輩同士で仲良く連れ立って歩くものだが、紫梗と気安くしてくれるような者はもう誰もいない。

 

 付き添いには最近入ったばかりの、下新の娘が来ることになった。群馬から売られてきた娘で、歳は十七だという。

 紫梗はその下新の娘に、ほんの二年前までの自分を重ね、わたしが逃げることで迷惑を掛けてしまうわねと、内心気の毒に思ったのだった。


 いつもは日本髪に結った髪を束髪に下ろし、田舎から出て来るときに着ていた地味な小豆あずき色の着物を着て、小さなポーチを片手に、紫梗はみせの裏口を出た。朝十時過ぎのことである。

 ニ、三歩下がって、下新の娘が後ろを付いて来る。朋輩たちから紫梗のことを聞かされているのか、その表情にいささか緊張の色があった。

 

 吉原大門の側の警察署で届けを出し、紫梗はその足で浅草へと向かった。仲見世通りはすでに年末の賑わいで、大勢の人々でごった返している。

 派手な看板と幟を掲げた小屋が建ち並び、呼び子が喇叭らっぱや太鼓、アコーディオンを鳴らし、客の気を惹こうと囃し立てる。男も女も老いも若きも、それらを指差して笑ったりはしゃいだりして、十二月の寒空の下は活気と喧騒で満ち満ちていた。

 外の世界はなんと明るく眩しいのだろう。暗い穴蔵から這い出して来た獣のように、紫梗はまるで白昼夢の中を、そぞろ歩く心持ちであった。

 

 活動写真館の前もまた大勢の人だかりが出来ていた。二枚目俳優、阪東妻三郎ばんどうつまさぶろう主演のチャンバラ映画が掛かっていて、これが大変な人気である。

 なんとか切符チケットを二人分買い求め、満員の劇場の隅で下新の娘と並んで立ち見しながら、活動写真もこれで見納めなのだと妙な感慨を覚えた。


 活動写真が終わると浅草寺にお参りし、それから近くの洋食屋の二階の、窓際から離れた奥に席を取った。時間は午後一時を過ぎている。

 二人でオムライスを頼み、食後に紫梗は煙草を片手にくゆらせながら珈琲を飲んだ。下新の娘はアイスクリームに目を輝かせている。

 「活動写真なんて初めて観ました。田舎のおっぁに良い土産話が出来ます」

 最初は紫梗を警戒していた娘も、すっかり打ち解けた様子で笑顔を見せた。

 「それにこんなご馳走までして頂いて」

 「別に良いのよ。たまの休みぐらい羽根を伸ばさなくちゃね」

 そう微笑みながら、紫梗は娘を慈しむような眼差しで見つめた。言葉にはまだ訛りが残り、丸い頬は赤い林檎のようである。

 こんな純朴な娘でも十八になれば花魁として客に身体を開き、青春の全てを犠牲にせねばならぬのだと哀しく思った。 

 「少しお化粧直しに行ってくるわ。ゆっくり食べてなさい」

 煙草を灰皿で揉み消して席を立つ。娘は疑う様子もなく、無邪気な子供のようにアイスクリームをスプーンで口に運んでいる。

 

 紫梗は一階に下りて二人分の会計を済ませると、店の主人に「用事があるので先に帰ります。連れの娘は後からゆっくり来ますから」と言って店を出た。

 それから二階を振り仰いで「ごめんなさいね」と呟く。二階の奥に席を取ったのは、逃げる姿を窓越しに目撃されないためだ。

 紫梗の逃亡を防げなかったことで、娘は楼の者に厳しく責められるだろう。


 「紫梗さん」と、背後から声を掛ける者がある。小倉の袴に紺の着物、ケープ付きの黒い外套コートを纏い、帽子を目深に被った幻偲郎であった。

 彼は洋食屋の一階で珈琲を飲みながら、紫梗が二階から下りて来るのを待っていた。二人であらかじめ決めた手筈通りである。

 

 紫梗は幻偲郎に無言で頷くと、懐から取り出した紫の頭巾を頭に被って顔を隠した。

 そして二人並んで、人混みに紛れるよう足早にその場を立ち去ったのだった。


                (続く)

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