第六話 紫梗と幻偲郎
幻偲郎が再び吉原の紫梗の元を訪れたのは、それから十日後のことであった。
「もっと早く来てくれると思ってたわ」
紫梗が拗ねたようにそっぽを向く。
「すみません。金のない貧乏作家なもので。ちょっと資金を作るのに手間取りました」
その傍らで幻偲郎が正座して、申し訳無さそうに頭を掻く。
「あら、訊いて良いかしら。どうやってお金を工面したの?」
「その・・・・実は毎月、実家の母が仕送りをしてくれるのですよ。それが届くのを待っていました」
「まぁ、そんな大切なお金を悪所通いに遣うなんて! あなた存外と悪い人ね」
紫梗が小首を傾げて
なんだか張り合いのない男だと、紫梗は肩を落とした。
「・・・・あなた、良い家のお坊ちゃんでしょう」
「ええ、まぁ。鹿児島の実家はわりと大きな呉服屋で、衣食住に困ったことはありません」
「でしょうね。顔は
母親が生きていた頃は貧しいながらも何とか暮らしは成り立っていたが、その母親が死んでしまうと生活は一気に困窮した。お針子の仕事をしてもその金は父親が酒に使ってしまうので、仕方なく雑草を煮て食べたこともある。
周旋屋が家を訪れたのはそんなときだった。
吉原に来れば綺麗な着物を着て、美味しいご飯が毎日食べられます。こんな家にいるより余程マシですよ。そう周旋屋に言われて、心が動いた。
自分は狐憑きだという噂を知らないのかと訊ねたが、そんなものは昔の迷信ですよと周旋屋は一考だにしなかった。
母親が死んだ今、こんな村に未練はない。それよりも遠くへ行きたい。貧乏からも、酒浸りの父親からも、冷たい世間からも、さっさとおさらばしたい。そう思った。
しばらく迷った末、紫梗は千三百円の金で吉原に売られることになった。公務員の初任給が七十五円という時代である。この身売り代はそのまま紫梗の借金となる。契約は六年。一生懸命に働いて返せば後は自由の身になれる。そう軽く考えていた。
この夭綺楼に来て、まず警察署に届けを出し、裏門の近くにある吉原病院で一通りの身体検査を済ませた。
花魁として客が取れるのは十八歳以上と法律で決まっているので、まだ十七だった紫梗は初め
紫梗はそれまで男を知らなかった。最初は泣いてばかりいたが、やがて涙も枯れてしまった。客の男に抱かれるたび、自分の中で何かが確実に磨り減って行った。だがそれもいつしか麻痺して、今では何も感じなくなった。
確かに綺麗な着物を着れるが、衣装代は全て自己負担である。
その他にも髪結いや
月の収入のうち七割五分が楼の物となり、残り二割五分の一割五分が借金返済に当てられ、一割が自分の物となる。客が取れなければ当然、それらの費用も払うのが困難になり、ツケとして溜まってゆく。楼主や遣り手婆などから、仕方なく金を借りることもある。なので借金は一向減る気配がない。
それでなくても紫梗は例の噂で客がめっきり減っているのだ。この調子では六年どころか、十年経っても自由の身になどなれそうもない。
かくなる上は、このお坊ちゃんを骨抜きにして、出来るだけ巻き上げてやらねばなるまい。それでも釣り合いが取れるかどうか怪しいものではあるが。
「・・・・ねぇ、脱ぎなさいよ。この前は話ばかりで終わってしまったもの。今日は花魁の良さをたっぷり教えてあげるわ」
「いえ、それより吉原の怪談を教えてください」
胸にもたれ掛かるのを、幻偲郎がそう言って押し止めるので、紫梗は驚くやら呆れるやらで固まってしまった。わざわざ吉原へ来て高い金を払った挙げ句、花魁を抱かないなどという不粋な客がいるだろうか。
幻偲郎は困ったように頭を掻いた。
「ああ・・・ええっと・・・申し訳ない。正直に言うと、僕は女性を知らないのです。だから何というか・・・・恥ずかしながらやり方を知りません」
紫梗は笑った。
「なぁんだ、そんなこと。別に気にすることないわ。あなたみたいな客はときどきいるもの。妾が全部やるから、布団に横になってくれれば良いわ」
そう言って幻偲郎を押し倒そうとする。
「いえ! いえ! 本当にこのままで!」
幻偲郎が片手を突き出し、慌てて正座のまま後ずさった。紫梗が思わずムッとした表情をする。
「何よ、妾じゃ嫌だっての?」
「いえ、決してそんなことは・・・・」
そう言って何やら恐縮したまま固まっている。本当に変な男だ。
「あっそ、じゃあ好きにすれば。妾も疲れてるから、そうして貰った方が助かるわ」
紫梗は不貞腐れたように布団の上に横になり、腕を枕にして押し黙った。
居心地悪そうにしている幻偲郎を、紫梗はしばらくジロジロと眺めていた。
「ねぇ、先生の身の上話を聞かせてよ」
紫梗の唐突な言葉に、幻偲郎が顔を上げた。
「僕の・・・・ですか?」
「この前は妾が話したもの。それでおあいこでしょう?」
困ったときの癖なのだろう、幻偲郎はまたしても頭を掻いた。
「身の上話といっても、別に語るほどのことは何もないのですよ。ただあなたと同じで、僕にも友達なんてものはいません」
幻偲郎は地元で代々続く呉服屋の次男に生まれたが、病弱で無事に育ったのが奇跡のようだと言われた。
母親は過保護気味で、幻偲郎を常に手元に置いて離さなかった。幼い頃は外に出て遊ぶことを禁止され、自然と本の虫になった。
当然、友達など出来るはずもない。尋常小学校に入ってからも周囲に馴染めなかった。神経が細過ぎる幻偲郎には、同い年の子供たちはあまりに粗雑で、躾も何もなっていないように思われた。そして身体が小さく、気も弱いのが災いして散々に虐められた。
「大きな呉服屋の子供だという妬みもあったのかも知れませんね。そんなこともあって、僕はますます内に閉じこもり、本の世界に耽溺するようになりました」
自分でも物語を書きたい。作家になりたいと思うようになったのはいつからだろう。
幸い学業だけは優秀だったので、中学卒業を機に、第一高等学校受験を理由に上京した。しかし全国から秀才たちが一堂に会して競うのだ。そう上手く行くはずもなく、幻偲郎はあえなく不合格となってしまった。
今さら故郷に帰って、また同級生たちと顔を合わせようとは思わなかった。それに明治を経て今もなお、荒々しい尚武の気風が残る故郷は、幻偲郎の肌にはどうしても合わなかったのだ。
その頃、東京の小石川に従兄が住んでいたので、そこに居候させて貰いながら、このまま浪人して来年の再受験を目指すと実家に告げた。が、それは帰らないための言い訳である。
実家ではとりあえず一度帰って来いと言って来たが、東京に出てしまえばこちらのものだ。
従兄の家には半年ほど居たが、やがて彼が結婚して新居に移る事になり、引っ越しを余儀なくされた。
日暮里の辺りに安い下宿先を見付け、いよいよ本気で文学の道を志した。
一度作家の佐藤春夫を訪ねる為に神奈川の中里村へ赴いたが、どうやら具合を悪くしているようで会えなかった。自分の作品を読んで貰い、出来れば物書きになるための助言も欲しかったのだが仕方ない。それでも自分はきっと一人前の文士になるのだ、と決意を新たにした。
編集部に持ち込んだ作品がようやく認められ『新青年』誌上に掲載されたのが、一年と半年ほど前のことである。
それから他の文芸誌にも短編を載せて貰えるようになった。ごく一部の読者から支持は得たものの、しかし文壇の評価はあまり高いものではなかった。
友達も恋人もいない孤独な身の上だが、自分はこのまま帝都において文学に殉じるつもりであると、幻偲郎はそんなことを口下手な様子で
(続く)
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