第五話 狐憑きの女




 紫梗の言葉に、幻偲郎は自分の耳を疑った。

 「なんですって?」

 「だから、狐よ。わたしの後ろには狐が憑いているの。存外、馴染み客を階段から突き落としたのは、この狐の仕業かも知れないわ」

 「・・・・それは、一体どういう?」

 「せっかく来てくれたのに手ぶらで帰すのも気の毒だから、せめて妾の身の上話ついでの怪談でも聞かせましょうか。まぁ小説の種になるかは知らないけれど」

 困惑する幻偲郎にいささか婀娜あだっぽい笑みを返しながら、紫梗は自分の身の上話を語り始めた。

 

 紫梗が育った故郷ふるさとは、会津の磐梯山にほど近い小さな村であった。

 紫梗とは吉原に来てからの源氏名で、本名は康子やすこという。

 

 それは康子が、まだ尋常小学校一年生のときのことだ。

 ある日の帰り道、康子は数人の少し年上の女の子たちに囲まれ、小突かれたり押されたりするなどの虐めを受けた。とある女の子が大切にしている筆入れが突然なくなり、それが康子の手提げ鞄の中から発見されたのが理由であった。

 

 それ以前から、同じ学校の子供たちの持ち物が突然なくなり、それが康子の身辺から発見されるということが相次いだ。

 康子にはまったく心当たりがなかったが、当然のように周囲は皆、康子が盗みを働いたことを疑う。この虐めも、結局はそれが重なった末に起きた出来事であった。


 その夜、康子を虐めた子供たちに、突如として異変が起きた。

 いきなり高熱を発して意味不明な言葉を口走ったり、気が狂ったような叫び声を上げて家のなかを走り回ったりと、とにかく異常な事態が相次いだのだ。

 すぐに診療所の医師が呼ばれたが、子供たちの異常行動はまったく収まらない。

 すると誰が言ったか「これは憑き物ではないか?」という声が挙がり、村外れに住む「拝み屋」を生業とする老婆が呼ばれることとなった。彼女はいわゆる「憑き物落とし」の名人でもあった。

 

 老婆の見立てによると、子供たちの異常行動はすべて「狐」が憑いたことに因るものだという。

 老婆によって憑き物落としの術が施され、子供たちは無事に元へ戻ったが、すると今度はなぜ狐が憑いたのか、その原因が問題となる。

 子供たちから話を聞いた老婆は、今度は康子の家を訪れた。そして康子を一目見て、居並ぶ村の人々を前に「ああ、この子には生まれつき、狐が憑いているね」と言った。

 康子の後ろに狐の憑き物がいて、それが色々と悪さをしているのだという。

 なくなった持ち物が康子の身辺から発見されるのは、その狐の仕業によるものであり、子供たちがおかしくなったのも、康子を虐めたことに対する狐の報復だと老婆は断言した。

 「この子は業が深いね。祓ってやりたいが、私ではとてもじゃないが手に負えないよ。おそらくは憑き物筋の血を引いているんだろうね」

 康子の顔をまじまじと見つめながら、拝み屋の老婆は諦めたように溜め息を零したのだった。


 憑き物筋とは古くからある民間信仰の一つで、何らかの霊が取り憑いた家系を指す。取り憑く霊は狐や狸、犬神、イタチ、イズナなど、その多くが動物霊である。

 憑き物筋の家は、それらを使役して盗んだ他人の財物を元手に、分限者(金持ち)になった家柄がほとんどだと伝えられる。

 迷信を排して科学の啓蒙が叫ばれた大正の世でも、田舎にはまだまだこのような民間信仰が息づいていたのだった。


 康子が実は捨て子であることは、村の人々にとって周知の事実であった。

 それが憑き物筋の血を引いているとされた途端、誰も康子とその育ての親に近付かなくなった。今まで仲良く遊んでいた友だちも、全員が康子から離れて行った。

 村外れに住む拝み屋の老婆が、それから間もなく冬の谷川に落ちて死んだのも、それに一層拍車を掛けた。

 村の人々は拝み屋の突然の死を、狐による報復だと思ったのだ。


 母親はそれでも康子を大切にしてくれたが、父親は違った。「お前が捨て子なんて拾ってくるからだ」と母親をなじり、康子を疎んじるようになった。

 

 「まぁ仕方ないわね。だっていきなり憑き物筋の家になっちゃったんだもの・・・・」

 そこまで話して、紫梗が肩を竦めて笑う。

 

 憑き物筋は裕福な家が多いとされる一方、その家から嫁を貰うと憑き物も一緒に付いて来るため、嫁ぎ先に災いをもたらすなどと云って差別されていた。そのため憑き物筋の家系では、近親者同士の婚姻が多いと云われる。

 

 父親は大工であったが、非常に縁起を担ぐ仕事でもある。

 康子が狐憑きだという噂が広まった頃から、仕事の注文がめっきりと減り、代わりに酒量が増えて荒れることが多くなった。そのため、母親が遠くの町まで働きに出なければならなかった。

 「お前は何も悪くないんだから気にするんじゃないよ。私にとってお前は大切な娘なんだからね」

 苦労を掛けることに康子が泣いて詫びると、母親は彼女を抱きしめてこう言った。

 「狐憑きが何だっていうんだい。お前をお稲荷さまの前で見つけたとき、子供が出来なかった私ら夫婦を見かねて、お稲荷さまが授けてくれたんだと心からありがたく思ったもんだよ。大事にしなきゃバチが当たるさ」

 しかしその母親も、康子が十四のときに流行り病でぽっくりと逝ってしまったのだった。

 

 「・・・・ご苦労をされたのですね」

 紫梗が話終えると、幻偲郎はしみじみとそう呟いた。

 「全部、過去むかしの話よ」

 煙草を良いかしら、と紫梗が文机の上に置いてある煙草入れに手を伸ばした。

 しなやかな指先で両切りのピースを口に咥え、燐寸マッチで火を付ける。

 

 「ところで、本当のご両親は分からなかったのですか?」

 幻偲郎の問いに、紫梗は頭を横に振った。

 「分からなかった。というか、別に捜そうとも思わなかったわ。憑き物筋の家なんてそう多くないんだから、捜せば見付かったかも知れないけど、それでもシラを切られたらそれまででしょう?」

 紫梗はそう答えると、何処か遠くを見つめるような眼差しで、自分が吐いた煙の行方を追った。

 「たぶん妾は、憑き物筋の家の娘が産んだ私生児じゃないかしら。訳あって自分の手で育てられず、里子に出そうにも憑き物筋の子供を貰ってくれる家なんて何処にもない。それでお稲荷さんの前に捨て置いて、誰かが拾ってくれるのを物陰に隠れてこっそり見ていたのかも」

 「なるほど、それは確かにありそうな話ですね」

 幻偲郎が腕組みをして頷く。

 

 「まぁ、本当に狐が憑いてるかどうかなんて分からないけどね。村の拝み屋の婆さんが、そう言ったってだけだもの。子供たちがおかしくなったのも、他に何か原因があるのかも知れないし。婆さんが死んだのだって、きっとただの偶然よ。人間、怖いことや理解出来ないことがあると、なんとか理由を見つけて納得したいのね。要は説明さえ付けば、それで良いのよ」

 

 紫梗はそう言って諦めたように笑うと、さらに言葉を続けた。

 

 「憑き物筋の家は、金持ちが多いって云うけど本当かしら? 妾の文机の上にも、ときどき見覚えのない物が置かれているけど、ほとんどは大して役にも立たない物ばかりよ。そんな物を元手に金持ちになるなんて、よっぽど才覚に恵まれた人でないと無理だと思うわ。だから、きっと因果が逆なのよ。憑き物筋だから金持ちになったんじゃなくて、金持ちだから憑き物筋だと云われるようになったの。そうすれば貧乏な人たちは、自分が報われないのは決して自分のせいじゃない、と思えるから」

 

 そこまで言って紫梗は、つい喋り過ぎてしまったと後悔した。行き掛かり上とはいえ、客に自分の身の上話などしたのは初めてのことだ。どうせ言っても詮無いから、誰にも話さずに来たのに。

 ただ黙って聞いているだけの癖に。変な男だ。調子が狂う。そう思った。

 

 「なるほど、いわゆる成金に対する嫉妬心が、“憑き物筋”という概念が生まれた背景にある、ということですね。貧富の差は、羨望と同時に嫉妬を生み出す。自身の不運や能力のなさから目を逸らし、富める者への憎しみを正当化する上で、憑き物筋とは非常に便利な概念だ。つまり憑き物筋とは、横並びの狭い共同社会において、そこから逸脱した者に対する“罪の徴”なのだ、と考えることが出来る。それならなぜ多くの場合、憑き物筋の家系が被差別対象なのか説明が付きます。・・・・あなたはとても聡明な人ですね」

 紫梗の内心など知りもせず、幻偲郎はそう一息に捲くし立てると、子供のように目を輝かせて感心している。

 そんな様子を見て、紫梗は呆れつつも何故か妙に可笑しくなった。


 「しかしそれなら、あなたの後ろに憑いているとされる“それ”は、いったい何なのでしょう?」

 幻偲郎の問いに、紫梗は肩を竦めた。

 「さあ、知らないわ。何かがいるのは間違いないにしても、それを便宜上、狐と呼んでいるだけで、実際は全然違うモノなのかも」


 この夭綺楼に来てからも「狐」はたびたび悪さを起こした。

 他の花魁の私物を勝手に盗み出し、紫梗の文机の上に置いておくのだ。たいていは櫛や化粧品、装飾品アクセサリーの類だが、たまに現金の入った財布が置かれていることもあり、紫梗を驚かせた。

 それを黙って自分の物にしてしまえるほど、紫梗は狡くはなれなかった。正直に持ち主に返しに行くのだが、あまりに度重なるため、紫梗には盗癖があると見做されるようになった。朋輩たちはやがて紫梗を無視するようになり、そのことを告げ口された楼主から躾と称して折檻を受けた。

 すると「狐」の報復なのだろうか。今度は告げ口した花魁や折檻を加えた楼主が、怪我をしたり病気になったりする。楼のあちこちに狐火が現れ、客を驚かせて騒ぎになったこともあった。

 「狐」はなぜそんな真似をするのか。おそらくは「主人」である紫梗に対する忠誠の表れなのだろう。しかし当の紫梗からすれば、ひたすら迷惑なだけである。

 とにかく大人しくしてくれるよう、紫梗は自分の背後にいると思われる「狐」に懇願した。憑き物筋は憑き物を使役するなどと言うが、実際どうやって操れば良いのか見当も付かない。それよりもこんな魑魅魍魎の類が自分に憑いている、という事実がなにより怖ろしかった。


 何の因果でこんな訳の分からないモノに魅入られてしまったのか。それが全ての不幸の始まりであり、自分の運命なのだろうかと、どうすることも出来ない不条理さに肩を落とすばかりであった。


 

 そのときふと、隣の部屋から男女の獣じみた荒い息遣いが聞こえた。幻偲郎が居心地悪そうに咳払いをする。

 紫梗も吉原へ来たばかりの頃は、男女の赤裸々な光景に恥じらったものだが、今ではそれが当たり前の日常であった。


 「ねぇ先生、あなた怖い話を書くのでしょう? それなら吉原の怪談でも教えて差し上げましょうか」

 紫梗の提案に、幻偲郎が身を乗り出した。

 「本当ですか。ええ、それはもうぜひ!」

 ───此処は男と女の業が渦巻く吉原じごくだもの。怪談なんて腐るほどあるわ。

 そう紫梗が微笑んで、彼女が語る怪談を幻偲郎が手帳に書き留める。

 そうするうちに時間はあっという間に過ぎ去った。その間、幻偲郎は指一本たりとも紫梗に触れることはなかった。


 やがて廊下の方から襖越しに「ときですよ」と、雇い人の声がした。彼らは客に遊び時間の終わりを知らせるだけでなく、客が暴れたり、花魁と心中などしないよう、常に様子を窺って歩いている。

 「ああ、もう時間ですか。仕方ない」

 幻偲郎が手帳を懐に仕舞う。すると紫梗が彼の着物の袖を、指先でそっと摘まんで引いた。

 「ねぇ、またいらっしゃいよ。“裏を返す”といって、初めて登楼した客はね、相手の花魁にまた逢いに来なきゃいけないの」

 「・・・へぇ、吉原のしきたりは知らないことだらけだ。ええ、また来ますよ。そのときは吉原の怪談をもっと教えてください」

 

 遣り手婆と共に楼の玄関口に立って、紫梗は幻偲郎を見送った。彼は何度も振り返り頭を下げながら、雑踏の中へと姿を消して行った。

 必要もないのにあんなにペコペコしていたら、他人に侮られることもさぞ多かろうと紫梗は思った。

 たぶん、とても不器用な人なのだ。遠慮と気遣いと、他人様に申し訳ないという罪悪感で生きている。他人に食い物にされても、他人を食い物にしようなどとは絶対に考えられない手合いだ。善人ともいい、愚者ともいう。

 久しく忘れていた憐憫とも哀切とも付かぬ感傷がふと心に湧いて、何気なく夜空を仰ぐと、研ぎ澄まされた刃のような月が冴えた光を放っていた。

 

 これがやがて彼岸への道行きを共にする運命の出逢いであるとは、このときはまだ互いに知る由もなかったのである。


               (続く)




          



                 

               



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 


 

 

 

 

 


 

 


 



 

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