第四話 出逢い



 それは大正十三年の、夏も盛りを過ぎて、そろそろ秋の気配が訪れる頃であったという。

 

 その夜遅く、夭綺楼ようきろうに現れた男は、襟なしの白シャツに紺色の木綿の着物、小倉の袴に角帯を締めた、書生風の出で立ちであった。

 歳の頃は二十を少し過ぎたかという辺り。痘痕面あばたづらの童顔に三白眼の目玉が、落ち着きなさそうな様子でギョロギョロと動く。貧相な小男で、お世辞にも美男とは言い難い。

 

 「煙草でもまれますか?」

 男を本部屋に通して、花魁の紫梗しきょうがそう訊ねると、男は着物の懐を少し探ってから「いや、煙草は忘れたようなので」と首を横に振った。

 「ではお酒でも」と勧めても「いえ、僕は下戸ですから」と言って断る。

 なんだかつまらない男である。さっきから気弱そうな態度で妙にオドオドしている。遊び馴れていないのは見れば分かるが、正座して猫背気味にかしこまっている様子がどうにも男らしくない。


 「・・・・入って驚きましたが、普通の言葉遣いなのですね。てっきり花魁は、くるわ言葉というやつを遣うのかと」

 こちらの顔色を窺うように、男が話し掛けて来る。たかだか女郎を相手に、妙に丁寧な話し方をする男だと思った。

 客の世間知らずに苦笑しつつ、紫梗は答えた。

 「いまどき廓言葉なんて遣ってるのは、ごく一部の大見世ぐらいなものですよ。訛りなどみせに入って数ヶ月もすれば、たいてい直ってしまいます」

 

 廓言葉とは、吉原独特の言葉遣いのことをいう。主語は「わっち」で、語尾に「ありんす」「ありんせん」などと付けたりする。遊女は全国各地から集められるので、どうしても出身地の方言が出る。その方言を消すために作られた言葉だという。

 「花魁」の呼称も、かつては高級遊女にのみ許されたが、この頃には吉原の遊女全般を指して使われる呼び名となっていた。


 「はぁ・・・そうなんですね」

 男はそう言って頷くと押し黙った。さっきからこの調子で、意味のない会話が途切れ途切れに続いている。

 

 紫梗はなんだか焦れて来た。

 

 「・・・・では、さっさと始めますか」

 精一杯のしなを作って男の着物に手を掛けようとすると、彼はそれを押し止めて「いや、良いのです」と早口に言った。

 「僕はそんなつもりで此処に来た訳ではありません」

 女郎屋に来て「そんなつもりはない」もあるまい。明治になってから政府の命令で「貸座敷」と呼び名を改めたとはいえ、ここは天下の遊郭、吉原である。まさか一膳飯屋と間違えて入った訳でもなかろう。

 

 呆れる紫梗を横目に、男はしばらく無言でいたが、やがて思い切ったように口を開いた。

 「───紫梗さんとは、あなたで間違いありませんね?」

 それは先ほど「ひきつけの間(控室のこと)」で、遣り手婆を仲立ちに確認したはずである。そもそもこの男は玄関の写真見世で、私を選んでみせに上がったのではないか?

 

 ちなみに「写真見世」とは、楼の玄関を入ってすぐ、遊女たちの写真が壁に飾られていることをいう。客はその中から気に入った遊女を選んで楼に上がる。

 それ以前は「張見世はりみせ」といって、遊女たちが往来に面した店先に並んで、格子越しに客に姿を見せていたが、「人権上の問題」を理由に大正五年に廃止されている。

 

 紫梗は不審に思いつつも、男の問いに「そうですが・・・」と頷いた。

 男はひとつ息を大きく吐き出すと、身を乗り出すようにしてこう切り出した。

 「単刀直入に伺います。あなたの馴染み客が何人も死んでいる、という噂は本当ですか?」

 紫梗は僅かに息を呑み、男をじっと見た。

 「・・・・そんな噂話を、何処でお聞きなさったの?」

 「よく吉原に遊びに来る知人がいまして。その人から伺いました」

 男の表情は真剣そのものである。が、その目にあからさまな好奇の色があって、紫梗は僅かに苛立った。

 「そんなことを聞いてどうする気ですか? わたしを人殺しとして告発でもしたいの?」

 「いえ、違います。決してそんなことは・・・!」

 男は慌てた様子で、懐から一冊の雑誌を取り出した。その表紙には『新青年』と、大きく題名が記されている。

 「申し遅れましたが、僕は松村幻偲郎まつむらげんしろうといって、職業は作家です。この雑誌にも何度か作品を載せているのです。ほら、このページ・・・・」

 そうしてパラパラと項を捲って、指で差し示す。紫梗は雑誌を受け取ると、興味なさそうにそれを斜め読みした。

 「・・・・怖い話をお書きになるのね」

 「ええ、まぁ。怪談というか奇談というか、そういうものを書くのが生業でして」

 頭を掻いて照れくさそうに話す幻偲郎を、紫梗は「ふうん」と細く長い指を顎に当てつつ、品定めでもするように雑誌と交互に見やった。

 

 自分についてそのような妖しい噂が流れているのは知っている。そのために馴染み客も遠ざかり、新規の客もなかなか付かない有り様だ。

 この男はその噂を聞き付け、おおかた小説の種にでもしてやろうと思って自分を指名したのだろう。

 「・・・・本当だと言ったら、どうします?」

 僅かに柳眉りゅうびを吊り上げ、紫梗は挑戦的な眼差しを幻偲郎に向けた。

 紫梗は細面で肌が白く、それなりに人目を惹く容姿だが、吊り上がり気味のきつい目がどこか狐を思わせる。そのためか剣呑けんのんな様子を見せると、たいていの男はたじろぐのが常だ。

 「・・・・ぜひ、詳しくお聞かせ願えませんか?」

 紫梗の様子に気圧されつつも、幻偲郎はぐっと前に身を乗り出してそう懇願した。しばし睨み合う形となったが、やがて紫梗が折れて溜め息を零した。いくら不快だろうと、ひさびさに付いた新規の客を追い返す訳にもゆくまい。

 

 「───ええ、確かに馴染み客が死にましたよ。しかも妾の目の前でね」


 三ヶ月ほど前のことである。

 その馴染み客は商社を経営していた四十過ぎの男で、初見世の頃から紫梗の元に通っていた。しかしあるときから経営に翳りが見え始め、とうとう多額の借金を抱えて立ち往かなくなった。

 しばらく姿を見せなかったが、ある日、幽鬼のような表情でふらりと現れ、紫梗に一緒に死んでくれと迫った。

 会社を潰して自暴自棄になっていたのだろう。男は紫梗の腕を掴んで無理矢理外へ連れ出そうとしたが、それを店の雇い人らが止めに入った。すると男は懐から剃刀を取り出し、滅茶苦茶に振り回して暴れ始めた。大騒ぎになる中、足を滑らせた男は階段を転がり落ち、首の骨を折って死んでしまった。

 

 「警察は来るし、楼の周りは野次馬だらけになるし、まったく散々でしたよ。おまけに楼主あるじや遣り手婆からは文句を言われ、朋輩たちからは白い目で見られ、迷惑ったらありゃしない」

 男の件は事故死として処理されたが、それだけでは済まなかった。今度は死んだ男の妻を名乗る女が、弁護士を引き連れて楼に乗り込んで来たのだ。

 亭主は紫梗に騙され金を貢がされ、挙げ句に命まで奪われた。このままでは済まさない。必ず訴えてやるから覚悟しておけ。そう楼の前で延々と騒ぎ立て、警官が止めに来てようやく女は帰って行ったが、おかげで夭綺楼はすっかり世間の笑いものになってしまった。

 

 それから間もなく「夭綺楼の紫梗という花魁は、男を破滅に追いやる妖婦だ。それも一人だけじゃなく今まで何人も死んでいる」などという噂が流れ出した。誰が言い始めたか知らないが、また酷い尾鰭おひれが付いたものである。

 

 「誓って言いますが、死んだ馴染み客はその旦那一人だけです。でもね、一度ケチの付いた花魁なんて誰も相手にしちゃくれなくなりますよ。他の馴染み客は気味悪がって逃げるし、ご新規さんは付かないし、こっちは被害者だってのにどうしてこんな目に遭わなきゃならないんですかね?」

 幻偲郎に文句を言っても仕方ないが、そんな不満もぶつけたくなる。

 幻偲郎は紫梗の話を黙って聞いていたが「それは・・・ずいぶんとお気の毒です」と、同情の色を露わにした。


 「で、どうです。少しは小説の種になりそうですかね?」

 「・・・・いや、どうでしょう。確かに知人からその話を聞いたときは、面白い小説が書けそうな気がしましたが、いざ真相を知ってみると少し拍子抜けのような気がします」

 「あら、それは当てが外れて残念でしたわね。先生」

 紫梗の皮肉を含んだ物言いにも、幻偲郎は気を悪くした様子もない。むしろ面目なさそうな表情で頭を下げた。

 「それにあなたは何も悪くない。作家の興味本位で訊ねましたが、ご迷惑を掛けてしまったようです」

 殊勝な様子に、紫梗が目を丸くする。

 「ずいぶんお優しいのね。たかが女郎如き、気を遣われなくてよろしいのに」

 「いえ、たかが女郎などと・・・・。あなたはしっかりした人だと思います」

 

 ただの社交辞令かと思いきや、表情を見るに、どうやら本気のようである。

 紫梗はふと、この男に興味が湧いた。

 

 「ところで先生、故郷くに何処どちらなんです?」

 紫梗が柔和な表情を見せる。眉根がすっと下がって、目元に優しげな微笑が浮かび、それについ見とれていた幻偲郎は、紫梗の問いに少し間の抜けた顔で答えた。

 「え? ・・・ああ、鹿児島です」

 「あら、薩摩でしたか。じゃあ、妾とは仇同士ね」

 「どうしてです?」

 「だって、妾は会津だもの」

 「ああ、戊辰戦争の・・・・」

 そう得心したように、幻偲郎が頷く。

 「あのときは薩摩の兵にずいぶん酷い目に遭わされたと、故郷の年寄りはみんなそう 話します。薩摩芋まで嫌いな会津人がいるぐらいですからね」

 「はぁ・・・・それは同郷の先人たちが申し訳無いことをしました」

 そうして頭を下げる様子が、なんだか本当に申し訳無さそうである。

 「あなた、変な人ね。そんな風に謝る殿方なんて滅多にいないわ。ましてや女郎になんて」

 「そうですか?」

 「そうよ。男なんてみんな威張ってばかりですもの」

 珍しいものでも見るような紫梗の様子に、幻偲郎はいささか苦笑いしながら答えた。

 「僕は元来、他人に威張るのが苦手なのですよ。争うのも嫌いだ。取っ組み合いの喧嘩すらしたことがない。そんな性格だから、子供の頃はひどく虐められました。でも故郷の男たちは違う。薩摩の気風というのでしょうか。男子たるもの勇猛果敢であれ、と幼い頃から教え込まれます。それが嫌で、僕はこの帝都に逃げて来たようなものだ」

 幻偲郎はしばし無言になった。遠くを見つめるような眼差しは、かつて故郷での苦い記憶を思い出しているのだろうか。

 

 「・・・・会津はどんな処です?」

 ややあって、幻偲郎が紫梗に訊ねた。

 「良い処よ。北には磐梯山ばんだいさん、南には鶴ヶ城の天守閣が見えて、冬になると辺り一面、雪で真っ白になるわ。池にぶ厚い氷が張って、子どもたちはみんなその上を滑って遊ぶの」

 紫梗はいつの間にか敬語を止めて、気安い調子で話した。

 「・・・・どうしてこの仕事に?」

 「よくある話よ。貧乏で暮らしが成り立たなくてね。母親が病気で死んで、父親はまったく働かず、毎日酒浸りで身体を壊して・・・・。そんなとき周旋屋の紹介でこの楼に売られて来たの。十七のときだったわ」

 幻偲郎の遠慮がちな問い掛けに、紫梗は特に悲しげな様子もなく答えた。

 「やはり辛かったですか?」

 「そうね。最初はね。でも、だんだん慣れたわ。人間って案外、何にでも慣れてしまうものよ」

 それから秘密を打ち明けるような表情で、紫梗は静かにこう言って微笑んだ。

 「妾ね、本当は両親の子じゃないのよ。村外れにあるお稲荷さんの前に捨てられていたの。それをたまたま通り掛かったおっ母さんが拾ってくれてね。本当の我が子のように育ててくれたわ。でもそのあと、色々な事があって此処へ来る事になったけど・・・・別に誰のことも恨んでなんていないのよ」

 それにね、と紫梗の目が、すっと細くなった。


 「・・・・妾には、狐が憑いているの」


        

                (続く)


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