第三話 夭綺楼の一夜




 足元の不確かな暗い階段を登って、細長い廊下を女に導かれるままに歩く。

 

 私が通されたのは客間などではなく、二階の奥にある一室だった。

 六畳間の畳敷きで電気は点いておらず、代わりに行灯あんどんのぼんやりした灯りが、薄暗い室内を仄かに照らしていた。

 部屋の中央には長火鉢が置いてあり、室内はほんのりと暖かい。窓際には小さな文机、隣に鏡台が置かれ、奥には古い箪笥があり、その上に茶器を仕舞う茶箪笥が載せられている。

 文机の上には小さな花瓶があって、そこに挿された桔梗ききょうの花が一輪、紫の花弁はなびらも艶やかに、頼りなげな影を落としていた。

 

 女に促され、私は長火鉢の前に置かれた座布団に腰を下ろした。

 「いま、お茶をお持ち致します。それともお酒の方がよろしゅうございますか?」

 「いえ、お構いなく。それに私は酒が飲めませんので」

 そう答えると女は「まぁ、そんなところもお変わりないご様子」と謎めいた微笑を零した。

 いったい何がお変わりないのか。その疑問を口にする暇も与えず、女は「では、少々お待ちください」の一言を残して、廊下の向こうへと姿を消した。


 先ほどから女の言動が気になった。女の口振りでは、私は以前にも此処へ来たことがあ

り、女とも面識があるようだが、しかし肝心の私にそんな記憶はない。

 

 宙吊りになった疑問を持て余しながら、私は闇がわだかまる部屋の四隅をそれとなく眺めた。

 建物のなかに人のいる気配はない。此処が本当にかつての遊廓なら、多くの遊女が暮らし、様々な客が訪れ、遊郭に関わる商人らが出入りしたことだろう。

 三味線を爪弾く音と共に歌声が響き、酒膳を掲げた雇い人が忙しなく廊下を行き来し、灯りを消した仄暗い部屋から男女の妖しい息遣いが微かに洩れ聞こえる。そんな光景があったはずだ。

 しかし往時を偲ばせる気配は欠片も感じられず、まるで時が止まったような静けさが、広い屋内をひっそりと漂っていた。

 

 女は一人暮らしだと言ったが、こんな処にたった一人切りで寂しくないのだろうか。

 そんなことを埒もなく考えながら、霧に閉ざされた夜の気配は、ただ陰々と深まってゆく。

 

 おそらく此処は現実の世界ではあるまい。では単なる夢かと云えばそうではない。

 思うにその狭間の世界。此岸と彼岸の狭間。現実と夢幻の狭間。

 なぜ自分がそのような異界に迷い込んだのか。理由は分からないが、屋内に腰を下ろしたせいか、不思議と心は落ち着いていた。

 いまさら騒いだところでどうなるものでもあるまい。ままよ、というある種の開き直りにも似た気分であった。

 

 女は一向、戻って来ない。部屋に案内されたときも、部屋を出て行くときも、足音一つ立てなかったのに私は気付いていた。いずれ人間ではあるまいが、その正体はやはり狐であろうか。

 

 ただ、つらつらと考えるに、あの女の面影はやはり何処かで見たのではないか、という気がして来た。

 暗い水底を覗き込むように私は自身の記憶を辿ったが、しかしそこにはただ茫洋として深い闇が広がるばかりであった。

 



 


 ───さん。


 ───幻偲郎さん。


 どこかで、女の声がする。


 ───幻偲郎さん。


 聞き覚えのある懐かしい声だ。ずいぶん遠い昔に幾度となく耳に馴染んだような。

 ふと目蓋を開けると、真っ赤な襦袢じゅばんに艶やかな紫の打掛うちかけを羽織った女が、長火鉢の脇に端座していた。打掛の裾に広がる紋様は、「嫁取り花」とも呼ばれる桔梗ききょうであろうか。

 太腿の上で行儀良く重ねられた両手の、その右手の親指の付け根にある小さな黒子ほくろが、まるで咎人とがにんしるしであるかのように私の目を惹いた。


 ───幻偲郎さん。


 思わず息を呑んだ。

 そう呼び掛ける声に、おそるおそる頭をもたげる。すると水死体のように血の気のない、真っ白な美しい女の面差しが、私のすぐ眼前にあった。



 ────なぜ、わたしを裏切った・・・・。



 ハッとして目蓋を開いた。何か叫んだような気がしたが定かではない。どうやら、座ったまま眠っていたらしい。

 辺りを見回すと、長火鉢の脇に端座する女の姿が目に入って、わたしは思わず腰を浮かせそうになった。


 「お待たせして申し訳ありません。ずいぶんお疲れになったでしょう」

 それは私を此処へ案内した、小豆色の着物の女だった。

 いつの間に戻っていたのか。私の目の前には、茶請けに載せた湯呑み茶碗が置かれていた。

 「・・・・ああ、これはどうも」

 私はそれを手に取り、口を付けようとして、ふと躊躇ためらった。此処は異界である。黄泉竈食よもつへぐいではないが、果たして口にしても大丈夫なものか?

 私はそれとなく女の顔を窺う。行灯の仄かな灯りに照らされた女の顔には、何の表情も浮かんではいない。ただ、私がそれを飲むのをじっと待っているようであった。

 観念して一口飲み込むと、柔らかな甘い香りが微かに鼻腔の奥に広がった。


 「あら、妙なところに黒子がございますのね」

 女が私の手元を見つめて、ふと呟いた。

 「その右手の親指の付け根。それは生まれながらのものにございますか?」

 女の問いに、私は頷く。特に妙なところとも思わないが、幼少の頃より私の右手の親指の付け根には黒子があった。

 「かつての吉原には、客と遊女がそれと同じところに黒子を入れる習わしがございました」

 「知っています。入れ黒子と云うのでしょう? 恋仲になった客と遊女が、その証として入れたのだとか。ずいぶん昔に流行ったと聞きました」

 

 互いの親指の付け根に墨で黒子を入れ、手を結んだときに親指の腹がそこに当たるようにする。そうして夫婦契めおとちぎりの証とする。むろんくるわのなかだけの話である。いわば遊女の営業手段で、それは客の方も承知の上だ。

 客は遊女に惚れたと云い、遊女もそれに本気になった振りをする。様々な手練手管を弄して、遊女は客の気持ちを自分に繋ぎ留めておく。

 しかしときに、客と遊女の関係を越えて、本気になってしまう者たちがいた。

 その場合、客がみせに大金を払って身請けするか、遊女の年季が明けるのを待って一緒になるか、それが出来なければ泣く泣く別れるか。それでもなお別れ難いなら駆け落ちするか、あるいは来世に結ばれることを夢見て共に命を絶った。

 

 「ええ。その通りです。しかし大正の世になってから、その親指の付け根に入れ黒子をした客と遊女がおりました・・・・」

 私はハッとして、女を見つめた。さっきから女が何の話をしようとしているのか、このときになってようやく悟った。

 「・・・・その二人の名を、ご存知ですか?」

 「はい、遊女の名は紫梗。客は松村幻偲郎さまにございます」

 私の問いに女が答えて、口元を袖で隠してくすりと笑った。

 「その二人のことをお知りになりたくて、あなたは此処までいらしたのでしょう?」

 何故か分からないが、私はその言葉に肺腑を抉られたような気がした。

 

 図書館で松村幻偲郎と紫梗の情死に関する記事を見つけてからというもの、百年も前の既に誰からも忘れ去られた事件に、なぜ自分がこれほどにも心惹かれるのかずっと謎であった。だがそれは、まるで引力のように決して逆らうことの出来ない、何かしら目に見えぬ因果の働きに拠るものなのだとしたら?

 私はそのために此処まで導かれて来たのだ。心の奥底でそう確信する声があった。

 

 「この部屋はかつて、紫梗が使っていた本部屋でございます。そして紫梗が幻偲郎さまと、逢瀬を重ねた部屋でもございました」

 「本部屋」とは、遊女が一対一で客の相手をする部屋のことである。反対に一つの部屋を衝立で仕切って、複数の遊女がそれぞれに客の相手をする部屋を「割り部屋」と呼んだ。

 私は改めて部屋の中をぐるりと見回した。二人はここでどんな風にして馴染みとなり、どんな言葉を交わし、どのようにして死へといざなわれて行ったのであろうか。

 「松村幻偲郎と紫梗について、知っている事があるなら、ぜひお聞かせ願いたい」

 意を決してそう口を開くと、女は「ええ、もちろん」と静かに頷いた。

 しばらく間があったが、私は無言のまま、女が話し出すのを待った。

 

 「───あれは、もう百年も前のこと」



 そうして女が語り出したのは、遠い昔の、この夭綺楼で出会った、若い男女の物語であった。


                (続く)


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