第七話 入れ黒子




 小豆色あずきいろの着物の女は、そこで一旦話を区切った。私は夢から覚めた心持ちで、はっと我に返った。

 

 まるで幻術であった。女の話は微に入り細に至って、その光景を眼前にまざまざと描き出すようで、私はただ我を忘れて聞き入っていたのである。

 ほうっと深い溜め息を一つ零して、私は喉の渇きを覚え、湯飲みに手を伸ばした。不思議なことに茶はまったく冷めていなかった。


 「そのお話は、本当に全て事実なのですね?」

 疑う訳ではないが、あまりに情景が詳細なもので、私は思わずそう訊ねていた。

 「もちろん嘘など申しておりませんし、その理由もありません」

 女がそう答え、私は黙って頷いた。


 女の話を信用するとして、なぜこれほど我がことのように詳細に語れるのか。私はふと、ある仮説に思い至ったが、それは普通の神経なら口に出すのも躊躇ためらわれるような異常な思い付きである。

 だが自分が置かれているこの状況自体が、すでに尋常ではないのだ。もはや尋常か異常かの区別をすること自体が馬鹿らしかった。


 私は思い切って、女に訊ねてみることにした。

 

 「つかぬ事を伺いますが、よろしいですか?」

 「どうぞ、なんなりと」

 「その・・・・あなたの正体は、紫梗さんご本人ではありませんか?」

 

 女は口元に僅かな微笑を浮かべ、私を一瞥するとこう答えた。

 「・・・・ご名答」

 やはりか、と私は思った。作り話でないのなら、当事者本人でなければこうも詳細に語れるはずがない。

 それに、と私はさり気なく彼女の右手に視線を向けた。その親指の付け根には、まるで咎人とがにんしるしのように小さな黒子があった。

 

 しかしそれなら私は、百年も前に死んだ人物と直接会話を交わしていることになる。

 あまりに現実や常識を逸脱した事態に、私はふと目眩を覚えた。

 だが、この深い霧に包まれた、何処とも知れぬ世界に迷い込んでしまったことが、すでに尋常ならざる事態である。本来なら吉原に実在し、おそらくは戦災で焼失したはずの夭綺楼が、此処に建っていることも普通では考えられない。

 もはや自分が当たり前に信じていた時間や空間の概念では理解出来ない、そのような異なる次元に足を踏み入れてしまったのだと、改めてそう認識するより他はなかった。


 混乱しそうな頭を振って正気を保ちながら、私はもっとも根本的な疑問を口にした。

 「此処がどんな世界なのか分かりませんが、しかしいったい何故、私なのですか?」

 「・・・・と、言いますと?」

 紫梗が小首を傾げる。口元の微笑が、私を少し揶揄からかっているようにも見えた。

 「私は、あなたと松村幻偲郎の情死事件の記事を読んで興味を持ち、わざわざ東京までやって来ました。しかし今思えば、ずっと自分の意思とは無関係に導かれて来たようにも感じられる。そうして遂に、この夢とも現とも知れぬ世界に迷い込んで、百年前に死んだはずのあなたと出会った。いったい何故です? なんのために私は此処へ呼ばれたのでしょうか?」

 努めて冷静であろうとしたが、最後の方は声が微かに震えていた。

 紫梗はそれを何か物言いたげな表情でじっと見据えていたが、やがてふと視線を外し、静かに口を開いた。

 「それについては、おいおい分かることになりましょう。まずは話の続きをお聞きください」

 

 有無を言わせぬような静かな威厳に、私は不本意ながらも押し黙った。僅かに居住まいを正し、再び彼女が語り始めるのを待つ。

 

 柱に掛けられた振り子時計がボーンと一つ、ひび割れたような音を屋内に響かせた。



      



 ───話は再び、大正の吉原へと戻る。

 


 それからときどき、幻偲郎は吉原の紫梗の元へと通うようになった。金は原稿の先払いを貰うなど、自分なりに何とか工面した。

 しかし吉原へ行くとなると、やはりそれではすぐ足りなくなる。母からの仕送りもすぐになくなってしまうため、恥を偲んでときおり実家に電話を掛けた。


 実家の電話番は使用人がしているので、父や兄が出る心配はない。そして母をこっそり呼んで貰い、何のかんのと理由を付けて金を送って貰うのだった。

 「私も自由に出来るお金には限りがありますからね」

 電話に出るたび母はそう小言を垂れたが、それでも幻偲郎の頼みを決して断りはしなかった。

 厳格な父や丈夫な兄と違い、母は幼少の頃より幻偲郎にだけは甘かった。あまりに病弱で七つまで生きられれば奇跡だと、医師に告げられていたためであろう。

 気苦労を掛け続け、またその母を騙して金をせびることに、幻偲郎はひどく罪悪感を覚えた。

 

 幻偲郎は相変わらず、紫梗と身体を重ねようとはしなかった。

 なぜわたしを抱こうとしないのかと、紫梗は訊ねてみたことがある。しばらく口ごもっていた幻偲郎だが、やがておずおずとその理由を話した。


 一つは、彼が幼少時より基督キリスト教の薫陶を受けていたためであった。

 幻偲郎の母の実家は、隠れ切支丹キリシタンの家系である。祖先は遠く島原の乱の生き残りだと伝えられる。そのため母も基督に対する信仰が篤く、幻偲郎は幼い頃より教会へ連れて行かれることが多かった。

 基督教の厳格な教えが、彼のうちに性愛に対して極めて潔癖な倫理観を育んでいたのであった。

 

 それと、もう一つ。幻偲郎は幼少期において、使用人の女たちから性的な悪戯をされていたのである。

 普段は優しく快活な彼女たちが、物陰に幻偲郎を引き込んだときの淫靡で獣めいた表情が、彼のうちに性的行為に対して、恐怖と嫌悪と罪悪の感情を植え付けていたのだった。


  基督教の厳格で潔癖な教えと、幼少時代の心的外傷トラウマが幻偲郎を引き裂き、彼をある種の不能者に陥らせていたのである。


 幻偲郎の告白に、紫梗はひどく心を痛めた。そして彼に対し、無闇に誘惑するような真似をしなくなった。

 

 遊郭に来て遊女を抱こうとしない幻偲郎に、最初はいぶかしみ呆れもしたが、それも所詮は吉原で過ごした二年の間に刷り込まれた、遊女としての商売根性なのかも知れないと思った。

 なので紫梗は、幻偲郎の好きにさせることにした。売れない花魁とはいえまったく客がない訳でもないし、その方が自分の身体も楽だということもある。


 幻偲郎は紫梗の元で二時間か四時間、または朝方まで、ただ話をして帰って行った。

 しかし紫梗が語る吉原の怪談も、そういつまでも種がある訳ではない。

 そうすると話は自然と互いの幼少期や身辺の事となる。それも尽きるとただ黙って一緒にいるだけになった。

 布団の上に二人並んで横になり頭を寄せ合って、ときおり片方が洩らす冗談や悪ふざけにクスクスと笑い合う。

 それはまるで幼い兄妹きょうだいのように幸せであった。


 結局、妾たちは同類なのだと、紫梗は思った。

 何処にも行き場のない孤独な者同士が、傷付いた羽根を休める鳥のように一刻ひとときだけ互いを労り、慰め、また離れてゆく。

 幻偲郎と過ごす僅かな時間が、いつしか紫梗にとって何よりも掛け替えのないものとなっていた。

 

 互いの右手に黒子を入れたのも、そんな頃のことだ。

 墨汁に浸した爪楊枝の先で、紫梗が幻偲郎の親指の付け根を刺す。

 「痛っ・・・」と身じろぎする幻偲郎を「動かないで」と姉のように叱りながら、出来上がった入れ黒子は滲んで星に似た形をしていた。

 紫梗は左手に爪楊枝を持ち、自分の右手に同じように黒子を入れる。

 「これで妾たち、もう契りを結んだのも同然よ」

 「・・・・契りか」

 「ねぇ、幻偲郎さん」

 「なんです?」

 紫梗が幻偲郎の目を覗き込みながら、真剣な表情をした。

 「妾のこと、裏切らないでね」

 「・・・・裏切る?」

 よく分からないまま鸚鵡返しに問う幻偲郎に、紫梗が頷く。

 「この吉原は全て嘘で出来ているの。見掛けの華やかさも嘘。花魁と客の交わす睦事や誓いの言葉も全部嘘。楼主や遣り手婆は、口では妾たちの為なんて親切ごかしに言うけど、結局は金のことしか考えていないし、朋輩たちだって表向きは仲良くしていても、裏へ回れば足の引っ張り合いよ。そんな何もかもが嘘の世界で、妾はたった一つだけの本物が欲しい」

 「・・・・その本物とは、いったい何です?」

 幻偲郎の問いに、紫梗は自分の指先を彼の心臓の辺りに這わせ、ゆっくりとなぞった。

 

 「───命よ」

 

 「・・・・命、ですか」

 掛け替えのないたった一つの命を差し出すなら、それは確かに本物のはずである。そう紫梗は信じていた。

 「分かりましたよ、紫鏡さん」

 しばらく間があって、幻偲郎が慈しむような優しい声で囁いた。


 「───この命は、あなたのものだ」

 


 しかし十一月に入った頃、幻偲郎がピタリと来なくなった。

 金が尽きたか、それとも病気にでもなったか。紫梗はひどく心配したが、幻偲郎が訪れる気配は一向にない。

 

 「ただでさえ客が取れないのに、馴染み客まで逃がすなんて、ちゃんと手綱を握っておかないからだよ」

 遣り手婆はそう嫌味を言ったが、紫梗はただ黙って聞き流した。

 

 馴染み客がある日を境に、ふいに来なくなる。

 よくある話だ。理由は色々である。単なる心変わりだったり、引っ越しなど生活環境の変化だったり、病気や怪我などの場合もある。

 そんなことは今までに何度もあった。多少寂しく思わなくもないが、そのたびにただ淡々と諦めて来た。

 

 今度もそうだ。仕方のないことだ。幻偲郎さんにだって自分の生活や都合がある。そう呟いて、ふいに涙が零れた。

 紫梗にとって幻偲郎は、もはや単なる馴染み客以上の存在になっていたのである。

 遣り手婆の説教を聞き終え、自分の部屋に戻った紫梗は、親指の付け根に入れた小さな黒子をじっと見つめた。


 ───裏切らないと言ったのに。

 

 暮れゆく晩秋の風がひどく骨身に堪えるようで、紫梗はやり場のない思いを持て余しながら、ただ頼りなく己の肩を抱き締めたのだった。


                 

                (続く)

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