第八話 暗転




 幻偲郎が再び、ふらりと夭綺楼ようきろうへ姿を現したのは、それから一ヶ月後の十二月初旬のことであった。

 

 ケープ付きの黒い外套コートを羽織った幻偲郎の顔は、ひどく痩せ細って青褪めていた。紫梗は嬉しさよりもその変わりように驚いて、思わず悲鳴を洩らしそうになったほどである。

 

 「いったいどうしたの? そんなに痩せてしまって」

 紫梗が心配したのは身体のことだった。元々あまり血色の良くなかった顔が、まるで死人のようである。

 しかし幻偲郎は黙って頭を横に振った。息が妙に酒臭い。珍しく飲んでいるようであった。

 「いえ、僕の身体は大丈夫です。それよりも、ご無沙汰してしまって済みませんでした」

 「良いのよ、そんなこと。また顔を見せてくれて嬉しいわ。でもいったい何があったの?」

 幻偲郎は少し口ごもっていたが、やがて溜め息を洩らすようにこう答えた。

 

 「・・・・母が、亡くなりました」


 

 報せは突然にもたらされた。

 十一月の始め、幻偲郎の元に電報が届いた。差出人は兄で「母危篤スグ帰レ」とある。

 頭が真っ白になり、すぐさま支度して汽車に飛び込んだ。一昼夜を掛けて鹿児島の実家に辿り着いたが、しかし母はすでに息を引き取った後だった。

 

 「死因は脳卒中だそうです。朝餉あさげの支度をしている最中に突然倒れ、すぐに医師が呼ばれましたが、そのまま意識を取り戻すことなく・・・・」

 

 母は荼毘に臥され、菩提寺に葬られた。

 放心したまま葬儀が終わり、やがて襲って来たのは激しい後悔と罪の意識であった。

 「この数ヶ月、僕はずっと母を騙していました。何のかんのと嘘を付いて金を無心し、それを此処へ来るために遣っていたのです」

 その言葉に、紫梗は胸を針で刺されたような痛みを覚えた。

 「僕は母に何も返せないままでした。あれほど愛情を掛けて貰いながら、親不孝ばかりして・・・・」

 あとは言葉にならない様子である。

 「ごめんなさい。それならわたしも同罪ね。あなたのお母さまには、本当に申し訳ないことをしてしまったわ・・・・」

 「いえ、決して紫梗さんのせいでは・・・・」

 紫梗の謝罪に幻偲郎はそう反駁はんばくしたが、しかしその後はふいに涙が込み上げて言葉にならなかった。

 

 

 「それで、いつ帝都に戻ってらしたの?」

 やがて落ち着いた頃合いを見計らって、紫梗が幻偲郎にそう訊ねた。

 「三週間ほど前です。本当は母の四十九日が終わるまで実家にいようかと思いましたが、あの家にはもう僕の居場所はありません」

 葬儀の翌日、父に呼ばれ居間に赴いた。そこには兄もいて、厳しい表情で幻偲郎に問い質したいことがあると言った。


 母が月に一度、幻偲郎に仕送りをするのは父も黙認していた。しかしここ数ヶ月、たびたび幻偲郎から金の無心があり、総額でかなりの額を送っていたのを、使用人の一人が密告したのであった。

 何のためにそんな金が必要だったのかと厳しく問い詰められ、幻偲郎はやむなく正直にその理由を話した。むろん、父も兄も激怒した。特に兄の怒りは大変なもので、その心労が母を死に追いやったのだと、まるで人殺しを告発するように幻偲郎をなじった。


 「結局、僕はそのまま家を追い出されました。これよりは親子と兄弟の縁を切るとのことです。つまり勘当されたのです。仕方ありません。自業自得です」


 幻偲郎は失意のうちに、再び帝都へと戻って来た。

 

 「それからずっと下宿先に引きこもっていました。出版社から原稿依頼が来ましたが、とても筆を取る気になれず断ってしまって・・・・」

 それからは昼も夜もなく、ずっと呆然として暮らした。食事さえ碌に取らず、生きていることが罪悪に思えた。まるで自分を支えていた柱が、一度に崩れ落ちてしまったかのようであった。

 

 「それでもよく妾のことを思い出してくれたわね。もう大丈夫なの?」

 紫梗が労るように言うと、幻偲郎はふと自嘲するような笑みを口の端に浮かべた。

 「本当はもっと早くあなたに逢いたかったのですが、母を亡くしたばかりで吉原通いも気が引けたもので」

 「それは仕方ないわ。でも来てくれて嬉しい」

 幻偲郎が救われたような表情で頷く。

 「実はさっきもあまりに辛いことがあって、そこから逃げて来たのですよ。しばらく浅草辺りを彷徨って、それからどうしても紫梗さんの顔を見たくなって、此処へ来ました」


 それは今日の午後のことであった。

 『新青年』の担当編集者が、幻偲郎の下宿先を訪ねてきた。原稿の依頼も兼ねて、様子を見に来たのである。

 

 やつれきった亡霊のような幻偲郎を見て、さすがに編集者も驚いたようであった。すぐに近くの定食屋へ赴いて食事を取らされ、それから気晴らしと称して銀座のカフェーへと連れて行かれた。文壇関係者もよく訪れる少し上等な店で、編集者の奢りという話である。

 

 恐縮しつつ馴れない酒に顔をしかめていると、店の奥で嬌声と笑い声が響いた。何事かと覗き込んだ先で、衝立で仕切った六人掛けの席に背広姿の男たちが陣取っている。

 その中でカフェーの女給を膝に乗せ、葉巻を咥えて一番偉そうにしている男に見覚えがあった。とある大御所作家で、出版社のパーティーで一度顔を合わせたことがある。歳は確か五十代後半辺りのはずだ。

 周りの男たちは彼の取り巻きである作家や絵描き、舞台役者などで、雑誌の写真で見知った顔が幾つかあった。

 

 「ちょっと挨拶してこよう」

 編集者はそう言うと席を立ち、賑やかな店の奥へと向かった。

 幻偲郎は実はこの大御所作家の作品を密かに愛読しており、文章のお手本として敬愛してもいた。しかし彼は一度会ったきりの自分のことなど、とっくに忘れているであろう。それに騒がしい取り巻きの連中も苦手である。

 

 素知らぬ顔で店の外を眺めていると「おおい、松村くん」と、幻偲郎を呼ぶ編集者の声が聞こえた。

 振り返ると件の大御所作家と仲間の男たちが、少し小馬鹿にしたような顔でこちらを見ている。

 「君も挨拶すると良い」

 そう編集者に促され、緊張の面持ちで席を立った。

 「どうも、松村幻偲郎です」

 作家の前に進み出て、おずおずと頭を下げる。

 「君とは前に会ったな」

 幻偲郎はパッと顔を輝かせた。まさか憶えていてくれたとは思わなかったのだ。

 「ええ、出版社のパーティーで一度だけ、ご挨拶させて頂きました」

 すると作家は、ふふんと鼻を鳴らした。

 「ああ、よく覚えているよ。どこの田舎の田吾作が迷い込んだかと思ってね。印象に残ってる」


 周りの男たちとカフェーの女給までもが、どっと大声を張り上げて笑った。

 幻偲郎はいきなり横っ面に、張り手を喰らわされたような気がした。

 作家は葉巻の煙をふうっと天井へ向けて吐きながら、さらに幻偲郎をいたぶるように嫌な笑みを見せた。

 「それに君の書いた作品。ありゃあ一体なんだね。まったく小説になっていないじゃないか。無駄に情景描写ばかり多くて、人物がこれっぽちも書けていない。肝心の怪異もまるで虚仮威こけおどしだ。泉鏡花の出来損ないも良いところさ!」

 その後も散々な酷評が続き、周りの男たちが大声で囃し立てたが、幻偲郎の耳にはまったく届いていなかった。

 

 雷に打たれたように頭が真っ白になり、立っている足にも力が入らず、幻偲郎はくるりと踵を返すとふらふらと蹌踉よろめきながら、店の玄関口へと向かったのである。

 店の外へ出る寸前「逃げるのか、臆病者!」と罵倒する声が聞こえたが、それにいっさい取り合わず、幻偲郎は走り出し、気付くと浅草の仲見世通りを人混みに紛れながら歩いていた。


 「まぁひどい! ずいぶんと嫌味な連中ね!」

 話を聞いた紫梗は、そう言って我がことのように憤慨した。

 「あなたも情けないわよ、幻偲郎さん。何も言い返さないで逃げて来るなんて。そんな連中、横っ面の一つも張り飛ばしてやれば良いんだわ」

 「そんな怖ろしい真似は出来ませんよ。僕は喧嘩で人を殴ったことなど一度もないんだ」

 幻偲郎は肩を落として苦笑いする。

 「それに、人に馬鹿にされるのは慣れていますから・・・・」


 そうして嘆息する幻偲郎を、紫梗はしばし黙って眺めていたが、やがて力のない声で静かに呟いた。

 

 「でも、あなたが来てくれて良かったわ。だってもう少ししたら、妾はこのみせからいなくなるもの」


 その言葉に、幻偲郎が驚いた表情で紫梗を振り仰いだ。

 「この楼からいなくなるって・・・・どういうことですか、それは?」

 

 まず頭に浮かんだのは身請け話である。どこぞの金持ちが紫梗を身請けでもするのだろうか。

 その疑問を口にすると、紫梗は苦笑して頭を横に振った。

 「まさか。こんな妖しい噂のある女郎を、身請けする物好きなんているもんですか」

 それからふうっと一つ溜め息を零して、

 「余所に売られるのよ。あなた以外にほとんどお客は付かないしね。・・・・それに、妾が憑き物筋だって、とうとう楼にバレてしまったわ」

 

 それはほんの二週間ほど前のこと。

 ふらりと夭綺楼を訪れた客が、偶然にも紫梗と同郷の者だった。彼は玄関口の写真見世で紫梗を発見し、指名した花魁に故郷での紫梗に関する噂を話してしまったのである。

 それはたちまち他の花魁や楼主の知る処となり、紫梗は厳しく問い質され、仕方なく自分の生い立ちを正直に話した。

 

 「周旋屋め、そんなことは一言も話さなかったぞ」

 楼主は激怒した。吉原遊郭はことのほか縁起を担ぐ場所でもある。そんな処に憑き物筋の血を引く花魁がいたのでは、商売に差し障りがあっても不思議ではない。

 このところの楼の不景気も、先立って客が剃刀を振り回して階段から転落死した事件も、すべて紫梗を此処に置いているせいではないのか。そう考えた楼主は苦虫を噛み潰したような表情で、紫梗に向かって「この疫病神め」と罵った。

 

 以前、楼の遊女たちの私物が紫梗の部屋で見つかることが相次いだのも、彼女の後ろに憑いている狐の仕業であろうと囁かれた。遊女たちは、紫梗を薄気味悪いものでも見るような眼差しで、ますます距離を取って近付かなくなった。

 

 そしてつい先日、楼の番頭と遣り手婆が、自分の身売りに関して話をしているのを、紫梗は偶然にも立ち聞きしてしまったのである。


 「・・・・そんな、あなたは何も悪くないのに」

 「仕方ないわ。楼だって商売だもの。むしろ今までよく置いてくれたものだと思うわ」

 紫梗はすっかりと諦めた様子である。

 「それで、いったいどこへ売られるというのです?」

 「さあ、どこかしら。少なくとも吉原ではもう、格下の小見世こみせだろうと引き受ける処なんてないわ。たぶん、どこか田舎の宿場女郎にでもされるのが関の山ね」

 「・・・・そんな」

 幻偲郎は愕然として項垂うなだれた。

 「・・・・すみません。僕に力があれば、貴女を此処から救い出してみせるのに」

 「別に良いのよ。あなたのせいじゃないわ」

 紫梗が達観したように微笑する。

 しばらく沈黙が降りた。柱時計の時を刻む音だけが、行灯に照らされた暗い室内に規則正しく響いていた。

 

 やがてその沈黙を打ち破るように、幻偲郎が口を開いた。

 「・・・・逃げましょう」

 「逃げるって、いったい何処へ?」

 「何処だって構いません。あなたが売られる前に、二人で逃げるんです!」

 幻偲郎は真剣であった。本気で紫梗を連れて逃げようと思った。

 それがもちろん難しいことは承知の上である。しかし今や幻偲郎にとって、紫梗は唯一の心の拠り所であったのだ。

 むざむざと奪われてなるものか。

 生まれて初めて怒りにも似た感情が、彼を突き動かそうとしていた。

 

 そんな幻偲郎を見つめる紫梗の瞳が、哀しげな色を帯びて揺れた。

 「無理よ。借金を抱えた遊女が逃げれば、楼は届けを出して警察が追ってくるわ。何処に行ったって逃げ切れやしない」

 逃亡して捕まった遊女を待っているのは、激しい折檻である。縄で吊された挙げ句、竹刀で打ち据えられたり、水責めにされたりするのだ。それで死んだところで、警察も楼の内部で起きたことなど知らぬ存ぜぬである。

 楼主は医者に金を渡して適当な死亡診断書を書かせ、死体は近くの投げ込み寺に小銭を添えて捨て置かれる。それで全てが終わってしまう。

 「それにあなただって、どんな目に遭わされるか・・・・」

 吉原は裏でヤクザとも繋がっている。遊女の自由廃業を手伝った社会運動家や弁護士が、吉原のヤクザに狙われるのもよくある話だった。

 

 再び重い沈黙が降りた。もはや何処にも道はない。むざむざと羽根をもがれるのを待つだけの無力な雛鳥のように、二人は肩を寄せ合って涙を零した。

 

 「・・・・僕に出来ることはありませんか?」

 幻偲郎の悲痛な問いに、紫梗はややあって答えた。

 「・・・・あるわ。一つだけ」

 そして幻偲郎の右手を取り、その親指の付け根の黒子に指先を這わせた。

 「ねぇ、前にわたしが言ったこと憶えてる?」

 そう言って謎掛けのように幻偲郎の目を覗き込む。

 「この吉原は何もかもが嘘ばかり。妾はただ一つの本物が欲しい・・・・」

 「ええ、憶えています」

 幻偲郎が強く頷く。

 それなら、と紫梗は微かに掠れた声で言った。

 

 「それなら・・・・妾と一緒に、死んで頂戴」


 「・・・・死ぬ?」

 「そうよ。怖い?」

 無言でいる幻偲郎を見つめながら、紫梗が微笑んだ。

 「例え逃げても、妾にはどこにも行く処なんてないもの。先の望みも何もない。もうこれ以上、好きでもない男に身を売るなんて真っ平よ。それならいっそ、死んでこの人生を終わらせるの」

 紫梗は夢見るような眼差しで、そう静かに語った。

 「でも一人ぼっちで死ぬのは嫌。あなた、自分の命は妾のものだと言ったわよね。それなら、妾と一緒に死んで頂戴」

 

 紫梗の真剣な様子に気圧されながらも、幻偲郎はある甘美な誘惑が胸に広がるのを感じていた。


 どこにも行く道がないのは自分も同じである。

 母が亡くなり、実家からは勘当され、とうとう天涯孤独の身となってしまった。

 その上、敬愛していた作家に散々に罵倒され、作品を酷評される始末だ。彼の評価は文壇や出版社に少なからず影響力を持っている。その彼の評価を著しく損なうことは、もはや自分には今後、作家としての芽はないと宣告されたも同然であった。

 自分に才能がないことなど、ずっと以前から気付いていた。

 気付いていながらその道に縋り付いたのは、それこそが何の取り柄もなく他人に馬鹿にされるだけの愚鈍な自分を、唯一無二の存在として世間に証立ててくれるように思えたからだ。

 しかしその信仰は今日、脆くも砕け散った。敬愛する作家の罵倒は、幻偲郎の脆弱な自尊心を打ち砕くのに充分な一撃であった。

 

 このうえ紫梗とも離れ離れになるというのなら、もはやこの先の人生は生きながら屍になるようなものだ。


 「・・・・分かりました。死にましょう」

 

 ややあって、幻偲郎は紫梗の手を握り返した。

「僕たちが共に生きることは、もはや赦されない。それならば今生を捨てて、来世でこそ結ばれましょう」

 

 こと此処に至って、それより他に道はない。そう思い定めると、彼岸の向こうにこそ、まだ見ぬ希望が晴れ晴れと輝くように感じられるのであった。

 

         

               (続く)



 

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