第十話 彼岸の畔




 大正十三年十二月十一日のその夜は、ちょうど満月であった。

 

 明るく晴れた師走の夜空に、上野の山の向こうから寛永寺の鐘が厳かに響いて来る。

 辺りは漆黒の闇である。甲高い声で雁が鳴いて、続けざまに飛び立つ羽音が、何処いずこかへと遠ざかってゆく。

 

  不忍池しのばずのいけの畔に佇む幻偲郎と紫梗の二人は、池の水面の向こうに広がる暗闇をただぼんやりと見つめていた。


 今頃、夭綺楼ようきろうでは紫梗の「足抜け」に大騒ぎしていることだろう。とっくに警察へ届けを出し、みせの雇い人たちも駆り出されて、自分を探し回っているに違いない。

 

 浅草の洋食屋を後にして、幻偲郎と紫梗は路面電車に乗り、そのまま上野の不忍池を目指した。

 不忍池の畔には、昔から出合茶屋であいちゃやが幾つも建ち並んでいる。そのうちの一軒に二人は忍び、夜の訪れをじっと息を潜めて待ち続けた。


 「まさか、こんな簡単に抜け出せるとは思わなかったわ」

 紫梗が渇いた笑い声と共にそう言った。

 「案外、やってみると呆気ないものね。吉原の中にいるときは、足抜けなんてどうせ出来っこないと信じていたけれど」

 

 幻偲郎は紫梗の言葉を聞いているのかいないのか、遠く池の水面に映る出合茶屋や料亭の燈灯ともしびを、虚ろな眼差しで見つめている。

 そんな幻偲郎に気遣うような視線を向け、紫梗は夜空を仰ぐと再び口を開いた。

 「わたしたち、これから本当に死んでしまうのね」

 幻偲郎は、それでも何も言わない。

 「・・・・まだ、未練がある?」

 その問いに、幻偲郎はゆっくりと頭を横に振った。

 「いえ、なんだか今までの全てが夢のようで」

 そして紫梗を振り返って

 「今なら、未練を残す前にあっさりと死ねるような気がします」

 「・・・・そう」

 紫梗が静かに微笑んだ。

 

 「それなら、気が変わらないうちにさっさと死んでしまいましょうか」

 

 そうして手にしていたポーチの中から、輪っかに丸めた細い麻縄を取り出した。

 「なんですか、それ?」

 「これで互いの手首を縛るの。そうすれば、きっとあの世でもはぐれないわ」

 紫梗は幻偲郎の左手首に、幻偲郎は紫梗の右手首に、縄の端をきつく縛り付けた。

 「これで大丈夫」

 紫梗は幻偲郎を振り返り、その顔をまじまじと見つめた。

 

 それにしても奇妙な道行きであった。初めて逢ってからほんの三ヶ月と少し。まさか一緒に死ぬことになろうとは想像だにしなかった。

 「思えば妾たち、一度も身体を重ねなかったのね」

 「すみません、僕のせいで」

 謝る幻偲郎に、紫梗はくすりと笑った。

 「・・・・別に良いのよ。男と女なんて、決してそれだけではないのだと知れたもの」




 小豆色の着物の女───紫梗は、そこでまた話を区切った。

 私は我に返った。

 行灯あんどんに照らされた仄かな暗闇の中、紫梗は長火鉢の脇にじっと端座している。私は黙って、唐突に途切れた物語の続きを待った。



 「・・・・こうして、二人は不忍池に身を投げました。しかし、死んだのは紫梗のみ。幻偲郎さんは一命を取り留めたのです」

 暗い室内に紫梗の語る声が陰々と響く。

 「幻偲郎さんはその後、殺人の罪で警察に逮捕されました。しかし精神状態が錯乱しており、鹿児島の実家が弁護士を雇ったこともあって、不起訴になったのです」

 紫梗の声は静かである。それまでと違い、ただの報告文を読むように淡々としている。

 「殺人・・・ですか。自殺幇助ではなく?」

 私は疑問を差し挟んだが、彼女はそれに答えず、僅かに頷いただけだった。

 「・・・・幻偲郎さんは、完全に気が触れてしまわれました。一人だけ生き残った罪の意識と後悔のためでしょうか。いつまでも紫梗の名を呼び続けたそうです。不起訴になったあと、幻偲郎さんは雑司ヶ谷の癲狂院てんきょういんに入れられました。そこで一年近く過ごしましたが、とうとう正気に戻ることはなく、ある朝、病室のベッドで冷たくなっているのが発見されました。外傷はなく、持病もなかったことから、突発的な自然死とされたそうです」


 「紫梗さんの亡骸はどちらに?」

 そう訊ねてから、死んだ本人に葬られた場所を訊くのも奇妙なものだと思った。

 「浄閑寺ですよ。身寄りのない遊女の亡骸など、他に引き受けてくれる処もありません」

 そう答える紫梗の微笑みは、心なしか寂しげであった。

 

 

 「・・・・それにしても」

 私は再びある疑問を呈した。

 「松村幻偲郎はどうして一人だけ助かったのでしょうか。二人は互いの手首を麻縄できつく結んでいたのですよね?」

 

 仄暗い闇のなか、紫梗が感情の読めない目で私をじっと見据える。

 

 「・・・・憶えていらっしゃらないの?」

 

 言葉の意味が分からなかった。憶えているはずがない。だって私は幻偲郎ではないのだから。

 返答に窮して戸惑っていると、紫梗はついと膝を立て、音も立てずに私の正面へとにじり寄った。

 そしていきなり私の頬を両手で挟むと、鼻先が触れるほどの近さまで顔を寄せ、じいっと目の奥を覗き込んで来た。その表情に怒りと苛立ちの色があった。

 「・・・・これほど話して、どうして思い出せないの?」

 「いったい何のことです? 思い出すも何も、そもそも二人が死んだ経緯いきさつすら、私は知らなかったのですよ」

 「いいえ、そんなはずがないわ。あなたは、きっと憶えている。忘れたなんて言わせない」

 私の顔を挟む紫梗の両手に力が篭もる。頭蓋がミシリと音を立て、私は慌てて紫梗の両手首を掴んで離そうとしたが、女とは思えぬほどの怪力でピクリともしなかった。

 

 「・・・・だって、あなた」

 

 紫梗がさらに私の目の奥を覗き込む。その黒い瞳に、狂気めいた光が水面に映る月明かりのようにゆらゆらと揺れた。


 「だって、あなた───幻偲郎さんの生まれ変わりだもの」



 そのときふいに行灯の灯りが消えて、室内が闇に閉ざされた。いつの間に霧が晴れたのか、窓から月明かりが射し込んでいる。

 時が止まったかのようだった。紫梗の瞳の奥には深遠があって、じっと見つめていると、私の意識はその涯てへと吸い込まれて行くように思われた。

 

 そして突如として脳裏に甦ったのは、紫梗と互いの手首を麻縄で結び合う光景である。

 

 ───ああ、そうだ。


 ───あのとき、私は・・・・。



 互いの手首を縄で結んで、次に紫梗がポーチから取り出したのは、一本の剃刀であった。

 「本当は花魁が刃物を持つのは禁止されているの。だけど、妾の後ろに憑いてるっていう“狐”に頼んでみたら、翌朝には文机の上に置いてあったわ」

 今まで散々困らされたけど、やっと役に立ってくれたのね、と寂しげに笑う。

 「・・・・それを、どうするんです?」

 私は刃物のような鋭い物が苦手であった。恐る恐る訊ねると、紫梗は左手に剃刀を持ち、その刃をおもむろに自分の右手首に当てた。

 「───こうするの」

 何度か躊躇ったのち、紫梗は一気に剃刀を引いた。

 「あっ!」と私が叫ぶ間もなく、鮮血がみるみる溢れて地面に滴り落ちる。

 「池に飛び込むだけでは心許ないもの。こうすれば確実に死ねるわ」

 色を失った顔で私を見つめ、紫梗はそう微笑む。そして私の前に「さあ」と言って、剃刀を差し出した。

 

 震える手でそれを掴む。

 

 血の付いた刃を左手首に当て、躊躇いつつ何度も引き切ろうとした。鋭い痛みが走って、手首に赤い傷が描かれるたび、剃刀を持つ右手の震えは一層激しくなった。

 

 そのとき、こと此処に至って、私は身体の奥から迫り上がって来る死の恐怖に、とうとう耐え切れなくなって叫んだ。

 

 「───駄目だ、出来ない!」

 

 悲痛な思いでそう訴えると、紫梗は柳眉を吊り上げ、これまで見たこともないような怒りの表情を露わにした。

 「妾を裏切らないって言った癖に!」

 そして鮮血で真っ赤に染まった両手を突き出し、私の袂に縋り付いた。

 

 「───ここで逃げるなんて、絶対に許さない」


 次の瞬間、紫梗は私をしかと抱き締めると、一息に池の水面に身を投げたのだった。

 


 それは時間にすれば、ほんの僅かの間だったろう。しかし私には、永遠とも思えるほどの悪夢の光景であった。

 

 突然、真っ暗な水中に没し、私は完全に恐慌状態に陥っていた。

 私の身体にしがみついた紫梗が、水底へ引き摺り込もうとする。それに懸命に抗って、私は滅茶苦茶に腕を振り回した。

 しかしそのとき、私の右手にはまだ剃刀が握られていた。そして結果として意図せず、私は彼女の顔を何度も切り裂いたのだった。


 水中に真っ赤な血が広がって、私の鼻や口から体内に流れ込んで来る。そのおぞましさに吐き気を覚え、それがまた私を一段と恐怖させた。

 左手首の麻縄を剃刀で断ち切ろうとし、それを防ごうと、紫梗が肩口や襟首に怖ろしい力で掴み掛かる。

 私は彼女の身体を必死で押しのけ、突き放し、さらに剃刀で切り裂き、幾度となく蹴り付けた。

 月の光が射して蒼く淀んだ水底で、死に物狂いの闘争が続いた。大量に出血したためであろう、やがて紫梗が力尽きてゆくのが分かった。


 私の着物を掴んで離さなかった指がほどけ、口から吐く泡が小さく少なくなって・・・・やがて、止まる。

 愛した女が骸になってゆく。その事実がひたすら恐ろしく、私は手首の縄をなんとか断ち切ろうとした。

 やがて鈍い手応えと共に左手首の戒めが断たれた。頭上にゆらゆらと月明かりが揺れている。それに向かって、私は夢中で泳いだ。

 

 紫梗をただ一人、水底に置き去りにして。

 

 

 私は溺れそうになりながらも、尽きそうな体力と気力を振り絞り、無我夢中で岸に這い上がった。

 全身ずぶ濡れで、凍えるように寒い。ガタガタと小刻みに震えながら、もはや息も絶え絶えで、歩く力すら残ってはいない。

 意識が遠退いて、私はその場で気を失った。警邏中けいらちゅうの警官に発見されたのは、それから間もなくのことであった。



 ───どうしてだろう。


 ───どうして、今まで忘れていたのか。


 それは紛れもなく、前世の記憶である。

 百年前、私は松村幻偲郎と名乗る作家であった。吉原の遊女と情死を遂げようとして、死への恐怖から直前で女を裏切り、一人だけのうのうと生き残った卑怯な男であった。

 そして自分がいったい何のために、此処へ導かれるように辿り着いたのか、その理由がようやく分かった気がした。


 私は改めて紫梗を見つめ返した。

 「・・・・やっと思い出したのね」

 紫梗が微笑む。すると次の瞬間、その顔に幾つもの赤い線が走った。傷口がぱっくりと割れて赤黒い肉が覗き、鮮血が飛び散る。血潮は雨のように降り注いで、私の視界を真っ赤に染めた。

 

 私は絶叫した。長い長い絶叫だった。

 

 紫梗の右手首からも鮮血がほとばしった。それは滝のように流れて私の膝を濡らし、畳の上に血溜まりを作ってゆっくりと広がって行った。


 紫梗はもう小豆色の着物姿ではなかった。

 自らの血で染めたような真っ赤な襦袢に、桔梗の紋様の入った紫の打掛うちかけを羽織り、髪は束髪でなく島田に結い上げた日本髪。

 白粉を塗った真っ白な肌を、赤い鮮血がまだらに染め上げ、その狐にも似た怜悧な眼差しが、私を蔑むようにじっと見下ろしている。

 「・・・・こうして逢える日を、ずっと待ち詫びていたわ。幻偲郎さん」


 私はその場にへたり込んだ。腰が抜けて、逃げ出そうにもまるで足に力が入らない。

 

 紫梗の血まみれの姿は、あまりに怖ろしかった。怖ろしいのに、しかし奇妙に美しくもあり、私は目を離すことが出来ないでいた。

 唖然としたまま、ただ声もなく震える。すると、紫梗の両手が這うように動いて、私の喉を掴んだ。そのまま万力のような力で締め上げる。首の骨がみしり、と嫌な音を立てた。

 私はたまらず後ろに倒れた。仰向けになった身体に、紫梗が馬乗りになる。首を絞める手に力が籠もって、私は蛙の潰れるような呻き声を洩らした。

 

 「・・・・幻偲郎さん、どうして妾を裏切ったの?」


 紫梗の顔から、赤い血が幾つもの筋となって滴り落ちる。それは私の顔を濡らし、口から喉へと流れこんだ。血はひどく粘付いていて、鉄錆のような苦い味がした。

 

 私は紫梗の手を外そうともがいた。しかしその両手首は血で染まってぬるりと滑りやすく、もはや自力で外すのは不可能だった。


 目の前が昏くなる。意識が徐々に遠退いてゆく。

 理不尽だと思った。前世の不始末は、松村幻偲郎という男のものではないか。その生まれ変わりとはいえ、なぜ私が責任を負わねばならないのか。

 図書館であの記事を見付けたとき、おそらくあれが始まりだったのだ。それによって前世の因縁が、まるで機会仕掛けのように動き出した。私は蜘蛛の巣に捕らえられた、小さな羽虫も同然であった。


 虚ろな意識で、私は手を伸ばした。偶然だったが、それが目の前に覆い被さる紫梗の頬に触れた。

 ふと、私の首を絞める力が緩んだ。肺に空気が流れ込み、ぼやけた視界が焦点を結ぶ。

 紫梗の顔が目に入った。紫梗は泣いていた。涙が血と混じり合い、頬を伝って顎先から滴り落ち、また私の顔を濡らした。


 そのとき初めて、言いようのない罪悪感と後悔が、私の胸を満たした。

 これではあのときと同じではないか、と思った。約束したにも関わらず、死の恐怖に怯え、紫梗を裏切って一人だけ逃れようとした、あのときと。

 

 「・・・・すまなかった」


 謝罪の言葉が、ふいに口を衝いて出た。

 

 「本当にすまなかった。あなたを裏切って。・・・・百年もの間、こんな処にたった独りで置き去りにして」


 これは、もはや運命なのだと思った。もしいま逃れ得たとしても、いずれまた因果の糸が私の手足を絡め取るに違いない。

 いまこのときこそ、私は前世の報いを受け入れるべきだった。ついに約束を果たすときが来たのだと、静かな諦めの思いが、さざ波のように胸の奥に広がってゆくのが感じられた。


 「好きにすると良い」


 涙と血にまみれた顔で、紫梗が私をじっと見下ろしている。


 「───この命は、あなたのものだ」


 紫梗の目から、また一つ涙が零れ落ちた。

 いつの間にか縦横に裂けた傷口が、綺麗に塞がっていた。

 夥しい血の痕が消え失せ、真っ赤な襦袢に桔梗の紋様の入った紫の打掛を羽織り、頭を日本髪に結った、少し狐に似た美しい花魁の姿がそこにあった。


 「・・・・本当に、憎い人」


 微かに震える声でそう呟くと、紫梗は私の胸にそっと頬を寄せた。私はその背中に片腕を回して、詫びるように抱き締めたのだった。

 

 静かであった。先刻までの恐怖は微塵もなく、ただ薄絹を重ねたような奇妙な幸福感が、私の胸を満たしていた。

 

 死とは本来、こんなにも静かなものなのだろうか。

 

 天井が明滅するように輝いて、視界を真っ白に染めると、私の意識はいつしか遠退いて行った。                     


                (続く)


 

 

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