最終話 百年の孤独
翌朝、私は不忍池で溺れかけているところを通行人に発見され、救急車で都内の病院へと搬送された。
完全に意識を失っていたが、あとで聞いた話によると、群生する蓮の葉に上体を支えられるようにして、池の水面に浮いていたらしい。
低体温症に加え肺炎を起こし掛けていた私は、そのまま二週間ほどの入院を要した。入院の手続きや下着の替えの準備などは、新宿に住んでいる弟に連絡を取って貰い、全てをお願いすることにした。
警察も弟も、なぜ私が不忍池で溺れかけていたのかを詳しく知りたがった。彼らが自殺未遂を疑っているのは明白であった。
何と答えたものか、私は返答に窮した。自分が経験したありのままを伝えても、とても信じては貰えまい。それどころか下手をすれば、精神鑑定を受ける羽目になるかも知れなかった。
結局、一時的な記憶喪失ということで、私が池で溺れた原因は有耶無耶になった。
入院中ふと気付くと、私の右手の親指の付け根にあったはずの
病院を退院したその日、私はそのまま不忍池へと向かった。
自分が浮いていたとされる場所まで来てみたが、色褪せた蓮の葉が池の面を覆い尽くして、ただ寂しい冬枯れの景色が広がるばかりであった。
私はそれから電車に乗り、荒川区にある浄閑寺へと向かった。
江戸時代に建てられたという瓦屋根の山門を潜ると、目の前に立派な本堂が建っている。
その境内の墓所の一角に、新吉原総霊塔はあった。この地に葬られた吉原の遊女たちを、供養するために建立されたものである。
平日の昼間ということもあってか、境内に人の姿はなく、穏やかな静けさが辺りを満たしていた。
紫梗もまた、ここへ葬られたのだという。
総霊塔の前に立ち、私は瞑目して手を合わせた。
紫梗の冥福を祈り、ただ一心に詫びた。むろん答えなどあるはずもなく、ひっそりとした沈黙が返って来るばかりである。
やがて顔を上げると、晴れ渡った十二月の青空から射し込む柔らかな光が、色褪せた塔を優しく包み込むように照らしていた。
後ろ髪を引かれる思いで浄閑寺を後にし、それから私は歩いて台東区にある吉原跡地へと向かった。
そこは二週間前に訪れたときと同じく雑然とした灰色の街で、往時を偲ぶ何ものも存在しない。
それでも私はゆっくりと、かつての仲之町通りを歩き、明治大正期の吉原の地図を頼りに、夭綺楼があったとされる場所でしばし佇んだ。
紫梗は何故、私を連れて行かなかったのだろう。
結局、私は赦されたのであろうか。答えのない疑問を抱えたまま、私は吉原大門のあった方角へと歩き出した。
やがて大門跡を示す、鉄錆色の柱の前で立ち止まった。「見返り柳」が、さらさらと微かな音を立てて揺れている。
かつて吉原を訪れた客たちは、この柳の下に佇んで、名残り惜しく一夜の夢を振り返ったと伝えられる。
柳の下で、私は振り返った。
すると道の向こうに、ふと陽炎のような人影が立っているのに気付いた。
───花魁であった。
真っ赤な襦袢に桔梗の紋様の入った紫の打掛を羽織り、艶やかな黒髪を島田に結って、狐にも似た白い細面の顔が、口元に微笑を湛えつつも、何か物言いたげにこちらを見つめている。
その名を呼ぼうとして、ふいに北風が吹いた。
私は身を竦め、凍えるような寒気の襲来に耐えた。そして風が通り過ぎるのを待ち、再び身を起こす。
しかし、道の向こうに確かに現れたはずの花魁の姿は、北風に攫われてしまったかの如く、そのときにはもう
紫梗はもういないのだ。そうはっきりと感じられた。
そしてお前はこの地上に、今度こそたった独りで取り残されてしまったのだと、何者かに耳元でそっと告げられたような気がした。
因果の糸は解けた。もはや結ばれることはあるまい。
───百年の恋を、私は喪ったのだと思った。
(完)
吉原奇譚 ~百年の孤独~ 月浦影ノ介 @tukinokage
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