吉原奇譚 ~百年の孤独~

月浦影ノ介

第一話 ある無名作家と遊女の死




 大正時代の作家に、松村幻偲郎まつむらげんしろうという人がいた。

 

 現在いまでは忘れられた作家である。主に怪談や奇談、幻想小説などを手掛け、八編の短編小説を残しているが、ごく一部に愛読者を得ただけで、文壇の評価はあまりかんばしくなかったようである。

 

 大正十三年(一九二四)の師走、吉原の遊女と情死事件を起こし、一人だけ生き残った。

 その後、精神を病んで癲狂院てんきょういんに入れられたが、正気を取り戻すことなく翌年の秋に狂死した。享年二十三歳の若さである。


 私が彼を知ったのは、つい最近の事であった。

 大正時代を舞台にした小説を書くため、その頃の世相を調べようと、図書館でアーカイブ化された当時の新聞を閲覧していると、ある小さな記事が目に付いた。それが松村幻偲郎と吉原の遊女の情死事件であった。

 

 大正十三年十二月十一日の深夜、二人は互いの手首を縄で硬く縛り付け、東京は上野にある不忍池しのばずのいけに身を投げたが、女が死んで男が助かった。

 死んだ遊女の名は「紫梗しきょう、十九歳」とある。

 

 記事にはたったそれだけの事実が淡々と記されていた。翌日や翌々日の新聞も調べたが、特に続報もないようである。

 

 大正十二年に起きた、作家の有島武郎ありしまたけおと、人妻で「婦人公論」の記者だった波多野秋子はたのあきこによる情死事件は大々的に報じられたが、無名作家と遊女の情死に対する当時のマスコミの関心は極めて低かったのであろう。

 大正期は自由恋愛の観念が社会的に広まった結果、それが伝統的な家同士の繋がりによる婚姻の価値観と衝突を起こし、その狭間で情死や心中が相次いだ時代でもある。

 松村幻偲郎と紫梗の情死もまた、そんな時代の波間に呑み込まれ、ひっそりと消えて行ったに違いない。


 たったそれだけの記事に、私は何故か心惹かれるものを感じた。

 この情死事件を怪談仕立ての小説に出来ないだろうか。ふとそんなことを思い立ち、とりあえずは松村幻偲郎の名前で検索を掛けてみた。が、結果として大した情報は得られなかった。

 

 ただ、明治大正期の無名作家の短編を集めたアンソロジーが刊行されており、その中に松村幻偲郎の作品が一編だけ収められていた。生い立ちや略歴についても、巻末の解説で多少詳しく知ることが出来た。

 後はいくらネット検索を掛けても、それ以上の手掛かりを得ることは出来なかった。情死相手の遊女、紫梗に関しては影も形もない有り様である。

 結局、私はそれ以上の追求を諦めざるを得なかった。


 

 それから二週間後の土曜日、私は上野駅に降り立った。新型感染症の影響もあって、東京を訪れたのは数年ぶりである。

 上京の目的は、現在は台東区千束たいとうくせんぞく四丁目付近にある新吉原跡地と、上野の不忍池を訪れることだった。

 例の松村幻偲郎と吉原の遊女紫梗の情死事件を、小説に書くための現地取材である。

 

 私は小説の舞台が実在する場所で、なおかつ一泊以内で行ける所なら、なるべく現地を訪れるようにしている。現場の風景や空気に触れることで、作品にリアルな質感を得られるのではないかという期待によるものだが、結果はどうであれ、それで創作意欲が大いに刺激されるのは事実であった。


 私は北関東のとある小さな町で自営業を生業とする傍ら、アマチュア作家として小説投稿サイトに十数編の短編小説を発表している。怪談や奇談、幻想小説などが主な作風だが、僅かながら読者もそれなりに獲得していた。

 現在、大正時代を舞台にした幻想小説を執筆中だったが、それを一旦中断して、この情死事件に取材した話を先に書いてしまおうと思った。

 何故そうしようと思ったのか自分でもよく分からない。が、何か切実な思いに突き動かされるようにして、私はとうとう東京まで足を運ぶ羽目になったのだった。


 まずは地下鉄銀座線に乗り換えて浅草駅で下車する。スカイツリーの威容を右手に眺めながら浅草寺せんそうじにお参りし、それからかつての山谷掘さんやぼりを歩いて吉原跡地を目指した。江戸時代にはこの山谷掘を日本堤沿いに舟で遡って、吉原まで通うのが風流で粋であったという。


 「廻れば大門おおもんの見返り柳いと長けれど、お歯ぐろどぶ燈火ともしびうつる三階の騒ぎも手に取るごとく、明けくれなしの車の行き来には知られぬ全盛をうらないて、大音寺前だいおんじまえと名は仏くさけれど、さりとは陽気の町と住みたる人の申しき」


 かつて樋口一葉の『たけくらべ』にそう書かれた吉原の風情は、もはやどこにも存在しない。

 「よし原大門」と大書きされた鉄錆色の柱の傍らに立つと、帰りの客がその下で名残り惜しく吉原の町を振り返ったとされる「見返り柳」が、さらさらと風に流れた。

 

 吉原大門は、江戸時代には太い角柱を渡した渋黒塗りの冠木門かぶきもんで、厳めしい金具の付いた両扉の堂々としたものだった。江戸見物に訪れた田舎の人が大名屋敷と間違えたという逸話があり、「江戸見物は大門でどなたさま」と川柳に詠まれている。

 しかし明治十四年一月には、当時の文明開化の風潮に応じて、アーチ型の洋風モダンな鉄門に取り替えられた。

 二つの柱の間に高く弧形の桜散らしの横木を渡し、その上に竜宮の乙姫様がガス灯を捧げ持つデザインだったが、江戸情緒を懐かしむ人々からは「悪趣味のゲテモノ」と陰口を叩かれたという。

 その鉄門も明治四十四年の大火で鉄柱だけが残り、大正十二年の関東大震災で焼け爛れ、その後は裏門近くにある吉原病院の脇に放置されるままになった。

 なにやら吉原の歴史を象徴しているようで興味深い。

 

 現在、片側一車線の国道を挟んで両側の歩道に建つ柱は、その場所にかつて吉原大門があったことを示している。

 柱や見返り柳をスマホの写真に納めて振り返ると、私の目の前に広がるのは、コンクリートとアスファルトに塗り固められ、灰色に汚れたどこにでもあるような雑然として平凡な街並みであった。

 風俗店が多く、下品でけばけばしいネオンが辺りに輝き、その入り口付近で黒服姿の男たちが暇そうに立ち話をしている。

 

 かつては「一日三千両の不夜城」と呼ばれた吉原も、時代の変遷と共に衰退して行き、明治四十四年の大火と大正十二年の関東大震災によって、僅かの間に二度も壊滅状態となった。

 その痛手からなんとか復興したものの、今度は第二次大戦の東京大空襲によって全てが灰燼かいじんに帰してしまう。

 戦後はいわゆる「赤線」として法の抜け穴を通す形で営業が続けられたが、それも昭和三十三年の売春防止法により売春そのものが禁止され、吉原はその長い歴史についに終止符を打つことになったのである。


 吉原のメインストリートだった仲之町通りをぶらぶらと辺りを見回しながら歩き、住宅街の片隅にひっそりと佇む吉原神社で手を合わせ、それから吉原公園でしばしベンチに腰掛けて休んだ。

 特に見るべきものは何もない。当時の遊廓一つすら残ってはいないのだ。

 

 ここへ来る前に明治半ば頃の吉原の町並みを写した写真を見たが、二層、三層楼の日本式遊郭に混じって洋風の建物が散見され、ガス灯が建ち並んでいたのが時代の変化を感じさせた。大正時代になると写真には電信柱が登場し、電気が通っていたのが分かる。

 仲之町通りの中央には青竹で組んだ柵が設けられ、季節ごとに木が植え替えられたそうだが、特に桜の時期になると、それを見るために登楼客だけでなく大勢の観光客が押し寄せたという。

 

 大正三年、絶えて久しかった花魁道中おいらんどうちゅうが催され、それを記録した写真には、華やかな打掛うちかけに身を包んだ花魁が、禿かむろや新造、番頭らを引き連れて通りを練り歩く様が収められており、詰め掛けた見物人たちからはさぞや大きな歓声が挙がったろうと想像する。

 

 そしてその一方で、昭和初期頃に撮影されたという、東北から吉原に身売りされて来た少女たちの写真も思い出した。

 粗末な身なりにまだ幼さの抜けない顔をした彼女たちは、これから自分を待つ運命に何を思い、どのような人生を歩んだのだろうか。


 


 慶長十七年(一六一ニ)、遊女屋を経営していた庄司甚右衛門しょうじじんえもんなる人物が、同業者を代表して江戸幕府に遊廓の設置を願い出たことから、吉原の歴史は始まる。

 

 最初に遊廓の設置場所として決められたのが、日本橋葦屋にほんばしよしや(現在の日本橋人形町付近)の湿地帯であった。よしが茂る土地だったため当初は「葦原」と名付けられたが、葦は「あし」とも読め「悪し」に通じて縁起が悪いとされ、「吉原」に変更された。

 その後の明暦二年(一六五六)、幕府の命令によって場所替えをすることになり、翌年の明暦三年、浅草裏のだだっ広い田んぼの真ん中に一大遊廓が完成する。これを「新吉原」といい、日本橋の吉原を「元吉原」と呼んで区別している。

 現在、多くの小説や漫画、映画などの舞台として描かれているのは、この浅草裏の新吉原が大半である。


 吉原の敷地面積は約二万坪で、これは東京ドーム約一・五個分に相当するという。

 六つの町に区分けされ、その中に遊女だけでなく遊女屋の関係者や商人、職人、芸者など約一万人の人々が暮らしていた。

 周囲には黒板塀を張り巡らし、塀の外側を「お歯黒溝はぐろどぶ」と呼ばれる堀が取り囲んでいる。

 塀の各所には裏木戸があり、跳橋はねばしが掛けられて外に通じるようになっていたが、裏木戸は固く錠前が下ろされ、跳橋は店側に上げられて渡ることができない。

 唯一の出入り口は町の正面にある大門だが、ここには番屋が設けられ、遊女の逃亡を防ぐべく常に監視の目を光らせていた。

 

 最盛期には七千人以上いたとされる吉原の遊女だが、その一人一人は細かく格付けされており、中でも最上位である「呼出よびだし」、「昼三ちゅうさん」、「附廻つけまわし」を、まとめて「花魁」と呼んだ。押しも押されぬ吉原の稼ぎ頭である。

 呼び名の由来は、遊女見習いの禿が、自分が仕える遊女を指して「おいらの姉さま」と呼んだことから始まり、それが縮んで「おいらん」になったと伝えられる。

 

 花魁は容姿が優れているだけでなく、歌や踊り、書道、華道、茶道など一通りの教養を備えることが求められた。その相手も無論、裕福な大名や商人、文化人などである。そのため彼女たちはときに、大名の側室や大店おおだなの奥方、あるいはめかけとして身請けされることもあった。

 吉原を舞台にした小説や漫画、映画などでは、華やかなイメージからこの花魁にスポットが当たることが多い。しかしそれはあくまでごく一部の上澄みの話であって、そのほとんどは中級から下級の遊女である。


 店のランクは「大見世おおみせ」から順に「中見世ちゅうみせ」、「小見世こみせ」に格付けされており、そのうち小見世が吉原全体の約九割を占める。多くの庶民が通ったのは、比較的安価な小見世の方だ。

 この三つが吉原の主要な店だが、それより下層にはさらに「切見世きりみせ」がある。切見世は、お歯黒溝に沿った河岸かしに置かれたため、「河岸見世かしみせ」とも呼ばれ、まさに貧困と紙一重の世界であった。

 

 遊女になるのは概ね、貧しい地方から僅かな金で買われて来た少女たちである。

 営業は「昼見世」と「夜見世」の一日二回に分けられ、一年を通して碌に休みもなく客を取らされる。

 食事はごく質素で、ご飯一膳に野菜の煮物や漬け物程度。これは江戸時代の庶民ではごく一般的であったろうが、酷い所では腐りかけの食事が出されることもあったという。

 

 月の稼ぎのほとんどが楼主と借金返済に取られ、遊女の手元に残るのはたったの一割ほどである。その他にも衣装や諸々の経費は遊女の持ち出しになる。足りなければ借金をしてでも賄わなければならない。

 楼主から様々なノルマが課せられ、達成出来なければ罰金を取られる。その罰金が払えなければ、またもや借金による支払いを迫られる。そうして借金で雁字搦めにして、楼主は遊女たちの生き血を啜るが如く働かせていたのだった。

 

 「年季明け」といって借金が抜けるまで約十年。その間に金持ちの客が身請けでもしてくれれば良いが、そんな幸運な遊女は一握りである。

 年季が明けて故郷へ帰ろうにも「外聞が悪いから」と親族に拒絶され、他に行くところもなく、仕方なくまた遊女の世界に戻って来る者も多い。

 当然、病気のリスクもある。梅毒や淋病だけでなく結核などの感染病に罹患したり、過労で身体を壊して亡くなる遊女も大勢いた。


 死んだ遊女に葬式はない。身内が引き取りに来てくれれば良いが、身寄りのない遊女の亡骸は、三ノ輪の浄閑寺じょうかんじや日本橋堤の西方寺せいほうじなど、いわゆる「投げ込み寺」と呼ばれる近くの寺に運ばれ、小銭を添えて捨て置かれた。そうした寺の過去帳に依れば、死んだ遊女の多くはまだ二十代前半の若さであったという。

 

 江戸時代に建立された浄閑寺の山門を潜ると、境内の墓所の一角に「新吉原総霊塔」が建つ。ここに葬られた遊女は二千五百人にも及ぶという。塔には「生まれては苦界、死しては浄閑寺」という句が刻まれている。

 

 まだ朝靄の立ち込めるなか、遊女の亡骸が納められた樽桶が男衆に担がれ、裏口の不浄門からひっそりと出てゆく。見送る者もない淋しい出棺である。跳橋を渡り、竜泉寺横の田んぼの畦道を通って浄閑寺に運ばれ、人知れず冷たい土に葬られる。

 回向や供養もなく、過去帳に戒名が記されたのが唯一の救いであったと、ものの本には書かれていた。


 吉原とは極彩色の地獄であったろうと、私は思った。表向きは絢爛豪華けんらんごうかを装いつつも、その足元を支えるのは女たちの人柱である。

 そのような地獄から脱走しようとする者も後を絶たなかった。いわゆる「足抜け」である。しかし多くは連れ戻され、激しい折檻を受けた。中にはそのまま死んでしまう者も少なくなかった。それほど凄惨なリンチが行われたのである。これは他の遊女に対する見せしめの意味もあっただろう。

 

 明治五年(一八七二)、西欧諸国から人身売買に関する非難を浴びて娼妓解放令しょうぎかいほうれいが布告され、遊女が楼主の同意なしに自由意志で廃業することが可能になった。

 その際、廃業の意志を警察に出頭するか書面で届け出るのだが、警察が賃借関係を調べるという名目で楼主に連絡するため、結局は連れ戻されてしまい、実際に廃業するのは非常に困難であったという。


 ふと、幻偲郎と情死した遊女の紫梗は、どのようにして吉原を脱出したのだろうと思った。遊女が客と心中したり駆け落ちしたりしないよう、廓の内部では遣り手婆や雇い人などによる監視の目が厳しかったと聞く。

 その監視を潜り抜けてどのようにして逃れ得たのか。その手引きに松村幻偲郎もまた関与したはずだ。

 

 二人が情死の舞台に選んだ不忍池まで、ここから歩いて一時間ほどの距離である。そこまで路面電車やタクシーを用いたか、それとも人目を忍んで徒歩で向かったか。

 東へ向かえば隅田川が流れ、不忍池よりはよほど近い。それにしても、なぜ隅田川ではなかったのか。不忍池でなければならない理由があったのだろうか。


 江戸時代、近松門左衛門ちかまつもんざえもんの『曽根崎心中そねざきしんちゅう』や『心中天網島しんちゅうてんのあみしま』が評判となり、恋仲になった遊女と客の心中が相次いだと云われるが、逃れ得ぬ恋の道行きが死ぬより他なかったのは、なんとも胸の詰まるような思いがする。


 十二月の午後は日が傾くのが早い。頭上に射す陽光に翳りを感じ、私はベンチから立ち上がると、そのまま不忍池へと向かうことにした。


                (続く)


 

 

 

 

 

 

 



 

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