第180話紫式部日記の終了にあたって

紫式部日記の舞夢訳は、終了した。

目的は、「源氏物語を書いた、紫式部本人の感性、生きていた時代、生活を感じてみたい」だった。


実感として、


・紫式部独特の主語の略、長い文、言い回しの複雑さには苦労した。(かなり文を補わないと、意味が見えて来ない)


・衣装の色、素材の描写が多いけれど、現物を見られないので、想像するしかない。

※ただし、彼女たちの時代において、衣装の選択に失敗すると(禁忌にそむく、場を壊すと)、一家の存亡にも関係して来るので、紫式部は日記として(備忘録)としても、書くしかない。(それも、仕える道長家、中宮彰子の名誉となるように)


・かなり優秀な知識(漢文、日本の歴史)と判断力を持った、超一流の才人。

(それだから、中宮彰子の教育係の役目も期待されて、道長にスカウトされた)

(中宮定子と清少納言の中宮御所時代が高く評価されていたので、それに対抗する狙いも、当然あった)


・紫式部の父為時は、具平親王の旧僕(古くからの下僕)と自ら述べていおり、漢詩を通じて懇意な関係にあった。

尚、紫式部の夫宣孝も具平親王家の家司だったらしい。

その他、紫式部の従兄弟の養子が、具平親王の御落胤だった。

また、藤原道長は、長男頼道と、具平親王の娘隆姫女王との結婚を望んでいたことから、紫式部の影響力を期待していたのかもしれない。


・引っ込み思案、他人の、世間の目を、常に気にしていた。(女房の世界、公家世界は、悪い噂を好み、足を引っ張り合う社会であった)。それだから、決して自分から目立とうとは思っていなかった。


・清少納言に対する強い批判は、紫式部の嫉妬によるもの。

常に、中宮定子:清少納言の時代と比較され、「つまらない」と噂され、「評価」も下げられていたことへの「反発」もある。

※詳しくは、「紫式部日記」の第144話をお読みください。



以上が、主な実感。

「物語」に対す評価が低かった時代、紫式部が源氏物語を書き始めた理由は、よくわからなかった。(別に書かなくても、和歌も上手なので、彼女自身、困らなかったと思う)

ただ、書いてくれたことは、今になっては、ありがたい。

あれほどの深くて、面白みがあって、考えさせてくれる物語は、日本だけでなく世界の小説においても、稀有なのだから。

(道長が、紫式部の部屋に入って、勝手に完成品を持って行った・・・修正前が出回ってしまったとか、藤原定家が勝手に文を加減している、との説は、不明確で検証できないので、考えない)



・最後に、未熟な訳を、長きに渡り、お読みいただき、本当にありがとうございました。




※次の舞夢訳は、時代も場所も、異なります。

ご期待ください。

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紫式部日記  舞夢 @maimu

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