エピローグ
エピローグ はじめの一歩
背筋を伸ばしてまっすぐ立ち、呼吸を整える。
弓矢をゆっくり打ち起こし、左右へと引き分ける。
己の身体の境界を越え、どこまでも伸び行く十文字。余分な力は何もない。
ごく自然な流れで、矢が弓から離れる。
形が残る。心が残る。均衡を、保ち続ける。
「服部先輩、的中です!」
後輩の声。
見れば、僕の放った矢は的に
「ありがとう」
このところ、なかなか調子がいい。
部活の練習を終え、学校を後にすると、僕はある場所へと赴く。
名古屋市営地下鉄東山線、中村日赤駅を降りてすぐ。道すがら、病院直結の通路の途中にある売店で小さな花束を買う。
花の名前は全然知らない。ただ元気が出るようにと、オレンジや黄色など明るい色の花を選んだ。
病院の建物に入り、記憶している病室へと向かう。
エレベーター内の背面鏡で、身だしなみをチェックする。今日も、いつも通りの学ラン姿。髪に寝癖が付いていないか、首の角度をあれこれ変えて確かめる。
ふと花束を持った自分と目が合って、何となく照れてしまった。あまりにも柄じゃない。
そろそろ居た堪れなくなってきたころ、目的の階に到着した。
そうして、つい先日も訪れた病室の前へと足を運ぶ。
ネームプレートに並ぶ『
出迎えてくれたのは、品の良い中年女性だ。
「服部くん、いらっしゃい。茜、今日はまだ目を覚ましてないのよ」
茜ちゃんのお母さんだ。大きな瞳がよく似ている。
ここへ来るのは、今日で二度目になる。
最初の面会の時は、看護師さんに事情を話して茜ちゃんの親御さんへ伝言してもらった。「子供のころ仲良くなった友達が、まだ入院していることを知ったので、ぜひお見舞いしたい」と。
お母さんには、「茜ちゃんの生霊と会って、身体が眠ったままの状態であることを知った」とだけ説明した。そんな突拍子もない話でも、ある程度は信じてもらえるはずだという確信が僕にはあった。
茜ちゃんは僕の異常な感覚をわずかたりとも否定しなかった。彼女自身も否定されずに育ったからだろうと思ったのだ。
着ているだけで身分を証明できる制服は、つくづく便利だ。樹神先生の言葉を借りれば『天下のT高生』。そのおかげもあってか、自己紹介の時点からさほど怪しまれずに済んだのだった。
「まさか茜のことを知ってるお友達がいたなんて、未だに信じられないわ」
お母さんがしみじみ言いながら、僕の持ってきた花束を花瓶に飾ってくれた。それが茜ちゃんの枕元に置かれると、やっと人心地ついた。
明るい色の花が、白い病室に彩りを与えている。少なくとも僕がここへ来た意味はあったのだ。
清潔なシーツと同じくらい白い顔。長く伸びた黒髪。いくつものチューブが刺さった、痩せた腕。
七年前とほとんど印象に変わりのないまま、茜ちゃんはベッドに横たわっていた。
眠っているのなら仕方ない。そう思った矢先、閉じられていた瞼が音もなく開かれて、僕はどきりとした。
「あら、茜、起きたの? ちょうど服部くん見えてるわよ。きっと何か分かるのね」
この七年間、寝たきりだった茜ちゃんは、時々意識が戻ることもあったらしいのだけれど、ずっと朦朧としていたのだという。
はっきり目覚めたのは、三月七日——僕たちが『狭間の世界』で再会した日の、夕方だったそうだ。
その日時が合致したのが、信用を得る決定打だった。親御さんにしてみたら、僕が奇跡を運んできたように見えているのかもしれない。
「じゃあ、ごゆっくりね」
お母さんが気を利かせて部屋を出ていった。
二人きりの病室。点滴の落ちる音まで聞こえてきそうだ。
「茜ちゃん、こんにちは」
僕の言葉に応えて、かさついた唇がぱくぱく動く。まだ声が上手く出せないらしい。だけど視線はしっかり合う。
——来てくれてありがとう。
たぶん、そう言っている。
「今日は終業式だったんだ。明日から春休みだよ」
高校のこと、叔父の家に住んでいること、特殊な探偵事務所の助手をしていること。
前回あまり話せなかった分、まずは僕の近況を報告した。
相槌を打てなくとも、茜ちゃんの目はきらきら輝いている。
七年前もそうだった。大したこともない僕の日常は、彼女にとっての非日常なのだ。
それに加え、茜ちゃんの好きそうな心霊現象や都市伝説のような事件のネタもたくさんある。その中から一つか二つずつ、来るたびに話して聞かせようと思っている。
空白だった時間を取り戻すことはできないけれど、僕たちは今ここから、はじめの一歩を踏み出せる。
「一週間後、また来るよ。約束しよう」
茜ちゃんが腕を持ち上げようとする。僕はその手を取り、小指と小指を絡める。
「指切りげんまん、嘘吐いたら針千本、飲ーます。指切った!」
そっと微笑みの気配。
地下鉄を乗り継いで、今度は事務所へと移動する。
見慣れた扉を開ければ、いつも通り洒落たスーツベスト姿の先生が迎えてくれる。
「やぁ、服部少年。病院は行ってこれた?」
「はい、おかげさまで」
リュックを下ろして幾許もしないうち、今度は
「
水色の地に淡いピンクの花柄の着物と、白っぽい帯。衿元にはレースが覗く。若々しく、辺りがぱっと華やぐような装いだ。
「百花さん、今日はすごく可愛らしいですね」
「うふ、ありがと。……なんか、あんたの先生に似てきた?」
「えっ……やめてください、本当にそう思ったから言っただけですよ」
「うん、そういう言い方もそっくり」
心外すぎる。
一方の先生も微妙な表情をしている。
「えー……何それ、俺が口先ばっかの男みたいに」
「違うの?」
「俺は真実しか口にしない主義なんだ」
それが概ね本当だということはもちろん知っているけれど、何となく胡散臭く感じるのはなぜなのか。僕も気を付けよう。
百花さんがその場でくるりと一回転した。
「今日のはタヱちゃんチョイスなんだわ」
「へぇ、いいですね。何か変わった気配があると思ったら、タヱさんおるんですか?」
「おるよー」
百花さんの肩の影から、すぅっとタヱさんが顔を覗かせる。この前とは違い、百花さんとお揃いの着物を着ていた。
「タヱちゃん、ここに来たかったんだよねぇ。おしゃれして」
『ちょっ、百花姐さんっ……』
へぇ、と先生が声を漏らす。
「タヱさんは意外と清楚な雰囲気が好みなんだな。可憐でいいと思う」
『えっ……』
真ん丸に目を見開いたタヱさんは、次の瞬間、キッと先生を睨み付けた。
『あっ、あんたにそんなん言われたって、何も嬉し
すごい勢いでそう捲し立てると、タヱさんはまた姿を消した。
しん、と静寂が訪れる。
今のはいったい何だったのか。
彼女の残していった甘やかでくすぐったい気が、辺りに漂っている。
これはもしや……
「絵に描いたようなツンデレですね」
「ねっ、可愛いでしょ。うふふ」
戸惑っているのは先生だけだ。
「え? 何それ? なんで?」
「先生、良かったですね。モテ期かもしれませんよ」
「いや、そりゃあタヱさんの気持ちは嬉しいし、彼女の見る目が確かなのもよく分かったが……どうしてこうなった?」
そこはピンと来ないのか。
百花さんが軽やかに笑う。
「タヱちゃんの中に、前の男への未練が少しだけ残っとったの。でも、おかげでそれも綺麗さっぱり消えたわ。やっぱ失恋には新しい恋だねぇ。良かったぁ」
「なんでそんな嬉しそうなの、百花さん……」
「いいことでしょ。ねぇ服部くん」
「はい、僕もそう思います」
過去の許せないことを許せずに苦悩するより、未来の明るさに目を向けた方がずっといい。
僕自身がそうであるように。
先生がぱんと手を叩く。
「さぁ、もうすぐ依頼人が来る。服部少年、コーヒーの準備を頼む」
「分かりました」
全自動コーヒーメーカーのミルで豆をゴリゴリ挽く。
抽出されるコーヒーの香ばしい匂いが鼻腔を掠め、背筋がぴんと伸びた。
来客を知らせるインターホンが鳴った。
先生が扉を開け、
「ようこそ、美しいお嬢さん。お待ちしておりました」
名古屋駅から名鉄あるいはJRで二駅。もしくは地下鉄東山線に乗り、栄で名城線左回りに乗り換えてから四駅。
金山総合駅の程近く、とある雑居ビルの二階に、小さな事務所がある。
看板は出しておらず、玄関扉の表側にレトロな風合いの小さな表札がかかっているだけ。
そこには、こんな飾り文字が並んでいる。
『樹神探偵事務所』
『樹神』と書いて『こだま』と読む。
密室殺人なんかとは縁がないけれど、この探偵事務所にはちょっと変わった依頼が持ち込まれる。
僕の名前は服部
ここで樹神先生の助手をしている、県内の私立高校に通う十七歳だ。
さて、これからご紹介するのは、いったいどんな怪異事件か——。
—共感応トワイライト 〜なごや幻影奇想ファイル〜・了—
共感応トワイライト 〜なごや幻影奇想ファイル〜 陽澄すずめ @cool_apple_moon
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます