4-10 茜空の下で
「
茜ちゃんは強張った表情で僕を見つめると、また俯いてしまった。「ごめんなさい」と呟く声だけが僕の耳に届く。
胸の奥がきゅうっと痛む。せっかく思い出せたのに。
茜ちゃんは、僕に罪悪感を抱いている。
座り込んだその姿が揺らいでいた。もう時間がない。
彼女の名前が分かったのだから、
だけど、先生は小さく唸る。
「これは……思った以上に魂の衰弱が激しい。俺の声音では魂ごと弾けるかもしれんな」
「あたしの香で多少の補強はしとるけど、
「そんな……じゃあ、どうしたらいいんですか」
「彼女自身が肉体に帰りたいと願うしかない。さっき君が見た思念の中に、何かヒントはなかったか?」
なぜ、茜ちゃんは魂のまま留まっているのか。記憶を探れば、彼女の感じた哀しみや絶望がありありと蘇ってくる。
その根底にあったのは、はたして何だったろうか。
「あっ……」
——どのみち一人なら、本体に戻ったってどうしようもない。
あの時、茜ちゃんを取り巻いていたのは重苦しい孤独感ばかりだった。まるで窒息するように、生への希望が潰えた。
「あの、分かった……と、思います、たぶん」
「そうか。じゃあ、君に任せる」
「え?」
「君が彼女の心を解放するんだ」
どくん、と。心臓が跳ねた。
「ぼ、僕が?」
そんなこと、僕にできるのか。
震える脚とは裏腹に、熱い何かが身体じゅうを駆け巡っていく。
もしかして、これが最後のチャンスなのではないだろうか、と。
「悔しいことに、俺の力は万能じゃない。俺一人なら、彼女のことを諦めるところだった。今ここに君がおってくれて良かった」
「先生……」
先生が、僕の正面に立つ。
「服部 朔」
その声に、異能が込められていたかどうかは分からない。
でも。
「これは君にしかできないことだ。俺は君を信じる。君ならば、ちゃんと伝えられる」
それは波紋のように
そうだ、僕には言わなきゃならないことがある。
僕は顔を伏せたままの茜ちゃんの側に膝をついた。
「ごめん、茜ちゃん。謝るのは僕の方だ。茜ちゃんのこと、ずっと忘れたまんまだった」
返事は、ない。
「あの時、僕を助けようとしてくれたんだよね。ありがとう」
頭が小さく横に振られた。
でも、僕が無事だったのは間違いなく茜ちゃんのおかげだ。
「ずっと自分の心に穴があったんだ。茜ちゃんとの約束が僕の支えだったのに、その記憶を失くしたから」
欠けたのが別の記憶だったら、こんなふうには感じなかったはずだ。
なぜならば。
「茜ちゃんは僕を肯定してくれた。だから僕は、生まれて初めて『生きよう』って思えたんだ。あの約束は僕にとって、生きる意味そのものだったんだよ」
「朔くん……」
茜ちゃんが顔を上げた。大きな瞳に僕が映っている。
届いた、と思った。
「もう二度と忘れない。茜ちゃんは、僕の……」
言葉は力を持つ。特別な能力がなくても、想いを伝えられる。
「僕の、大事な友達だから」
まっすぐの視線を、しっかりと受け止め合う。彼女の目の端に、じわじわ涙が盛り上がる。
スローモーションで滑り落ちる最初の一雫が、淡く澄んだ茜色の光を弾くのを、僕は夢みたいな心地で見ていた。
「
小指を差し出す。
そこへ控えめに絡んだ細い小指は、既に半分以上が透けていた。
「指切りげんまん」
僕の声に、茜ちゃんの声が重なる。まるで、二人で過ごした遠い日々のように。
「嘘吐いたら針千本、飲ーます」
あと少し、もう少しだけでいい。
どうか、どうか、間に合ってくれ。
自分には誰も助けられないなんて、二度と思わない。
助けるんだ。絶対に。
茜ちゃんは、この先も生きなきゃならない。
「指切った!」
小指が離れたその瞬間。
空気に溶け込むように、細かな粒子をきらきら瞬かせながら、茜ちゃんは消え去った。
残ったのは、僕の立てた小指だけ。
もう、わずかの気配すらない。
僕はその場にへたり込む。
「ま、間に合った……?」
ぽん、と労うように肩を叩かれた。
「あぁ、恐らくな。だが服部少年よ……」
先生は何やら眉根を寄せている。
「友達……友達とは……?」
「な、何ですか……」
「いや、いいんだ、君んらがそれでいいんならな、うん」
何となく含みのある言い方と視線。隠した口元がニヤついていることは、見なくても分かった。
僕はムッとする。人の真剣な想いを、この人は。
百花さんが、ふふ、と微笑む。
「大丈夫よ。あの子に付けた煙の残り香が、ちゃんと病室の方向に糸を引いとるわ。ねぇ、タヱちゃん」
水を向けられたタヱさんが、ぷいと顔を背ける。
「さぁ、どうだかねぇ。自分の目で確かめやいいんでない? 何にせよあたしゃ、まぁ関係
いかにもつまらなそうに言うと、すぅっと姿を隠してしまった。そのつむじ曲がりな態度こそ、答えを示しているような気もする。
心臓が、まだ熱い。
僕にもできることがあった。大切な人に手を差し伸べられた。
あの日、迷子の僕が辿り着いたのと同じ、何から何まで夕暮れ色に染まったこの小さな中庭で。
病院の建物を出て、人目につかないモニュメントの陰まで移動したところで、現世に戻った。
時刻は午後四時五十八分。面会時間は午後五時までなので、今から茜ちゃんの様子を見に行くのは無理だ。
「また日を改めりゃいいさ。きっと快方に向かっとるはずだ」
「うん、あたしもそう思うよ」
「そうですね」
張り詰め通しだった気持ちがわずかに緩む。
透き通る青空は陽が翳り始め、乾いた冷たい風が僕の思考に芯を入れた。
まだ、終わりじゃない。確かめるべきことが他にもある。
ゆったりした足取りで先へと進んでいくスーツの背中に、僕は声をかけた。
「樹神先生」
もしかしたら、先生は僕から呼び止められることを予想していたのかもしれない。そんな振り返り方だった。
「どうした、服部少年」
「訊きたいことがあります」
「何だ」
真正面から対峙する。僕よりずっと年上で、ずっと強くて、決して敵わない相手に。
深く息を吸い込み、意を決して口を開く。
「僕の記憶を消したのは、先生ですね」
それは疑問でも追及でもなく、単に事実を確認するための言葉だ。
先生の面差しは、一つも色を変えない。
「いつ気付いた?」
「先生の気が自分の身体を駆け巡った感覚と、先生が百花さんに術をかける様子を見たのとで、何となく。確信したのは、茜ちゃんの思念に触れてからです」
「そうか」
ただの相槌。それ以上でも以下でもない。
「どうして、って訊くのは、おかしいですかね」
「いや、君には知る権利がある。彼女の思念を読んだなら自覚したかもしれないが、あの時、君の魂は既にあちらへ引き摺り込まれかけていた。『狭間の世界』から連れ戻すためには、彼女への執着を断ち切る必要があった」
つまりは、茜ちゃんの願いを聞き届けたということだろう。でも。
「僕が訊きたいのは、どうして黙っとったのかってことです」
そこで初めて、先生の瞳が揺らいだ。
「この件に僕を参加させまいとしたのも、封じた記憶に関係することだって分かったからですよね。七年前の話が出た時点で、教えてくれても良かったのに」
「……そうだな」
やはり相槌だけ。返答は、ない。
「何か言ってくださいよ」
「いや、君の言う通りだ」
「じゃあ、どうして」
そっと自分の喉元に触れた先生は、いくらかの躊躇いの後、静かに言葉を続けた。
「俺の声の力は、使い方を誤ればただの凶器になってしまう。昔はよく、それで失敗したよ」
薄い唇が、自嘲気味に歪む。
「でも、どうせならこの力で誰かを助けたいと思った。自分が責任を負える範囲で、救うものとそうでないものに明確な線引きをした。だが時々自問する。これまでしてきた判断は、全部が全部、正しかったんだろうか、と」
異能を宿さない固い口調の声が、淡々と紡がれる。
こんな時でも、
覚悟と、迷いと、そして——
「助けるつもりで使った力が、逆に相手を傷付ける結果になってしまったんじゃないか、と。だとしたら責任を負うなんていう意識も、ただのエゴに過ぎないだろ」
どうしようもなく身に覚えのある、後悔の念。
僕よりずっと年上で、ずっと強くて、決して敵わないその人は。
「ただでさえ君から大切な記憶を奪ったんだ。それを元に戻すことで、君を二重に傷付けるかもしれない。誰かを切り捨てたおかげで生きてるなんて事実だ。元になんか、戻るはずもない。そうなればいよいよ、どうやって責任を取ればいいのかも分からない」
まるで痛みを堪えるような顔をして言った。
「……すまなかった」
しばらく、何の返事もできなかった。
正直、すんなり割り切れるかと問われると、答えは否だ。
それでも僕は、からからになった口を開いた。
「謝らんでください。困ります」
「あぁ、悪い。謝って済むことじゃないな」
「あの、そうじゃなくて……大丈夫ですから。何であれ、先生が僕を助けてくれたことに変わりはないですし。それに、気持ちと力のコントロールの仕方を教えてくれたの、先生ですよ。このくらい、もう自分でどうにかできます」
よもや罪滅ぼしだとは言わせない。これまでの何もかもを。
「僕は樹神先生の助手ですから」
薄い雲の切れ間から、澄んだ陽光が差し込む。晴れた空の下、誰の影も等しく伸びる。
爽やかな風が駆け抜けていく。わだかまりを払うように。
先生が、ふっと頬を緩めた。
「……ありがとう。じゃあ、これからもよろしくお願いするよ。これでも君のことは頼りにしてるんだ」
「知ってます。何回も聞きました」
「ははっ」
軽い笑み。いつもの屈託のない笑い方だった。
ふわりと、いい匂いが隣に来る。百花さんだ。
「樹神探偵事務所には服部くんが必要だと思うわ。皓志郎、霊に恨まれやすいしねぇ」
「え? そうなんですか?」
「ちょっと、百花さん……」
「昔っから亡霊に対して傍若無人すぎるんだわ。だもんで大抵、反感を買う」
「あー、言われてみると確かに。先生一人で悪霊を浄化しとるとこ、あんまり見たことないです」
「何その納得の仕方。やめてよ、傷付くでしょ……」
誰にでも得手不得手はあるものだ。先生であっても。
「良かったねぇ。服部くんがおれば、亡霊の感情も上手いこと受信できるよ。あんたら本当にいいコンビだわ」
思わず、先生と顔を見合わせる。
そうなのか。もしかしたら、本当に役に立てる日がいつか来るのか。
百花さんが、僕と先生の背中を同時に叩いた。
「よっし、一仕事終わったし、何か食べに行こ。あんだけ力使った後だで、お腹空いとるでしょ?」
「確かに腹減ったな。服部少年、何食べたい?」
とても信じられない。
自分が必要とされる場所があるということ。
素の自分でいてもいいということ。
「……じゃあ焼肉で」
「いきなり本気出すんか。まぁいいよ、好きなだけ食やぁ」
来た時とは比べものにならないほど明るい気持ちで、二人と同じ一歩を踏み出す。
暮れゆく空は、涙を溶かしたみたいな茜色に染まりつつあった。明日もきっと、いい天気に違いない。
—#4 指切り・了—
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