4-9 共感応トワイライト
「あたし、別にずぅっと憑依しとったわけで
タヱさんの話を、僕は呆然と聞いていた。
「もうすぐで丸七年だな。『七』は初七日や四十九日、七回忌など、死者に纏わる数字だ。例え肉体に血が通っていても、魂が離れた状態では生命力がどんどん枯渇していく。その最終期限が、七年ということか」
「そうそう。あの子、
あの子の意図を汲んで外へ出たタヱさんが、『念』を求めて好き勝手に動いた。それが真相だろう。
白いモヤを纏った生霊は、膝を抱えてじっと座っている。先生が拘束を解いても動かない。
その顔には、まだぽっかりと穴が空いていた。僕がちゃんと思い出せていないからだ。
「ねぇ、君は……」
言いかけて、口を噤む。未だ呼びかけ方すら分からなくて、愕然とする。
彼女は少しだけ僕の方を向くと、また俯いてしまった。
拒絶された気がした。
約束を破った僕に、腹を立てているのかもしれない。
彼女を助けたいと思う。
だけど芽衣さんの時のように、余計なことに踏み込んで傷付けたら。
そのせいで、弱った彼女の魂にとどめを刺してしまったら。
すなわちそれは、完全な死に直結するのではないか。
動けない。
不意に、彼女の気配が薄らぐ。
先生が緊迫した口調で言った。
「身体との繋がりが弱くなってきとるな。完全に断ち切れたら、二度と戻れんくなるぞ」
焦って心が千々に乱れる。
迷っている時間はもうない。
ただ突っ立っていても、どうせ結果が同じならば。
「せ、先生、もし、あの子の名前が分かったら、
「……あぁ」
心臓が痛いほど騒いでいる。
動け。動け。僕は何しにここへ来たんだ。
「い、今から、あの子の思念に触れます。そこにヒントがあるかもしれんから……」
「服部少年」
「え?」
いきなり背中を叩かれた。勢いよく肺から呼気が漏れる。
「ンがはッ……な、何するんですか!」
「力みすぎだ。肩の力を抜け」
先生が僕の真正面に立った。
「さっきはみっともないところを見せて悪かった。君は自分で思うより、ずっと成長しとるな。だから大丈夫だ。やるべきことをやれ。最後は必ず俺が何とかしてやるから」
「先生……」
百花さんがふわりと笑う。
「そうそう、今日は三人でここに来とるんだでね。あたしも香でサポートするわ」
「はい……ありがとうございます」
そうだ、僕は一人じゃない。誰よりも頼りになる二人と一緒だ。
僕ができることを、する。
「じゃあ、行ってきます」
僕は一つ深呼吸をして、彼女に向き合った。
用心深く回線を開き、わずかに流れる彼女の思念を探り当てれば——
——指切りげんまん、嘘吐いたら針千本、飲ーます。指切った!
男の子と、約束をしていた。
病院内の小さな中庭の、不思議な石碑の近くで。
入院生活の長い私にとって、ここは外の空気に触れられる数少ない場所だった。
「私、来週もここで待ってるから」
「分かった、また来るよ」
週に一回おばあちゃんのお見舞いで病院に来る
「あの石碑って、神さまみたいなものなのかな? 見とると気持ちが楽になるよ」
「ほんと? 私もそう思ってたの」
そんな話ができるのが嬉しかった。
優しい子だった。外の世界をよく知らず、面白い話なんて何一つできない私に会いに来てくれる。
その時間がとても楽しみだった。おかげで、辛い治療も頑張れた。
ある日、朔くんは学校の図書室で借りた本の話をしてくれた。『死』に興味津々の三人の男の子たちが、近所のおじいさんと交流する物語だ。最後はおじいさんが寿命で死んでしまうらしい。
「仲良くなってから別れるのは哀しいね」
私が感想を伝えると、朔くんはハッとしたように「ごめん」と言ってきた。
どうして謝るのか。少し考えて、何となく分かった。たぶん、病気の私にはきつい話だと思ったんだろう。
正直、自分が『死』に近いところにいるなんて、思ってもいなかった。
毎週ここで朔くんと会う日々がずっと続いていくものだと、理由もなく信じていた。
だから私は深く考えることもなく、手術のことを伝えた。
「手術してから十日くらいで動けるようになるって先生に言われたの。再来週、また会える?」
「もちろん! 絶対来るよ。早く元気になるといいね」
そうして私たちは約束をした。
——指切りげんまん、嘘吐いたら針千本、飲ーます。指切った!
手術が終わって最初に目覚めた時、驚いた。
なぜか私は天井近くの高い位置にいて、ベッドに横たわった自分を見下ろしていたのだから。
「いつ目を覚ましてもおかしくない状態なんですが……」
主治医の先生がお父さんとお母さんにそう説明するのを聞いた。
宙に浮かんだ私の姿は、誰にも見えないみたいだった。
カレンダーは、朔くんとの約束の日を示していた。
私は病室を出て中庭へ向かった。
不安な気持ちのまま、いつものベンチで待つ。小さな四角い空から、太陽の光が注いでいた。だけど、私の足元に影はない。
私、本当に幽霊みたいな状態なんだ。
これからどうなるのか、生き返ることはできるのか。何も分からなかった。
もしかして、霊感のある朔くんなら私のことに気付いてくれるかもしれない。
不安な気持ちは、小さな希望に変わった。
だけど。
朔くんは、来なかった。
一時間待っても、二時間待っても、朔くんは姿を見せなかった。
ショックだった。
どうして、今日に限って。
思わず朔くんを責めた。
……約束を破ったのは、私も同じなのに。
病院の中をうろうろして、朔くんのおばあちゃんが少し前に退院したことを知った。
だから、朔くんはもう来ない。
仕方ないことだと思おうとした。私だって、あれから目を覚ませていないんだから。
きちんとしたお別れもできずに、二度と会えなくなるなんて。
——仲良くなってから別れるのは哀しいね。
こんなことなら、初めから仲良くならなきゃ良かった。
私はしょんぼりしたまま、それでも中庭に通うのをやめなかった。
もしかしたらと期待して、そのたび何度でも打ちのめされて。馬鹿みたいだった。
朔くんに会いに行けたらいいのに。
——地下鉄だと、お天気関係なく移動できるから便利ね。
ここへは地下鉄で来ていると言っていた。
地下鉄に乗って行ったら会えるのかな。でも、どこに住んでいるんだろう。全然知らない。
今の私はお天気どころか、壁も床も関係なくすり抜けて、どこにでも移動できてしまう。便利だけど、そういうことじゃない。
自由に動きたかった。だけど、こんなの嫌だ。自分が人間じゃなくなったみたい。
私は朔くんと同じように、元気になりたかっただけなのに。
時々、自分の身体に帰ってみた。ほんの少し意識を取り戻せても、完全には馴染めなかった。
魂だけでふらふらする時間が増えていく。
「指切りげんまん、嘘吐いたら針千本、飲ーます」
一人で歌っても、虚しいだけだ。
どのみち一人なら、本体に戻ったってどうしようもない。
ある時、声をかけられた。
「あんた、誰か待っとんの?」
着物の女の人だった。どうやら本物の幽霊らしい。
事情を話すと、その人は頭を撫でてくれた。
「可哀想にねぇ。よぅ分かるわぁ」
幽霊となら、喋ることも触ることもできるみたいだった。
その人は『
ある時、誰かが中庭へやってきた。
朔くんだった。
気付けば、私は口ずさんでいた。
——指切りげんまん、嘘吐いたら針千本、飲ーます。
朔くんが、こちらを振り返る。
——指切った!
その途端、世界が真っ赤に塗り替えられた。
「この世とあの世の合間にある『狭間の世界』だわ。これで、あの子とも喋れるでね」
銀杏さんが教えてくれた通り、私と朔くんは無事に再会できた。
「約束、守れなくてごめん」
朔くんはそう言った。
そんなの、全然良かった。夢みたいに嬉しい。
楽しくお喋りして、笑い合う。もう一度こんな時間を過ごせるなんて。
幽霊みたいな身体でも、朔くんが遊びに来てくれるのなら、一生このままだっていい。
だから、今日も指切りの約束を。
そう思っていたのに。
「ねぇ、ずっとここにいて。帰らないで」
聞いたこともない甘ったるい声が、自分の口から出て驚いた。
知らないうちに銀杏さんが私の中に入って、勝手に喋っていたんだ。
「えっ……? うぅっ……」
朔くんは頭を抱えながら、顔をしかめた。だんだんと呼吸も荒くなってくる。
『朔くん、体調悪そう。早く休ませてあげた方がいいよ。一人で帰れるかなぁ』
『何言っとりゃぁすの。この子がこっち来りゃあ、離れずに済むんだに?』
『えっ、どういうこと?』
『そりゃあ、あたしんらの仲間になるってことだわ』
それって、つまり。
『朔くんも、幽霊になるってこと?』
『そう。ほんならずぅっと楽しいがね。見たとこ、この子もえろぅ悩んどるみてゃぁだに。こっちにおった方が幸せだわ』
朔くんと、ずっと一緒に。それを考えると、甘く胸が騒いだ。
私はいつ自分の身体にちゃんと戻れるか分からない。
朔くんだって、次はいつ来られるのか分からない。
もし、朔くんがこっちに来てくれたら。この先も私の隣にいてくれるなら。
なんて素敵なんだろう。そんなに嬉しいことはない。
「ねぇ、お願い。私と一緒にいましょ?」
「うぅ……」
朔くんは更に呻いて、とうとう倒れてしまった。見て分かるくらいにガタガタと震えている。
『あらぁ、この子どえりゃぁ敏感だがね。この分だとすぐだわぁ』
私はハッとする。
『死』という言葉が頭に浮かんだ。
『朔くん!』
叫んだつもりだったのに、声が出ない。
朔くんは、すごく苦しそうだ。
すぅっと背筋が冷えた。
人が死んでしまう物語の話をして、「ごめん」と謝ってくれた朔くん。
私が手術をすると伝えたら、「早く元気になるといいね」と言ってくれた朔くん。
優しい優しい朔くん。私に向けてくれた笑顔が、浮かんでは消える。
私は大馬鹿だ。
朔くんを、死なせるわけにはいかない。
朔くん! 朔くん!
お願い、起きて。ここから逃げて!
朔くんはもう、ぐったりして動かなくなっていた。
そんな。私のせいだ。私と、あんな約束をしたから。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
あぁ、こんなことなら本当に、初めから仲良くならなきゃ良かったんだ。
ふと、石碑が目に留まる。
神さま、神さま、どうかお願いです。まだ間に合うのなら、朔くんを元の世界に戻してあげてください。
私のことなんて忘れていいから。綺麗さっぱり忘れていいから。
朔くんを助けてください。この先も生きられるように。
神さま……!
願いが通じたのか、神さまが応えてくれた。
「開け」
涙が頬を伝う感覚で我に返る。
やっと思い出した。何もかも。
膝を抱えた君が、ゆっくりと顔を上げる。
今度はちゃんと見えた。間違いなく君だ。
七年前のあの日。
真っ赤に染まった世界を見て、こう思ったのだ。
あぁ、『茜色』だ。
あの子が、きっとどこかにいる、と。
なぜならば。
「茜ちゃん」
それが君の名前だからだ。
「
君が目を見開く。大きな瞳。その表情も懐かしい。
終わることのない黄昏の中、ようやく君の心に触れられた。
僕はもう迷わない。
「君を、助けに来た」
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