4-8 妙なる浄化
僕の目の前に現れた、車椅子の女の子。確かに記憶と合致する。かつて約束を交わした相手で間違いない。
一方で、こちらを挑発するような物言いには違和感があった。失くした記憶の残滓にすら、そんなイメージはない。
白いモヤと、黒いモヤ。
「二人、おるんですよね」
「ご名答。さっき
「僕、あの子の顔だけが見えんかったんです。知らん人だったからなんだ」
「娼妓の亡霊こそが全ての元凶だ。これまでにもいくつも魂を取り込んどるな。生霊とも完全に融合する前に分離しんと」
「生霊ってことは、あの子はまだ生きとるんですよね?」
「あぁ、そのはずだ。魂さえ戻れば
良かった。まだ希望はある。
「元はと言えば、俺が七年前に取り逃がした悪霊だ。今度は間違いなく始末する」
底冷えするような声色に、一瞬ぞくりとした。
いつも冷静な先生にしては珍しいなと思ったのは、きっと気のせいではなかった。
「
先生は膝をつき、片腕で百花さんを抱え直す。
「すまんが、耳を塞いどってくれ」
「え?」
「彼女の本名、誰にも明かさん約束なんだ」
「あぁ、分かりました」
僕は言われた通り両耳を覆った。
先生は大きな手で百花さんの
何となく見てはいけないような気がして、僕は目も逸らす。
数秒の後、百花さんの身じろぎする気配があった。
「ん……
「おはよ」
「……状況は?」
「『狭間』に戻った。霊は捕縛中」
「そ。手間かけたわ」
「何、お互いさまだよ」
視線を交わし合ったのは一瞬。
百花さんはさっと立ち上がり、着物の埃を払った。どことなく気怠げな
「良かったぁ、服部くん、無事だったんだねぇ」
「はい、おかげさまで」
そして敵に向き直り、懐から
「さて、境界線はちゃんと引かんとね」
しなやかな身体が、匂い立つような気を纏っていた。
百花さんは相手へ歩み寄りつつ、指先で髪を梳く。嗅いだ者の感覚を開く百合の花に似た芳香が、ぱぁっと拡がる。
火皿へと、新たな粉が落とされる。
百花さんは深く一口を吸い込み、きゅっと窄めた唇から煙を細く長く吐き出す。
捕縛されたままの霊は、たちまち桃色の煙に覆われた。
「ひっ……」
百花さんが煙管の先でくるりと円を描く。煙の端がそこに絡み、相手を結わえる綱となる。
「せぇの!」
スナップを効かせた手首。煙の綱に繋がれた霊が、軽々と宙を舞う。少女の形をした白いモヤをその場に残して。
亡霊が地に叩き付けられると、桃色の煙は霧散した。現れたのは、黒いモヤの塊だ。
先生の
「正体を現せ」
「ひぎっ……」
黒いモヤは、見る間に形を変えていく。
徐々に姿を現したのは、着物の女の人だ。漫画や映画などに登場する『花魁』とは違って、かなり地味に思える。美人と言えなくもないけれど、ちょっと顔立ちがきつい。
「強制捕縛」
ぎゃァ、とカエルが潰れたような悲鳴。遊女の霊は後ろ手に拘束された格好で、地に転がった。
百花さんが一歩近づく。
「あの生霊の子とだいぶ歳が離れとってくれたもんで、助かったわ」
「……何ィ、あんたの方が、婆ァでしょぉ……」
「いや、あのねぇ、煙で引っかけやすかったって話よ。妙齢の女の霊に吸い付きやすい香だもんでね」
事実、白いモヤの方はその場に留まったまま動く気配もない。
先生が亡霊を見下ろした。
「お前はなぜこんなことをした?」
「……話す、ことなんか……」
「質問に答えろ」
彼女は呻く。
「強い、力が、欲しかった……」
「生霊ならば現世に干渉しやすい。その性質を利用して、あちこちの場を乱したんだな」
女の震える唇に、引き攣った笑みが浮かぶ。
「あの
僕たちの交わした『指切り』。元々は遊女の風習が由来ではなかったか。
歌は呪文だ。意図せずとも、言葉が縁ある怪を呼ぶ。
僕が約束を破ったことであの子の中に生まれた闇が、この亡霊の持つ闇を引き寄せてしまったのだろう。
女が振り絞るように邪気を吐いた。
「お前ッ……お前んたァみんなッ……引き摺り込んだるわァッ!」
たちまち『念』が膨れ上がる。
——憎い、憎い、憎い憎い憎い……!
いくつもの声が重なって不協和音を奏でる。にわかには数えきれないほどの恨み辛みが、津波のように押し寄せてくる。
先生が懐中時計型スマートウォッチを突き付けた。
「真名を示せ!」
異能の乗った声音が、気の
『念』の膨張がぴたりと止まった。遊女の霊は再び動きを縛られ、か細い呼気を漏らす。
「……ぎ……
「それは源氏名だろう。幽世でお前のことを聞いた。実家は
「ぐっ……」
「本名を言え。親からもらった名だ」
「そ、そんなもん……とうに捨てた……」
「訊かれたことだけ答えろ。真名を示せと言っている」
彼女の顔が悲壮に歪んだ。窒息しそうな喉の奥から、切れ切れに
「た……
先生が、冷淡に告げる。
「丹菊 タヱ。全ての罪を識れ」
途端、停滞していた『念』という『念』が、猛烈な勢いで彼女の身体へと逆流し始めた。
——憎い、憎い、憎い憎い憎いお前が憎い……!
「ぁ……ッ!」
声にならない悲鳴が上がる。これまで彼女が喰った魂たちが、今度は彼女に怨恨の刃を向けているのだ。
「自分がどれだけの魂を踏み
地を這うような先生の声。
先ほど回線が繋がっていたので、何となく分かった。
先生は怒っている。相手が僕や百花さんに手出ししたから。
だけど伝わってくる怒気は、不相応に大きすぎる。やはり何かおかしい。
彼女は壮絶な表情で、痙攣するように悶え転げている。どれほどの苦しさか想像にも及ばないけれど、波紋を作る『念』の圧がその凄まじさを物語っていた。
やがて嵐は収束した。後に残ったのは、『念』に侵食されて今にも掻き消えそうな魂を宿した遊女の姿だ。
げっそり
「……な、なんで、あたしばっか……いっつも、いっつも……もう、やだ……」
「今さら被害者ぶるな。その雑念ごと、跡形もなく消し去ってやるよ」
先生の発する気が一段と膨れ上がり、既に身動きできない彼女の魂へ更なる干渉を与える。
「せ、先生……」
知らず知らず、僕は呼びかけていた。
駄目だ、と思った。
「先生!」
先生が鋭い目で僕を見た。張り詰めた気が、ぴりりと肌に触れる。
初めて先生を怖いと感じた。
先生があの人を一方的に叩き潰すところを、見たくなかった。
そんなこと、してほしくなかった。
「そ、それ以上は、やりすぎです」
「服部少年……」
百花さんが先生の腕を引き寄せ、うなじに息を吹きかける。
「皓志郎、しっかりしやぁ。服部くんの言う通りだわ。邪気に当てられとるに?
「いや、俺は……」
先生は言いかけて口を噤み、眉間を揉み解す。凶器のようだった情動が、すぅっと鎮まっていく。
「……そうだな、悪い。助かった」
「お互いさまよ」
百花さんは先生の背中をぽんぽんと叩くと、流れるような動作で着物の裾を整えて、遊女の傍らに膝をついた。
「あんたも、ちょっと落ち着きゃあよ」
そして煙管の火皿へ香を足し、ぷかぷかと吸い始める。僕には匂いすら感じない香だったけれど、亡霊の心が少し癒えたのが分かった。
「話、聞くわ。誰がそんなに憎いの?」
百花さんに問われた遊女は、虚ろな表情で独り言のように呟いた。
「あたしを、店に売っ払った、親……」
「うん、それから?」
「お店の、姐さんたぁや小娘んたぁ……みぃんな、あたしんこと臭い臭いって馬鹿にして……」
「あぁ、銀杏だから? ひっどいねぇ。別に臭いなんてしんのにね。後は?」
「……あの
ぽつりぽつりと、恨みごとが紡がれていく。
客の一人が自分を気に入ってくれたこと。身請けの約束をしてくれたこと。だけど、結局迎えに来なかったこと。
「みぃんな、地獄に堕ちりゃいい。だもんで、ぎょうさん『念』取り込んで、力つけたらきっと……」
「そっかぁ」
百花さんは、あくまでのんびりと言う。
「あんた、逃げたかったんだねぇ」
遊女の霊が、目を見開いた。
「……え?」
「あんたこそ、籠の中の鳥みたいなもんだわ。いくら逃げたくたって、どうやっても出れんもん。そんな辛いことないわ」
どうしようもなく弱い立場だった。だから、強い力を求めた。
「あんたを大事にしんかった奴らの呪い、あたしんらが解いたげる。あんたはもう誰にも、何にも囚われんでいい。あんたの大事な魂、これ以上自分で汚さんといてよ」
百花さんが先生に目配せする。
先生がもう一度、亡霊の目の前に立った。
「丹菊 タヱ。念を解放せよ」
先ほどとは比べようもない、澄んだ気が辺りに拡がる。
「うっ……うわぁぁん……」
彼女は顔をくしゃくしゃにして子供みたいに泣き始めた。その身体から、黒いモヤが立ち昇っていく。
輪郭を失った魂たち。百花さんが弔いの香を吹き添えれば、彼らの哀しみが解けていくのが分かった。
全ての『念』が浄化されると、彼女は幾分かさっぱりした表情になっていた。でも、亡霊として存在がくっきり残ったままだ。
「おや、まだ成仏しないとはな」
「……男のあんたに、何も言われた
「それは、失敬した」
「全部わやだわ。あたし、もう何も持っとらん。ロクでも
「どうしたもんかな……」
先生が眉根を寄せる一方、百花さんはのんびりした調子で言った。
「ねぇ、タヱちゃんって呼んでいい? あんた、あたしに取り憑いてみぃせん?」
「……は?」
「え?」
これには彼女——タヱさんばかりでなく、僕と先生も目を
「分かるかなぁ。あたしん中、別人の記憶があるんだわ。悲惨な死に方した江戸時代の娼婦のね。もう一人増えたとこで、そんな変わらんかなと思って」
百花さんはにこにこしながら、とんでもないことを言っている。
タヱさんが、ぐすんと洟をすすった。
「えー……あんたの男、底意地悪そうだでなぁ」
「ん? 男? ……あっ、ひょっとして
百花さんが先生を指す。先生は軽く肩をすくめる。
「いや、これはオトコっていうか……ただのハトコだから。大丈夫」
「ふぅん……」
「あたしね、好きな服着て、美味しいもんお腹いっぱい食べて、最終的に皺くちゃのババアになるまで楽しく生きる予定なんだけど。どう? タヱちゃん」
柔らかな声が、わずかに強さを増す。
「人生、悪いことばっかじゃない。だけど良いことばっかでもない。みんな必死だよ。あんたが傷付けた人たちもね。いくらでも付き合ったるわ。あんたが生まれ変わりたいと思えるまで」
しばらく不機嫌そうな顔をしていたタヱさんは、大袈裟な溜め息とともにもごもごと呟いた。
「……考えとくわ」
伝わってきたのは、どことなくむず痒いような感情の揺れだけだった。
黙っていた先生が、口を開く。
「あぁ、そうだ。タヱさんに少々訊きたいことがある」
「あんたにそう呼ばれる筋合い
気まずげな咳払い一つ。
「……失礼、お嬢さん」
「何ィ?」
「お嬢さんがあの少女の生霊に乗り移ったのは七年前だろう。それがなぜ最近になって急に、外へ出始めた?」
言われてみれば、確かにそうだ。
「あぁ、それはね」
タヱさんが、すぅっと目を細める。人差し指の向いた先は、白いモヤを纏った——僕の初恋の女の子の、生霊だ。
そして、耳を疑う事実が告げられる。
「あの子の肉体、まぁすぐ死んでまうでよ」
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