4-7 闇を振り払え
——指切りげんまん、嘘吐いたら針千本、飲ーます。指切った!
絡めた小指のくすぐったさを覚えている。あの時の甘い気持ちも。
今にして思えば、きっと初恋だったのだろう。幼すぎて、それが恋とは知らなかったけれど。
「誰って、思い出してくれたんじゃなかったの? そんなこと言うなんてひどいよ」
哀しそうな表情をしているのだと、感覚的には分かる。だけど僕の目に彼女の顔は映らない。
「なんでだろ、どうやっても思い出せないんだ。君の顔も名前も」
病的に細い腕が、へたり込んだ僕へと伸ばされる。
「ねぇ、
指先が僕に触れる前に、電流のようなものがそれを阻んだ。
「あの男……厄介ね。まぁ、いいわ。そんな結界の効力なんて、そのうち消えるもの」
彼女は車椅子を転回させ、僕に背中を向けた。肩まで伸びた髪。後ろ姿には見覚えがあるのに。
僕から距離を取って振り返った顔のない彼女は、やけに甘ったるい声を出した。
「私ね、きっと朔くんを探してたのよ。どこでも行ける便利な身体になったから、地下鉄にも乗ってみたの」
「地下鉄?」
「だって朔くん、地下鉄に乗って来てたんでしょ? たくさんの人がいたわ。車両も駅も、真っ昼間でも薄暗くってひんやりして、澱んだ気が溜まりやすくていいわね。すごく快適だった」
——地下鉄だとお天気関係なく移動できるから便利ね。
—— 外が見えんで、つまらんよ。
—— でも、私も一回乗ってみたいなぁ。
言われてみると、そんな会話をした。
「教えてくれてありがとう。おかげでいい器もいくつか見つかったわ」
「器って……」
「さすがにこんな霊体じゃあ、できることに限りがあるもの」
「それで、地下鉄沿線上のあちこちで悪さしたんだな」
「やだ、悪さなんて。ちょっと負の感情を集めてただけよ。それで誰も死んだりなんてしてないでしょ?」
少しも悪びれない。それどころか楽しそうですらある。
「死なんけりゃいいってわけじゃ……器にされた芽衣さんは、すごく辛そうだった」
「石神神社の時の子ね。私のせいだって言いたいの?」
「君が
「そうじゃなくたって、あの子の心は元々病みかけてた。本人も知らないうちにね。むしろ早めに自覚できて良かったんじゃない? 私はその手伝いをしただけよ」
あんまりだ。芽衣さんがどれだけ苦しい思いをしたと思っているのか。言い知れない不快感が募っていく。
「駅裏通商店街の女の子の霊にも、接触した?」
「あぁ、『友達連れてきて』ってお願いしたわ。上手くいかなかったけど」
「
「
「危うく怪我人が出るとこだったんだ。妊婦さんが転んで、下手したらお腹の赤ちゃんも無事じゃ済まんかったかも」
「私がやったんじゃないわ」
「君があの子供の霊に入れ知恵したんだ。犯罪教唆とおんなじだ」
「でも結局は大丈夫だったんでしょ? ならいいじゃない」
まさか、こんな子だったなんて。あのころの印象と違いすぎて、心が理解を拒んでいる。
「なんで、そんなことを……」
「朔くんのせいだよ。約束したのに、来てくれないから。誰かの辛い気持ちや哀しい気持ちに触れていれば、不幸なのは私だけじゃないんだって思えたの」
理不尽だ、と思った。
しかし彼女の言葉は、的確に僕の精神を抉る。
「私がどれだけ淋しかったか分かる? どれだけ傷付いたか分かる?」
僕が約束を破ったのは、紛れもない事実なのだから。
「朔くんと会うことだけが私の楽しみだったのに。どうして来てくれなかったの?」
「それは……おばあちゃんが、退院したから……」
「そんなの、来ようと思えば来られたでしょ? 朔くんは私と違って自由に動けるんだから」
「でも」
「嘘吐き」
ぴしゃりと言われて、僕は口を噤んだ。
言い訳なんかできなかった。全くその通りだ。
彼女を励ましたかった。笑顔にしてあげたかった。希望でありたかった。
それを最悪の形で裏切った。
だから、僕のせいなのだ。彼女の魂が闇に堕ちてしまったのは。
「ひどいよ、朔くん。私、ずっと待ってたのに」
僕には誰も救えない。
「朔くんのせいだよ」
僕が悪い。
「ねぇ、償ってよ」
突き落とされたようなどん底。
独りきりだった。
真っ赤に染まった世界で、僕の周りにはもう誰もいない。
樹神先生。僕を危険な目に遭わせまいと、最後までこの調査への参加を反対していた。先生は正しかった。ちゃんと言うことを聞くべきだった。
僕のせいで、二人とも闇に呑み込まれた。
僕さえいなければ、こんなことにはならなかったのに。
——あんたなんか産んだのが間違いだったわ。
胸の奥から、どろどろした感情が溢れてくる。
なぜ、僕一人がのうのうとここに留まっているのか。
助けてもらえるような、守ってもらえるような価値のある人間じゃないのに。
何もかもの元凶。
僕のせいだ。
僕のせいだ……
償いをするのに、差し出せるものがない。それこそ自分の身くらいしか。
その時、僕の身体を覆う護りの力が、ぴりぴり揺れた。
彼女は
「結界が弱まってきたかしらね。術者の自我が消えれば、完全に解けると思うけど」
ふと違和感を覚える。手に握った懐中時計型スマートウォッチが、かすかに振動している。
『……っ!』
何かが聴こえた気がした。
僕はハッとする。
——必ず戻る! 耳を澄ませろ!
先生は、確かにそう言った。
彼女にバレないように項垂れたまま、スマートウォッチから流れてくる気に意識を向ける。
『……年!
先生の声を知覚する。それとなく彼女を窺ってみたけれど、気付いた様子はない。僕にしか聴こえないのだ。
感度を上げねば。
僕は目を閉じ、先ほどより神経を集中させる。
受け取りたい五感を選んで受け取る方法を、百花さんから教わっていた。
——周波数を合わせる感覚って言ったらいいんかな。相手と自分、ちょうど波形の合うところがどっかにある。信頼関係のある相手だったら、やりやすいと思うよ。
『……
「朔くんなら分かってくれるでしょ? 私の気持ち、受け取ってくれるよね? そのための素敵な能力を持ってるんだから」
生まれ持った特性。嫌で嫌で仕方なかった体質。
でも、今こそ使わなくてどうするのか。
この
百花さんの髪の香の効果はまだ続いている。僕の五感は鋭さを保ったままだ。
もっと。もっと極限まで研ぎ澄ませろ。
先生の声を拾え。
「朔く——」
—— 受け取ったものをどう使うかは自分で決めていいんだよ。もし迷ったら、
何かがかちりと嵌まるような感覚があり、回線が繋がった。
『服部 朔!』
はっきりと耳に届く、聴き慣れた先生の声。
視界が暗い。さまざまな情念が濃密にひしめき合って、渦を巻いているのが分かる。
すぐ側を、対岸を、幾人もの人々がゆらりゆらりと行き過ぎる。多くが女性で、誰も彼も恐ろしく顔色が悪い。
ここはきっと
二人が引き込まれた幽世は、かの時代で刻を止めている。
視線がちらりと下へ向く。腕の中では、百花さんが長い睫毛を伏せてぐったりしている。いつもより小柄で可憐に見えるのは、これが先生の視覚だからか。
『ここで集められるだけの情報は集めた。今からそっちへ戻る。合図したら君の結界を解くもんで、気の流れを作ってくれ。チャンスは一度きりだ』
気の流れを作る。僕が取れる方法と言ったら、たった一つしかない。
白と黒のモヤを纏った彼女が、不意に僕の顔を覗き込んできた。急に自分自身の感覚へと引き戻される。
「あぁ、結界の効力もそろそろかしら。やっと朔くんに触れられるわ」
チャンスは一度きり。結界が消えたら、僕の意識はたちまち彼女に乗っ取られるだろう。
「嬉しい、朔くん」
ねっとりした言い方だった。背筋がぞっとする。
鼻先が触れそうな至近距離でも、彼女の顔はやはり真っ暗な空洞だ。
その
もう一段階、結界が薄らぐ。
僕は這うようにして慰霊碑の側へと移動する。
「逃げても無駄よ」
彼女が追ってくる。
僕はスマートウォッチの鎖を手首に巻き付けると、立ち上がって彼女を迎え撃った。
『今だ』
先生の合図と共に、護りの力が掻き消える。
彼女の腕が僕に向かって伸びてくる。
僕は背にした石碑の気を受けて、強く強く柏手を打つ。
ぱぁん、と、空間が弾けた。
『開け』
低く
きぃん……と、耳の奥でハウリング音が鳴る。
湧き上がる気が
「きゃあっ!」
彼女が車椅子ごと吹き飛ばされた。
僕は咄嗟に目を瞑る。
風が収束し、確かな実態を伴った大きな気が真横に現れた。
ゆっくり瞼を上げると、すぐ隣には洒落たスーツ姿のすらりとした男性。
「やぁ、待たせたね」
「先生!」
我が師匠、樹神 皓志郎先生その人だ。瞳を閉じたままの百花さんを横抱きしている。
体勢を立て直した生霊が、空中を滑るように向かってきた。
「おのれぇっ!」
先生は百花さんを抱えたまま器用に片手で僕の肩に触れる。
「服部少年、時計を相手に向けろ」
「えっ、はい」
言われた通りスマートウォッチを生霊へ向けた、次の瞬間。
「捕縛」
凄まじい力が刹那のうちに僕の身体を駆け抜け、勢いよく前方へと放たれた。
「……!」
生霊は声を上げる暇もなく動きを封じられ、地に転がる。幻影の車椅子はもう跡形もない。
もちろん僕も声一つ出せなかった。雷に撃たれたかのように全身が痺れている。
「おー、いいね。時計の性能上げたのもあるけど、服部少年自身がいい触媒になったな」
「ひっ……人を勝手に拡声器代わりにしんといてくださいよ」
信じられない、この人。
「いやぁ、無事に戻ってこられてホッとしたよ。さすが、タイミングばっちりだったな。君がおってくれて良かった」
まだ僕の心臓はばくばく暴れている。情緒の落ち着けどころを見失い、呆れを伴った笑いが込み上げてきた。
「ははは……」
つい先ほどまで僕の胸に巣食っていた闇は、嘘のように払拭されている。何だか憑き物が落ちた気分で、スマートウォッチを先生に返した。
しかし、あれだけの気が発生しても、百花さんはぴくりともしない。
「百花さん、大丈夫なんですか?」
「問題ないよ。百花さんから前世のこと聞いただろ。彼女の持つ魂の一部がこの辺の霊と親和性ありすぎて危険だったもんで、簡単には触れられないレベルの深層まで俺が昏睡させた」
「なるほど」
「本人はギリギリまで正気で粘っとったけどな。おかげで、あの霊のこともいろいろ分かったよ」
百花さんという一人の女性の中にある、二つの魂。
彼女自身が言っていた。前世のことがあるから、遊女の無念は他人事じゃない、と。
「気付いたか、服部少年」
「あの霊ですか? そうですね」
先生の術で捕縛された霊は、未だ身動きが取れずに痙攣している。
白いモヤと黒いモヤを、互い違いに明滅させながら。
それは一人分の形を取ってはいるけれど。
「百花さんと似たような状態、なんですね」
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