4-6 記憶の扉

 狭間の世界に来た途端、背中の皮膚がそわそわと粟立った。しかし覚悟していたほどではない。


「今のとこ、取り立てて妙な気配はないね。病院の中に入ってみるか」


 樹神こだま先生を先頭に、赤く染まったモニュメントから正面玄関へと回る。

 自動ドアは半開きだった。誰かが通るのに反応した結果のようだけれど、その人物の姿はない。

 静止したガラスの扉は割と簡単にこじ開けることができた。


「これじゃ手動ドアだな」


 先生のおっさんくさい独り言を、拾う者もいない。


 広いロビーに三人分の靴音だけが響く。

 匂いはない。温度もない。それなのに、かつてここを訪れていた時の重苦しい気持ちが蘇ってくる。

 無秩序なざわめきと、消毒液の匂いと、自分に充てがわれた不穏当な立ち位置を錯覚する。

 その奥に、かすかな希望があった。へ向かうことだけが、僕の心を支えていた。


「服部少年、何かピンとくるものはある?」


 声をかけられ、ハッとした。


「いえ、よく分かりません。だけど……」

「だけど?」

「何か、中庭に用事があったと思います」

「中庭か。君が囚われたのもそこだったな。行ってみよう」


 記憶にあるままの道順を辿っていく。

 あのころと同じ、しかし色味だけは全く違う、赤い廊下に赤い壁。もし人の姿が見えたなら、看護師さんたちの白衣も赤く染まっていたのだろうか。

 通路の壁には高齢の入院患者がリハビリで描いた絵手紙のコーナーがある。端から端まで夕暮れ色に沈んだそれらも、本当はきっとさまざまな色で塗り分けられているはずだ。


 知らずにこびり付いていた感覚が、生々しくて嫌になる。

 せっかく五感が不自然なフィルターで覆われているのに。


 鬼が出るか蛇が出るか。意外と何も出てこなくて、がっかりしながらホッとする。

 腹を括ってきたはずなのに、心のどこかで恐れている。

 だけど、逃げるわけにはいかない。自分の過去と対峙するかもしれないという事実から。


 やがて中庭へ続く扉が見えてくる。

 こめかみがずきりと痛んだ。同時に、胸の奥も。


「ここだな」

「はい……そうだと思います」


 サッシの引き戸を開けて、三人揃って中庭へと出る。

 その瞬間から、空気が変わった。いつの間にか肌に馴染んでいた怖気おぞけの素が、もう一段濃くなったような。


 先生が懐中時計型スマートウォッチを握り締める。


「用心しろよ」

「もちろん」


 百花さんが懐から煙管キセルを取り出し、髪からかんざしを抜き去る。

 ふわりと空中に躍った長い黒髪から、甘く華やかな匂いが拡がる。それが鼻に抜けて頭の奥まで染み渡ると、一気に神経が研ぎ澄まされた。


 そこで僕は感知する。わずかではあるが清廉な気を発するものが、その空間に存在することを。

 花壇の横にあるベンチ。更にその奥にある——石碑。


「あれ、慰霊碑ですね」


 ここへ来ていた理由は未だはっきり思い出せなくとも、目に映る景色には既視感がある。

 あの石碑は、確かに昔からこの場所にあった。見ていると少し心が落ち着くような気がしていた。


 ——私もそう思ってたの。たくさん人が死ぬ場所だから、天国へ行く人が寂しくないように、ここにあるのかもね。


 それは誰の声だったか。喉の奥がぎゅっと詰まった。この慰霊碑に、何か思い出があったのだ。掴めそうで掴めない。

 はっきり分かるのは、病院へ来る前にお参りした寺の弁財天さまと同質の気を発しているということだけ。ただし、感覚を拡張してやっと捉えられる程度の弱さだ。

 力を貸してもらえるだろうか。


 僕は慰霊碑の前に立ち、静かに手を合わせて拝んだ。ただ純粋に、護りの気を感じ取る。


 その時。

 空間がバリバリと破れるような音がして、凄まじい悪寒が全身を駆け巡った。


 先生と百花さんが瞬時に身構える。

 今までとは段違いの緊張感に、手足の痺れを感じた。

 どこからともなく声が聴こえてくる。


「あぁ、あなただったのね」

「……え?」

「また会えて嬉しいわ」


 たちまち、視界に入る全てのものがスローモーションになった。


はっと——」


 僕を呼ぶ先生の声が途中でかき消える。

 百花さんが煙管を構えるのも見た。しかし吸口は唇に触れずに終わる。

 気付けば、二人ともあっという間に動きを縛られていた。


「先生、百花さん!」

「ここ、私のねぐらなのよ。勝手に人ん入るなんて泥棒と一緒ね」


 僕の真横、ベンチの端に、誰かが座っている。人の形をしたの塊。顔貌かおかたちまでは分からない。

 しかし、紛れもなく石神神社で出くわした相手だと、気配からも分かる。

 ここは、この強大な霊体の力が最も強く発揮される縄張りの中なのだ。


「あれ、こないだの嫌な男じゃない。そっちはあの香り使いの女ね」


 人型がぱっと消えた。

 かと思えば、百花さんの目の前に現れる。

「へぇ、なるほどね。この女、中身ドロッドロじゃないの。綺麗にしてても誤魔化しきれてないわよ」


 あざけるような言い方だった。

 思わずカチンと来る。


「百花さんのこと、何も知らんくせに」

「あら、こんな年増が好みだったの?」


 今度は、僕の正面に。白い腕がこちらへ伸びてきて、ハッとする。

 心を乱すな。入り込まれる。

 さっと身をかわして、一つ深呼吸。先ほど食べた焼菓子が腹の中にある。百花さんからもらったものだ。


「せっかくだから、あなたと二人きりで話がしたいわ」

「先生たちを解放しろ」

「それは難しいわね」

「だったら、どうやって二人きりになるんだよ」

「じゃあ、あいつら消しちゃおうか」

「いや、それは……」


 考えろ。考えろ。何かあるはずだ。

 中庭を脱出すれば、恐らく相手の完全支配からは逃れられる。しかし当然、先生と百花さんを残しては行けない。

 この空間は今、あの霊の『念』で満たされ、張り詰めている。

 まずい。どうしたらいいのだろう。嫌な汗が背筋を伝う。


 ふと、先生の呻き声が耳に入った。


、を……」


 わずかに異能の乗った言葉。自由の制限された中で先生の飛ばした思念だ。僕が閃くには、それで十分だった。


 相手は僕が慰霊碑を拝んだ直後に現れた。


 ——あぁ、あなただったのね。


 もしかして、自分の領域内で気の流れで異変を察知し、様子を見に来たのではないか。

 その仮説が正しければ、慰霊碑は通気口になり得るということだ。


 では、先生の言う通り、気の流れを開けば?


 思うが早いか、僕はその場で二度、柏手を打った。

 石碑の持つ護りの気が一時的に高まり、外から別の気が吹き込んでくる。

 空間内に蔓延っていた、目には見えない嫌なわだかまりに流れが生じる。


 即座に二人が解放される。すかさず先生が叫ぶ。


!」


 白いモヤが、ぴたりと動きを止めた。スマートウォッチの性能は確かに上がっているようだ。


「ひとまず中庭から出よっか」


 百花さんに促され、僕は出口へと走る。

 しかし。


「うわっ!」


 開きっ放しの戸をくぐろうとした瞬間、見えない壁に弾かれた。


「閉じ込められたってことね」


 石神神社の時もそうだった。狭間の世界において、神社の敷地内から出られなかった。


 生霊は先生の容喙声音インタヴィンボイスに縛られたままだ。それでもなお影響力があるとは。


 先生はスマートウォッチを白いモヤに突き付けたまま言った。


「百花さん、服部少年を」

「了解。服部くん、大丈夫よ。ちゃんと帰したげるから」


 百花さんが煙管を吸った。すぼまった唇から細い煙が吐き出されると、何かの果実に似た芳しい香りが僕の鼻先を掠め——


「させないわ」

「うっ……」


 どこからともなく現れたが、百花さんの口を塞いだ。それはいつの間にか彼女の身体の至るところに絡み付いている。


「あなた、でしょ」

「んっ……あっ……」


 百花さんは必死に抵抗しようとしている。だけど、抜け出せない。そうこうするうち、足元から地面に沈み始めた。


「百花さん!」

「まずい、引き摺り込まれる!」


 先生が地を蹴った。白いモヤへの拘束を説きつつ、力を乗せた声を紡ぐ。


!」


 僕の方へとスマートウォッチが放られる。それを反射的に受け止めると、僕の全身を強力な護りの力が覆う。

 初めて見る術だ。修理ついでに新しい機能も搭載されたらしい。


 僕が呆気に取られている間に、先生は沈みゆく百花さんの手を躊躇いなく掴んだ。黒いモヤは繋がった腕を伝って、瞬時に先生の身体にまで波及する。


「必ず戻る! 耳を澄ませろ!」


 その言葉を残して、先生は百花さんと共に闇へと呑み込まれた。

 とぷん、と。まるで液体の如く波紋を描いた黒は、そのまま何事もなかったかのように霧散する。

 

 そして、ただ僕だけが赤い景色の中に取り残されていた。


「せ、先生……百花さん……」


 先生のスマートウォッチを握り締め、膝から崩れ落ちる。

 そんな僕に声がかかった。


「やっと二人きりになれたわね」


 白いモヤに、黒いモヤが重なった。それは次第に、はっきりとした人の姿になる。

 小柄で華奢な体躯。花柄のパジャマを着て、車椅子に座った女の子。


「久しぶり、はじめくん」


 こめかみに鉛の棒でも突き刺さったような痛みが走る。


 ——指切りげんまん、嘘吐いたら針千本、飲ーます。


「君、は……」

「やっと思い出してくれた?」


 刹那のうちに蘇る、七年前の記憶。


「君は……?」

「まだ思い出せない? 私、朔くんとこの場所で」

「そのことは、思い出したよ……毎週、ここで会う約束をしとったんだ」

「だったら」

「違う」


 週に一度の祖母のお見舞い。病室を抜け出して、間違いなくこの中庭に来ていた。

 その上で、相手に問う。


「君は、誰だ?」


 墨で塗り潰されたように顔だけが見えない、目の前の彼女に。

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